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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

信仰の完成(No.28)

                      初心忘れるべからず




・・・・彼らが苦難の中から叫び声を上げると、あなたは天にあってそれを聞き、豊かな憐みをもって、次々と救い手を送り、・・・・救い出して下さった。・・・・律法に立ち帰るようにと、あなたは彼らに勧められたが、彼らは背を向け、かたくなになり、聞き従おうとしなかった。長い年月あなたは忍耐し、あなたの霊を送り、預言者によって勧められたが、・・・・彼らは耳を貸さなかったので、諸国の民の手に彼らを渡された。
                                                                                            【ネヘミヤ記9章22~30節】


忘れるべからず!
 ご存知のように「歴史書」というものは、所詮人が書き著すものですから、都合の良い解釈を挿入するなど、書き手の自由な意志によって、「事実」を客観的に記すことは滅多になく、時の公的権力の見えざる圧力に影響され(歪められ)ます。


 つまり国家としての「愚かしさ(失敗的側面)」は、殆どと言ってよい程、記述されることはありません。何故なら、人は「つまらない部分」や「恥ずかしい汚点」には「蓋」をするなど、いずれは国民は忘れ去る(消去する)だろう!と思うなど、これが罪人の特徴だからです。


 しかし私たちキリスト者は、決して「忘れるべからず!」です。つまり最初の人(アダムとエバ)が、主なる神が命じた「ご命令」から逸脱し、自分勝手に解釈して歩み始めた!という「罪の原点」に回帰し、そこから霊的にスタ-トし(悔い改め)なければ、いつまで経っても「愚かしさ」を繰り返すからです。


必ず贖い出して下さる神
 今回の記事から学ぶべき第一の奥義、それは私たちの信じる主なる神は、この世の人々が信じる「困った時」の神(頼み)の次元にではなく、永遠に真実な方である!という、素晴らしい天的次元に存在する神です。そうです!父なる神は如何なる時にも、また私たちが如何なる者であったとしても、救いの御手をもって、必ず贖い出して下さる方です。


 この点を覚えながら私たちは、聖霊様の大変革の恵みを受けた、使徒ペテロの信仰告白通りに、「私には金銀は無い!しかし主イエス・キリストの御名により、立ち上がり歩きなさい!」と、自らに信仰的叱咤を命じるべきです。


 そうです!私たちは母の胎から生まれ出た時、何も持たずに産み出されました。ところが気付いて欲しい点は、へその緒を切られる以前は、母親の血潮から運ばれるエネルギ-(酸素、栄養等)によって、赤子の命が保たれていたのに、へその緒が切られた瞬間から、今度は「新しい呼吸」が始まり、次には自然と母乳を慕い求めるという、素晴らしい次元(命のリズム)の中に生きるようになった!という点です。


 ところが成長して行きますと、次第に母乳ではなく、別のものを求めるようになります。自分の欲しいものを求めて、自分の足の力で歩くなど、自分の知恵に依り頼んだ行動をし始めますと、私たちはある大事なことを、忘れて行くのです。それは「生かされている!」という謙虚さです。


 ですから、私たちが「勝利」と「祝福」の恵みを受けた時が、実は非常に肝心な時になります。悪魔サタンは、あなたが「正しい」から、またあなたが「成功した」から、当然の結果として「勝利」と「祝福」を得た!ものと錯覚させます。そうです!私たちは「頂点」に達した時に、霊的に試されるのです。


 祈り求めている間は、また助けを求めて叫んでいる間は、私たちは謙虚になれます。ところが得た瞬間から、突然に「忘れる」のです!しかし私たちが、霊的スタ-ト地点(罪の原点)に立ち帰り、再び真実の礼拝を捧げるのであれば、罪の失敗(ミス)を悔い改めることで、大いなる神の「赦し」の恵みが用意されるのです。


神を畏れ敬うこと!この初心に立ち返る
 では何故「人」は、主なる神の「戒め」を何度も忘れるのでしょうか?これが今回の第二の奥義です。その代表的人物は、ソロモン以外に見当たりません。彼は「主を畏れることは命の源。死の罠を避けさせる。」(箴言14章27節)と述べていますが、原語としては「あなたが死を避けたいと、真剣に望むのであれば神を畏れ敬うこと、これこそが命を保つ全てである。」となります。


 これはソロモンが犯した、数々の「失敗」の愚かしさから学んだ、知恵の教訓です。つまり「箴言の書」にしても、また「伝道者の書」にしても、それは言わば罪人の「失敗」のファイル(歴史書)です。ソロモンは「人」という生き物が、常に忘れ易い存在であることを、十分に知っていました。また「失敗」の愚かさの原因が、「神を畏れ敬う」ことを忘れてしまう!という「罪」から生じていることを、聖霊様を通して学びました。


 主なる神の「臨在」や、素晴らしい「御恵み」などを、私たちはすぐに忘れてしまう、即ち神を知ろうともしないし、又知っていると過信するなど、それらを拠り所とする愚かな部分があるため、私たちは神の「戒め」を忘れるのです!


 非常に興味深いことに、ソロモンは箴言の書の14章の冒頭で、「知恵ある女(私たち)は家庭を築く。(しかし)無知な女は自分の手でそれを壊す。」と述べています。「壊す」とは、物理的に破壊することではなく、大事なものを自らの愚かさゆえに、「失う(崩壊させる)」ことを意味します。ここでソロモンは、まさしく自分を含むイスラエル民族のことを、「無知な女性」として喩えています。


 しかし憶えて戴きたい事実、それは私たちの「霊」には、知恵の泉たる「聖霊」様が、天より降り注がれているという点です。その聖霊様が一番に望んでおられることは、私たちが「真の知恵」である、イエス・キリストの御元に常に馳せ参じながら、御子を畏れ敬う(礼拝する)ことです。


 自分の「知恵」に依り頼む者は、必ず神の「戒め」を軽んじ、神ご自身を忘れるなど、霊的に傲慢な生き方へと変貌します。しかし私たちが畏れ敬う(礼拝する)べきお方は、イエス・キリストだけです!私たちは今後、大いに試されていくことでしょう。それは聖霊様(霊的仲人)による「振るい分け」、即ち「賢い乙女」と、「愚かな乙女」という、二つのグル-プ分けのことです。


 「賢い乙女」たちは、救いの巌(イエス・キリスト)にのみ、生活の拠り所、生命の拠り所、信仰の拠り所として置き、この世がもたらす、三次元的数字に惑わされることが無きよう、常に「祈りの油」を欠かすことがありません。神の「知恵」によって、私たちが生かされる時に初めて、私たちは「愚かな乙女」ではなく、「賢い乙女」として聖別されて行くのです。


 あなたが主なる神の「恵み」の中で、イエス・キリストにある「勝利」の人生、そして神のみを畏れ敬う信仰生活を、更に送ることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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