バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.28)

         エジプトの初子を台無しにされる方




                                  エジプトの初子を討った方に感謝せよ。
                                  慈しみはとこしえに。

                                                                                 【詩篇136篇10節】


何を「土台」とするのか?
 創造主なる神は、霊的次元において幾らでも、この世(霊的エジプト)の「権威」や、世の人々が頼みとする精神的「土台」を、ひっくり返されることがあります。「台(寄りかかって頼みとするもの)」を無くす、つまり台無しにされる訳です。


 ある者にとっては、それは「金銭」であり、またある者にとって「権勢」や「名誉」かも知れません。しかし私たちキリスト者(神の民)は、そのような土台を頼みとするのではなく、「信仰」の創始者であり、完成者なる主イエス・キリストを、堅固な岩(永遠の土台)としています。


 何故私たちは、「永遠の愛」を賜って下さる主なる神に、特に今回の表現にある、「エジプトの初子を討った」という、神の大いなる事実に対して、常に感謝を捧げるべきでしょうか?その中で、私たちが第一に知るべきポイント、それは「この世の人々は、何を土台として生きているのか?」という点です。


 「この世(エジプト)」が展開する競争は、「台」の大きさ、安定度、品質の優越性等をベ-スにして、様々に走り続けます。この競争の第一の理屈は、「一番に・・・・」という順位付けです。第二の理屈は、「初子」の基準となる男子という性差別です。第三の理屈は、「実績(成果)主義」という名の、報酬システムです。


 そのような土台を、主なる神は何故、「台無し」にされるのでしょうか?それはエジプトの「土台」によって、暗黒化(ブラックな状態に)されたフィ-ルドに、隷属的に生きる人々を解放する、つまり「真の光」に覆われたカナン(神の国)へと、出エジプト(エジプトから離脱)するためです!


 私たちは何故、この世の「競争」原理ではなく、主なる神が示して下さる霊的レ-スを、忍耐の限りを尽くして走り抜くことが出来るのでしょうか?「エジプトの初子を討つ」ことは、主なる神が明確に約束して下さった「保証」です!と言うことは、今の時代にも、この「神の事実」は信仰のゴ-ルであり、神がエジプト的「土台」を、完全に台無しにされるからこそ、私たちは安心して走り抜くことが出来るのです。


神の国の「レ-ス」
 故に神の国の「レ-ス」、その神の用意したトラックを、常に走り続けている!というイメ-ジを、私たちは常に思い描く必要があります。神の国の「レ-ス」の第一の特徴は、この世の理屈(勝ち負けの論理)という靴で、走っているのではない!ことです。それは「共に建て上げる(一番、二番、・・・・という順位付けは無用)」ことを目標に、神の「御体」に組み込まれながら、最終的にゴ-ルに一緒に辿り着くなど、麗しい「イエス・キリスト」を靴として走ります。


 第二の特徴は、「イエス・キリスト」を長子とする、麗しい「神の子供」として走る群れである!ことです。ですから長子に見習って、その後を走れば良い!という安心感が、私たちにもたらされます。しかも私たちの霊的長子は、自ら「救い」の初穂(生贄)となられた!この事実に基づいて、私たちは「忍耐」の限りを尽くして、走り抜くことが出来るのです。


 第三の特徴は、「権勢よらず、能力によらず、我が霊によって・・・・」(ゼカリヤ書4章6節)の預言にある如く、「土台」どころか、煉瓦を焼く「良き土」も無いところに、主なる神が御使いを通して示したこと、つまり「神の事実(ゴ-ル)が見える!」という点です。それは必ず、神の御力を現す「兆し」となって、私たちの信仰を燃え立たせる、霊的原動力となります。


 ゼルバベルに語った、御使いの預言の言葉を直訳しますと、「あなたは必ず完遂するであろう。但しそれは、あなたの力によってではない。人間的な軍事力によるのではなく、あなたが持っている、ありとあらゆる能力によってでもない!それは私が遣わす、上よりの神の霊(聖霊)によって、初めて為し得ることである。」となります。


 続けて御使いは、ゼルバベルに語ります。「あなたの前に立ちただかる、山々の数々を見なさい。これらのものは決して平らにされることは無い!と、あなたは思うであろう。しかし神の霊によれば、これはたちどころに消え失せ、全てが台無しにされる程、必ず平らにされる!するとあなたは、懐から親石を取り出すであろう。その親石を、神の宮の基として据えれば、一気に事は完成するのである。但し覚えておきなさい。それは全て、神の霊によって為されるのだ!」と。


真の「親石(土台)」を据えなさい!
 エジプトの権威(初子)を、ことごとく台無しにされるだけであったら、私たちは「次からどうしたらよいのだろう?」と悩むことでしょう。しかし主なる神は、台無しにされる理由を、ゼルバベル(私たちも含む)に示しておられます。


 それは、本来私たちの「霊」の中にある真の「親石」、即ち神の御子イエス・キリストを土台とする、上よりの「信仰」を、私たちは持っている訳ですから、私たちが「霊」の中心に、その親石を据えるのであれば、神の宮が一気に、私たちの中に確立するのです!


 何故私たちは、そのことに気付かないのでしょうか?私たちの中に住まわれる、イエス・キリストを信じる限り、霊的初子である御子は、永遠に滅びることの無い霊的土台です!ですから私たちも、いい加減目を覚まして、霊の眼でしっかりと「親石」を見るべきです。


 私たちは、エジプト的な環境に生きざるを得ない、弱いキリスト者でありますが、永遠に壊れる(廃墟となる)ことの無い、「親石」を持っている自由人です。「親石」とは別名「かしら石」とも言い、四隅に据えることで、建物を構造的に支えたり、地震や風雨に絶え得る程の、強力かつ安定した土台(礎石)となります。


 何度も言いますが、私たちの「信仰」は常に、神の麗しい次元の中にあるのであって、エジプト的なものを頼みとする、奴隷人の如きご利益主義を頼みとして、私たちは生きているのではありません。「信仰」を働かせなければ、神の麗しい次元は見えて来ません。ですから、私たちの「信仰」の創始者、完成者なるイエス・キリスト(隅の親石)を、常に懐から取り出して確認し、かつ霊の只中に据えましょう!


 「心配事」と「不安事」だけが増加する、エジプト的な環境にあっても、私たちはキリスト者として告白しましょう。「神の霊によれば、どうにかなる(必ず事は成就する)!」と。


 主なる神の大いなる「祝福」と、イエス・キリストの「慈しみ」が、あなたの「信仰」の歩みの上に、豊かにありますように。またあなたが、エジプト的なものに一切頼ること無く、自分の能力に頼ること無く、聖霊様に依り頼みながら、天より降る御力によって、一歩一歩前進できますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する