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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.33)

                   御霊の剣―変革の武具―




主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。・・・・霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
                                                                                          【エペソ書6章10~11、17節】


「敵」を知る
 かつて、中国の兵法家である孫子は、次のような兵法を説きました。「敵を知り、己を知れば、百戦して危うからず。」霊的戦いにおいて、私たちは自分自身のことも知らなければなりませんが、先ず第一に「敵」を知るべきです。私たちは霊的戦いにおいて、何一つ武器を持たずに出陣するような、「愚か者」であってはなりません!そして「敵」のことについて、全く無知な状態で戦いに臨むとしたら、もっと「愚か者」であることを何よりも知るべきです。


 例えばある人が、「ハスキー犬」という種類の犬の情報(性格、大きさなど)を知らないまま、「ハスキー犬?!そこら辺りに居る、普通の小さなノラ犬程度だろう・・・・。」などと、安易な考えでその犬に出くわしたとしたら・・・・。その犬を知っている人にとって、はっきり申し上げて「あんな巨大で、しかも狼のように鋭い目つきをした犬は、とてもじゃないが近づくだけでも身震いする!」などと、飼主でない限り誰もが「恐怖心」を思い知る、特殊な大型犬です。同様に、私たちが霊的戦いにおいて前もって知るべき、重要なことが実は多くあるのです。


 先ず第一に、あなたの「敵」は何者であり、その「敵」の持つ武器が、如何なるものであるかご存知でしょうか?第二に、「敵」の戦略(攻撃パターン)を、あなたは認識しているでしょうか?そして何よりも、「敵」は常にあなたの側近くにまで来て、あなたの「五体」から「霊」に至るまで、全てを支配しようと企んでいることを、ご存知でしょうか?「敵」は、悪魔サタンと彼に仕える悪霊たちのことです。ですから、私たちは霊的戦いにおいて、「敵」である彼らに対して、どのように戦っていったらよいのか、それを「知る」べきです。


 悪魔サタンが私たちの霊的状態を見て、一番に嫌うことは何でしょうか?サタンは、アダムとエバが「エデンの園」において、常に父なる神との関係において、本当に麗しい「一致」という結合(一体化)状態にあったことを、非常に妬むなどして忌み嫌いました。サタンが、私たちの霊的状態に対して一番忌み嫌うことは、私たちと神との「聖なる永遠の一致(交わり)の関係」です。


 「一致(結合)」を意味する英語は、「ユニオン(union)」と言います。この言葉は、結び合った状態、連結した状態、一致した状態、一つの大きな共同体のことを指します。敵」は一致した状態に対して、どのような策略(戦略)を企てるのでしょうか?サタンの常套手段は、一致した状態を引き離す(引き裂く)、つまり分離(分裂)した状態にすることです。この策略のことを、孫子は「反間の計」と説いています。相互間の正常(平和)な状態に対して、様々な謀略をもって互いに反目し合うよう、つまり「不和の状態」に仕向けることです。


 私たちは、神の聖なる軍隊(兵卒)の一員です。そして、この軍隊を統率する最高司令官は、聖霊様です。それ故私たちは、「敵」の策略に対してどのように対抗し、又勝利しながら前進して行ったらよいかなどを、聖霊様から常に指導して戴き、聖霊様の発せられる「軍令」に、ことごとく従っていくことが求められます。そして、私たちが様々な霊的戦いを経験すればするほど、聖霊様によって強められていくことを確信しながら、訓練されていく必要があります。


強くされるとは?
 新共同訳聖書では、10節の部分を「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」と訳していますが、この訳文では原語の意味(直訳)からは、日本語のニュアンスとして勘違いを与える訳し方です。私たちは「強くなりなさい!」と言われた場合、どのようなイメージ(印象)を抱くでしょうか?ある者は「分りました!では早速、強くなりましょう!」などと両手にバーベルを取り、筋力トレーニングに励むイメージを持つ方もいるでしょう。このような人々は、「自分」がよりパワフルな存在になるよう、自分の「肉の力」で自己に訓練を課します。そして「信仰」面から、あらゆる神への奉仕面において、自分の「肉の力」で物事を達成しようと、一生懸命試みて行く傾向があります。


