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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.30)

                  何処に道があるのですか?




                       葦の海を二つに分けた方に感謝せよ。
                       慈しみはとこしえに。
                       イスラエルに、その中を通らせた方に感謝せよ。
                       慈しみはとこしえに。
                       ファラオとその軍勢を、葦の海に投げ込んだ方に感謝せよ。
                       慈しみはとこしえに。
                       イスラエルの民に、荒野を行かせた方に感謝せよ。
                       慈しみはとこしえに。

                                                                                 【詩篇136篇13~16節】


二通りの「道」
 「道」には①見える(見え易い)道(道路)と、②見えざる道(神の道)があります。この中で二番目の道を、霊の眼をもって見出す者は、三次元的に「見え易い(妥協し易い)道」、つまり人間的な方法(みち)を選択しません。たとえ目の前の現状が、断崖絶壁(或いは巨大な壁)の如きものだったとしても、ひたすら神の「守り」と「導き」を信じて、そこにある「神の道」を登って行くのです。


 今回の御言葉に示される重要ポイント、それはイスラエルの民が、如何なる「道」に導かれたのか?という点です。はっきり申し上げて彼らは、目の前の「現実(葦の海)」を見せられた時、すぐに恐怖の霊に満たされ、「無理だ!もはや進めない。」という選択をしました。


 そのような場合に、私たちも同様の不平(不信仰の言葉)を、つい吐くことがあります。「主よ、何処に道があると言うのですか!」と。これは「もう終わりだ。(進める)道は何処にも無い!」という三次元的選択です。


 覚えて戴きたいことは、主なる神が用意される「道」は、私たちが肉の次元で判断するような、見え易い妥協的な道(方法)ではありません!今回の御言葉には、明確に「二つの道」が示されています。第一の道は、葦の中に分けた「神の道」であり、第二の道は荒野(砂漠)にある「見えざる道」です。どちらの道も、道なき道であり、決して「目的地」に辿り着けるかどうか、保証無き「見えざる道」です。


 モ-セの場合は、この神が定めたル-トを、以前(エジプトから逃亡していた時期)に訓練された、「神の道」として把握していましたから、何の「文句」等も出ませんでしたが、イスラエルの民の場合は、次から次へと「不平」を並べ立てるなど、神の「恵み(日々の糧)」を感謝しながら、荒野の「道」を歩くことは、決してありませんでした。


 実は私たちの「信仰生活」にも、彼ら同様の「呟き(不信仰)」があります。例えば、昨日までの神の「恵み」は感謝できても、霊的「葦の海」や「荒野」等の問題が、目の前に出現した時、即「主よ、何処にあなたの(今日の)恵みが、横たわっている(注がれている)と言うのですか!」と。


「葦の海」と「荒野」にある学び場
 先ず霊的な「葦の海(紅海)」とは、私たちの信仰生活に、如何なる役割を果たすものでしょうか?イスラエルの民は、目の前に広がるフィ-ルド(葦の海)を見て、「死」のフィ-ルドと判断しました。しかし主なる神は、そこを「(左右に)分断」しました。つまり、彼らが「死」のフィ-ルドと判断した、その真ん中に「神の道」を用意したのです。


 その目的は、彼らにあることを学ばせるためでした。つまり「死」のフィ-ルドを通過することで、如何なる状態にあっても、主なる神は彼らを絶えず守り導くなど、必ず責任を果たす方であることを知る、この第一の「学び場(学校)」が、「葦の海」の中央に敷かれた、神の「正しい道」でした。


 次に霊的な「砂漠(荒野)」とは、私たちの信仰生活に、如何なる意味を持つのでしょうか?彼らは、主なる神の為された、幾多の「奇跡」の体験、つまり「日々の糧(マナ)」、「鵜(うずら)の肉」、「命の水」を、この「砂漠」において、毎日与えられていたにも関わらず、彼らは「過去の幻」、「過去の欲望」に囚われて、「不平(不信仰の言葉)」を吐いたのです。


 霊的な「砂漠」において、主なる神が用意した学校は、「選り分ける」という名の「学校」でした。残念ながら、この「学校」を卒業できたのは、ヨシュアとカレブを筆頭とする次(第二)世代でした。主なる神が「この世(エジプト)」から贖い出した以上、私たちキリスト者は、そこに戻ってはなりません。たとえ「砂漠」が広がっていても、「神の道」を信じて、ひたすら(前を向いて)歩んで行くことです。


 時折、私たちは霊的な「砂漠」を進む中で、疲れ果て次のように呟くことでしょう。「主よ、何処に道があると言うのですか?」と。すると聖霊様は、「ここ(砂漠)に、主なる神の御心がある!(後ろにある)他の道を探し回るのではなく、先ずは静まって祭壇を築き、ここにある神の御心を求めなさい。」と、霊的促しを盛んに為されます。


 その時に私たちは、「主よ、私には未だ見えませんが、必ずあなたの見えざる道が、私の前に用意されていることを信じます。あなたの用意される神の道(大路)を、私が一歩一歩進み行くことが出来るよう、信仰の足も与えて下さい。何よりも霊と真をもって、何処においても、感謝の生贄を捧げることが出来る、真の礼拝者へと、この私を聖めて下さい!」と、信仰告白を大胆に宣言するのです!


「感謝」をもって進み行く
 「感謝」とは、一体何でしょうか?もし私たちに、如何なる「荒廃したフィ-ルド」においても、自分の力で「平坦な道路」を造る、技術(力量、財力)等があるのであれば、いちいち「感謝」の言葉は生じません。出エジプトした、イスラエルの民の第一世代は、神の道が「砂漠」に用意されていることを、何となく分かっていたにも関わらず、「駄目だ。ここは道ではない。もう耐えられない!エジプトに戻る道の方が、ここよりましだ!」と、不平不満を漏らしたのです。


 しかし、ヨシュアとカレブたちの第二世代は、「砂漠」にある神の「選り分けられた」道を、信仰の目をもって見出し、「感謝」の言葉を捧げたのです。「全てが奇跡である。私たちは生きているではないか!ここ真っ直ぐに進み行けば、必ずゴ-ル(カナン)が見えて来る。だから、これからも私たちを、砂漠において必ず守り導いて下さる、主なる神に感謝を捧げ尽くそうではないか!」と。


 これが真実の「感謝」表明です。即ち、如何なる場合(状態)の中にあっても、私たちは「神に生かされている」、また「神の御力によって守られている」、そして何よりも大事なことは、「神が常に愛して下さっている」など、この「神の事実」の中で、私たちは日々生かされて、一歩一歩と前進出来るのです。


 そうです!私たちは、イエス・キリストが明言された、「明日の事で思い患ってはなりません!」の御言葉通りに、「全ての時」を生かして下さる、天の「恵み(神の国と神の義)」を求めましょう。昼も夜も「寝ずの番」をもって、私たちを守り導いて下さる、主なる神の「御恵み」に、私たちは素直に感謝しながら、一歩一歩進み行くことが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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