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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.23)

           この世の君には無い偉大なる御力




                                             主の中の主に感謝せよ。
                                             慈しみはとこしえに。

                                                                   【詩篇136篇3節】


「真実な力」の根源
 この世の「君主(首長)」が持つ「力(Mighty)」の根源は、民衆(国民、市民)からの絶大なる支持であり、彼らはその「君主」から現れ出るパフォ-マンス、即ち外側(言葉上)の「輝かしさ(巧みな弁舌)」に惹かれる傾向にあります。


 ところが聖徳太子、ガンジ-、M・キング牧師などは、自らの使命(仕事)に対して、パフォ-マンス的に着飾ることなく、黙々と実行していくので、最終的には迫害されますが、彼らは「裸(真実な生き方)」になることを、決して「恥」とは思いませんでした。彼らの信念を突き動かすもの、それはイエス・キリストの「生き様」に倣うことでした。


 彼らの一貫した行動の結果、「何」が起きたのでしょうか?確かに彼らは、迫害の中で「命」を落としました。しかし、殺された側の彼らに共通している点は、時の権力者(この世の君)が恐れる程の、見えざる偉大な「力(真実)」を持っているということです。この偉大な「力(真実)」を見せられては、世の君主たちは逆に、自らの「恥」が顕にされてしまいます。即ち「裸」になれない、不誠実な生き方です。


 詩篇の作者は3節において、この世の「君」の偉大な力と、主なる神の真実の「御力」は、到底比較にならない程の次元にあることを、高らかに詠っています。ですから私たちも、主なる神の「御力」の根源を知ろうと(求めようと)しなければ、この世の人々と何ら変わりません。


 そうです!私たちの信じる神の御子、イエス・キリストの「御力」は、この世には全く存在しない、永遠の「御力(真実)」の中にあり、それは唯一無二のものです。それ故私たちが、イエス・キリストの永遠の「御力」の根源を知れば、この世の如何なる「力」にも屈することの無い、天上からの信仰を戴くことが出来るのです!


イエス・キリストの「御力」
 このイエス・キリストの、永遠の「御力」の根源について、パウロはピリピ書において、次のように述べています。


キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名に優る名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のものが全て、イエスの名にひざまずき、全ての者が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神を讃えるのです。
                                                                                               【ピリピ書2章6~11節】


 イエス・キリストが「真の主(君主)」である!と、全ての者が公に言い表すとは、イエス・キリストが、誰もが認めざるを得ない、偉大なる次元にある、真実の主であることを意味しています。その根拠は先ず①御子が神の身分であること、つまり至高者なる神であること。しかしその身分に固執すること無く、イエス・キリストは②あえて卑しい身分の「人の子」として、この世に遣わされたことです。


 と言うことは、本来の自分にある天の「御力」を、一切使用すること無く、ひたすら「人の子」として、父なる神の「真実性」を現すべく、③徹底的にへり下った人生を選択しました。イエス・キリストは、常々人里離れた山にて、父なる神の「御心」を祈り求めました。


 「父よ、私は最終的に何をすべきでしょうか?」と。すると主なる神は「愛する息子よ、(すでに)分かっているはずだ。全ての者の罪の贖いの生贄になりなさい!あなたの死をもって、私は真実の愛を全うしたいのだ。」と、悲痛な声をもって答えました。それに対して御子は「父なる神よ!それが父上の御心ならば、私は喜んで十字架上に参ります。」と、激しい霊的葛藤の中で告白し続けたのです。


 ここに、父なる神の偉大なる「御力」が、イエス・キリストを通して示されています。「この世」に遣わされたイエス・キリストは、常に「死」が付きまとっていました。エルサレム入城の際には、「救い主(君)」として高らかに凱旋し、民衆たちからの支持(革命への期待)も増大したのですが、最終的には逮捕され、一方的な裁判により「死刑」宣告を受けます。


 このイエス・キリストの「御力」の根源は、まさしく父なる神が御子に現したい①真実の愛、また②「卑しい立場」の者として貫く生き方、③死に至るまで従順である、最終的には④十字架の死を通して、全ての罪人の「恥」を隠す(覆う)程の「裸(贖いの罪人)」の御姿、この四つの聖なる品格にあります。


 誰一人として神の「救い」に漏れることが無きよう、御子イエス・キリストの十字架(贖いの死)を見上げ、父なる神の「真実の愛」を受け取るだけで、神の永遠の「救い」を得られることを示すこと、これこそが「この世」の権力には無い、神の偉大なる「御力」の完成した姿です。


神の「御力」にへりくだる時
 「石打ちの刑」で、もはや助かる見込みもなく、ただ「死」の瞬間を恐れながら待つ、あの罪深い婦人の前に、イエス・キリストが突き出されました。しかしイエスは、他の人々とは全く違って、彼女のことを裁きの目線で見ることなく、黙々と地面に「何か」を書き続けました。


 そして遂に「刑」が実行される直前、イエスはすっと立ち上がり、石打ちを実行しようとする彼らに対して、唐突な命令を発したのです。「あなた方の中で、罪の全く無き者が先ず、彼女に対して石を投げなさい!」と。そして何事も無かったかのように、再び地面に座られたのです。


 暫くすると、一人一人が持っていた「石」を落とし、その場を立ち去ることになります。誰一人として「罪」が全く無い!と言い切れなかったからです。そして婦人がイエス・キリストに、「御礼」を申し上げようとした時、彼は明確に宣言します。「私も、あなたを罪に定めない!」と。


 この言葉は「私は彼らと同じ次元で、あなたを罪に定めません。父なる神同様に(私も)、あなたを主なる神の次元により、正しい裁きを提供します。あなたが今!神の救いを求めて、私という贖いの生贄を、へり下って受け取るだけで、あなたは罪人というレッテルから解放されるのです!それ故、あなたは二度と、この場に戻って来てはなりません。あなたは既に自由の身です。神の御力の下に身を低くして生きなさい。」という、素晴らしい霊的祝辞です。


 もう一度繰り返しますが、一番「恥」をさらすフィ-ルド、それが「十字架」上です!私たちが「十字架」上(死のフィ-ルド)に行くことは、絶対にありません。イエス・キリストの、たった一度の「贖いの御業」により、私たちは行かなくて済むようになったからです。それ故私たちが、「十字架」上のイエス・キリストを、(信仰をもって)ただ見上げさえすれば、父なる神の偉大なる「御力」の中で、永遠の「感謝」を捧げることが可能になるのです。


 そうです!実に「死」に至るまで、父なる神に従順であられた、御子イエス・キリストに、私たちは「あなたこそ真の主なる方、この世の王には無い、真の君主としての御名があります故に、偉大なるあなたの御名を讃え、感謝の生贄を捧げます。」と宣言しましょう。


 あなたが「真の主(イエス・キリスト)」だけを求め続け、イエス・キリストの御名のもとに、常に「真の花嫁」として、仕え続けることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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