 この「強くなりなさい!」という言葉において、一番注意しなければならないことは、人間のエゴという論理から生まれた、「弱肉強食」の考え方に陥らないことです。例えば、「あー、私は何と信仰面において、いつもダメ人間なんだろう。いつになったら、強く(勝利できる者に)なれるんだろう・・・・。」などと、悪い意味での「弱い自分」のイメージを、描いてしまう人もいることでしょう。「どうしたら、強い信仰者になれるのか?」などの「思い(疑問)」は、殆どのキリスト者が安易に思い描くものです。そしてその解決方法として、聖霊様に「強くなる方法を教えて下さい!」などと願い出ます。ある者は、自分に自信がある故「では、私がやりましょう!もっと強くなるために、自己鍛錬に励みましょう!」などと、自分勝手に進んで行きます。


 ですから、この部分の訳を霊的に勘違いしないために、新共同訳英語版から正確に直訳しますと、「あなたの中にある本来の力が、第一に主との結合によって、第二に主の偉大な力によって、建て上げられなさい!」という訳文になります。決して「強くなりなさい!」と命じられていません。「建て上げられなさい!」という受身の命令文であり、文字通りある方によって私たちが、霊的に建築されるべきである!と述べています。つまり、自分の「肉の力」で建て上げるのではなく、上からの聖霊の「助け」によって、私たちが変革されていくことを訴えています。そのために先ず必要なことは、「主との結合」という方法を通ることです。


 そして次に「主の偉大な力」、即ち聖霊様の御力を戴くことによって、私たちは建て上げられることです。神の御霊に完全に覆われる時に、主と私たちとの「一体関係(結合状態)」を、如何なる敵も引き離すことができないことを、私たちは知らなければなりません。この主との「結合」によって、聖霊が私たちに臨んで下さり、「聖なる防御(バリアー)」となられます。聖霊様が、私たちの「霊」を完全に覆って下さる時に、神との聖なる「結合状態」が保証され、いかなる「敵」の策略にも対処できます。


 全てのミニストリーから奉仕、又信仰生活に至るまで、私たちが最優先させるべき事項は、神との「親しい交わり(結合)」にあります!この霊的「至聖所」に入ること無くして、何一つ成功(勝利)することも、成長することもあり得ません。これは、あなたの中にある「本来の力」、即ち「エデンの園」においてアダムとエバが、父なる神を通して与えられていた、麗しい天上の霊的機能(本質)が、彼らの罪の結果崩壊しているために、自分の「肉の力」で主との「結合」を、再建できるレベルにないことを教え導いています。自分自身の「手(肉の力)」で、あたかも「煉瓦」や「しっくい塗り」などの、簡単な工事方法で「エゴ城」を完成するのではなく、聖霊ご自身の「力」によって、自分の中にある「エゴ」全てが、完全に打ち砕かれることが前提です。


 その後に、エルサレム神殿の「至聖所」を、神の「偉大な力」によって建て上げるよう、ネヘミヤとエズラが導かれたのと同様に、あなたの中にある「本来の力」、つまり神との麗しい「交わり(結合)」の霊的機能を、聖霊様を通して築き上げる(建て上げる)よう、神は命じています。そうです!「私(エゴ)」の力によってではなく、聖霊様を通して与えられる、神の偉大な「御力」によって・・・・、これが「強くされる」上での重要ポイントです。


 私たちが、「神の言葉」にしっかり連結(結合)している時と、逆にしていない時とでは、「敵」の攻撃パターンが違ってくることを私たちは知るべきです。この世の「古い言葉」、つまり三次元から生じる「知性」に頼った言葉には限界があります。ですからサタンは、未だ「古い言葉」に支配された、あなたの心(思い)に常に働きかけて、更に支配権を拡大しようと試みてきます。しかし、聖霊様を通して私たちの「唇」に、「新しい言葉」が付与された時から、実は神の「連結」の働きが確実に動き始め、「敵」はあなたの語る「霊の言葉」が、何を語っているのか全く分らない故に、攻撃を仕掛けてくることはあっても、「霊の言葉」による神との「親しい交わり(結合)」を、引き離す(破壊する)ことはできません!


 再度強調しますが、あなたの中にある「本来の力」、つまり霊的な力の機能(本質)を復活(回復)させるには、主イエス・キリストの十字架から、絶えず流れ出る聖なる「血潮の力」と、その裂かれた御体からもたらされる、豊かな「至聖所の交わり」によって可能となります。そして、かつて「エデンの園」において為されていた「結合」が、あなたの「霊」の只中に、「新しい言葉」をもって霊的に建て上げられ確立されていく時に、私たちは本来の霊的な力を、聖霊様を通して復活させて戴くことで、初めて「強くされる」のです。又人間性そのものも、「良き方向」で建て上げられて行きます。


 ですから、あなたの「肉の力」によって、強くなろうと思わないで下さい!「強くなろう!」という思いは、全て「弱肉強食の論理」、つまり人間の「エゴ」から生じる思いです。このような「世の思想」は、イエス・キリストの聖なる「花嫁(エクレシア)」の中に、絶対存在しても持ち込んでもなりません!しかし現実的に見るならば、この論理が多少なりにも存在しています。


 例えば「賜物」の優越性(この言葉自体が、神の「意志」とは懸け離れたものですが・・・・)によって、比較し合うなどの誘惑がありませんか?素晴らしい預言のミニストリーをする偉大な預言者、多くの未信者を「世」から勝ち取っていくリバイバル伝道者、素晴らしい説教で聴衆を魅了するカリスマ・メッセンジャー、このような人々がリバイバル聖会、地方教会や宣教団体などで尊ばれ、用いられる傾向にあります。そして彼らのような、優れた「賜物」を戴いている人こそが、「強い信仰者」の模範として見られる傾向にあります。


「御霊の剣」の力
霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(17節)
 ところで、私たちは「新しい言葉」を戴いてから、どのように使っているでしょうか?勿論今まで学んできましたように、基本的には神との「親しい交わり」を為す時に使用すべきです。これは、神との霊的交わりを為していく上で、重要な基本原則です。それと同時に、私たちに与えられている「霊の言葉」は、聖霊様が別の用途で用意して下さる、一つの武器「剣」であることを知って下さい!


 「異言」が「霊の剣」になる、即ち「剣」として用いられる、このようなイメージを描いたことがあるでしょうか?大抵、「剣」は戦いの道具であり、「敵(獲物)」を殺傷するために用いられます。しかし「御霊の剣」は、そのようなものではありません!ある面でそれは、聖霊様から戴く「洞察力」をもって、霊的感性を鋭敏にする時に用いられます。例えば、何が「人」を霊的に縛っているかを、敏速にキャッチするための武器として使われるものが、「御霊の剣」です。これは、聖霊様との「深い交わり」を通してでなければ、決して得られないものです。そして「御霊の剣」は、人の「霊」を切り刻んでいくための武器ではなく、「敵」の攻撃そのものを完全に断ち切ることのできる、霊的武器の一つです。


 あなたの霊的フィールドには、常に「敵」が「古い言葉」の「悪しき種」を蒔き散らし、次々と雑草(茨とおどろ)を生え出させ、あなたと神との聖なる「結合(交わり)」という、霊的に麗しい成長を阻もうとして、盛んに攻撃していることを知るべきです。あなたが神を求めれば求めるほど、サタンによる霊的攻撃の度合いが増し、あなたの霊的フィールド(神の畑)に、「この世」の悪しき「情報」や「肉の教え(言葉)」などが蒔き散らされます。


 そうなると、全てのキリスト者に共通して言えることは、どんなに偉大な信仰者であっても、いったん蒔かれた「悪しき種」は、必ず芽を出し成長していくという事実です。その時に、聖霊様は言われます。「私はあなたの唇に、新しい霊の言葉を与えているではありませんか!その霊の言葉をもって、私の剣(霊的武器)としなさい!」と。「御霊の剣」は、霊的成長を阻害するサタンの「茨」と「おどろ」、つまり霊的雑草を刈り払って枯らしてしまうなど、重要な役割を担う「霊の言葉」を指します。


 例えば、一本の「杉」や「桧」の苗木が、真直ぐ伸びた大きな「樹」として成長していくためには、最低30年以上の年月を要します。そして初期の成長段階において、7~10メートルの樹高になるまでには、苗木が植え付けられてから約六~七年の間、苗木の成長を促進するため①雑草などの下草払い、②雑木や茨、つる科類の除伐作業を、毎年梅雨の時期から初夏にかけて、丹念に続けなければなりません。


 仮にこの作業を、手抜きしたり一年間放って置きますと、つる科植物や茨類が襲い掛かる如くに苗木の葉を覆い尽くし、その木を太陽光から遮断するなどして、最終的に枯らしてしまうのです。それほど雑草の成長速度は、「杉」や「桧」の苗木よりも早く、覆い茂るほどの「力」に満ちています。不思議なことに、「人」に恵みをもたらす材木用の樹々や果樹ほど、成長が遅いものです。しかし、これらの「恵みの木」が大きく成長していくには、前述した基本作業が非常に重要となります。自然界においても雑草が常に攻撃を仕掛け、勢力を拡大しているのであれば、尚更霊的フィールドの中に働くサタンの攻撃と、成長を阻害する「力」の行使は、留まることがありません!


 しかし、私たちに「御霊の剣」として与えられている、新しい「霊の言葉」をもって、「敵」によってもたらされた「霊的雑草」を刈払っていく時に、再び私たちの霊的フィールドに、聖霊を通して神との「親しい交わり(結合)」が確立され、「命の木」イエス・キリストが豊かに成長していくのです。このように、私たちの霊的成長を阻もうとする「敵」の策略が、常に「古い言葉」による支配であることを知るべきです。私たちが霊的に、常に把握しておくべき原則は、「全ての霊的事象は、霊的な法則を通してのみ説明可能である!」ということです。私たちが「敵」の仕掛ける策略、つまり「古い言葉」の支配に対抗するには、三次元にある「古い言葉」をもって臨むのではなく、神が与えて下さる天上の「霊の言葉」をもって、霊的戦いに臨むのでなければ、私たちは決して勝利できません。それ故に、聖霊を通して与えられる「新しい言葉」を、霊的戦いの武具「御霊の剣」として、私たちが用いることが非常に重要になります。


 D・ウィルカーソ師によって始められた、ティーン・チャレンジ・ミニストリーでは、麻薬中毒患者が完全に麻薬から立ち直るために、一番必要な霊的「処方箋」として、「異言」を用いています。「異言」そのものが、特効薬として用いられるというより、中毒患者の禁断症状から出てくる、自己の中に働く「肉の力」、又サタンによる霊的誘惑の支配を完全に断ち切るために、「異言」をもって格闘するという、霊的戦いの武具として用いていると思われます。


 彼らのミニストリーの際立った特徴は、「聖霊の力」を全面的に信じつつ、積極的に推し進めていることです。彼らは、自分自身の中に働く「敵」の力を、弱体化させることができるもの、それが「異言」の力であると堅く信じています。ある面で自分の「心」の中に潜む、「肉の力」の一つである「欲望」を抑制することができるもの、それは上からの「聖霊の力」を引き出す、「異言の祈り」の力です。「セルフ・コントロール」という、「肉(自己)の力」で「欲望」などを抑制することは不可能です。しかし「スピリット・コントロール」、つまり聖霊による完全な支配を可能にする「力」は、「異言」から始まると言っても過言ではありません。


霊の戦い―勝利の秘訣―
今から記す証言は、私が実際に「敵」からの攻撃に遭遇した、実例の一つです。


 ・・・・時は、大学二年生の頃でした。私は四畳半(一階)の間借生活をしながら、原付バイクでキャンパスに通う、そんな学生生活を過ごしていました。間借ということもあり、当然隣の部屋にも別の間借居住者が、私を含めて四人暮らしていて、そして二階には大家(老夫婦)さんが暮らしていました。大家さんは、名家出身の方でありながらも、とても温厚な人柄で心優しい方でした。私は隣に間借している人々が、どのような人柄であるか全く知りませんでしたが、一人だけ顔つきが悪く小太り気味、しかも性質の悪そうな人が住んでいることは知っていました。彼は昼間から仕事もせず、家に居て酒を飲んでいるような人で、とにかく私はその人に会いたくないと思い、常に避けたくなるような人柄でした。


 二年生になって暫く経った、ある晩のことでした。隣の部屋から何か物凄くうるさい、「宴会騒ぎ」みたいな騒音が聞こえてきました。深夜になっても、その騒音は止むことはありませんでした。ですから完全にその騒音の原因が、「酒を飲んで、酔っ払っているな!」と、はっきり分る「騒ぎ」でした。私の隣に住む人の所に、性質の悪い彼が上がり込んで、一緒に飲んで悪酔いしていることが分りました。余りにもその騒音が騒がしくて、私は眠りに就くことができずに、遂に我慢の限界に達した私は、つい
「うるさいなー!」
と舌打ちしました。当然間借ですから、隣の音はすぐ聞こえます。彼らの宴会騒ぎの方が騒がしいですから、私の舌打ち程度の音は、多分聞こえないだろうと思って、怒りの余り舌打ちしたのですが、何とその性質の悪い彼が私の舌打ちに反応し、すぐに外に飛び出してきて、私の部屋の横窓のガラスを叩き割りました。そして次に上がり戸のサッシを、断りも無く強引に開けました。
「あ!しまったー、鍵をかけ忘れていた!」
と思う余裕もありませんでした。


 彼は、まるで狂犬病にかかった野良犬の如くに、怒りの形相で睨みつけながら、次のような悪しき汚らわしい言葉を吐きました。
「お前!今、何言うたんかー、もう一度言ってみろやー!」
そうです!彼はまさしく悪しき酒に酔い、怒りの霊に取り付かれた顔付きで、私を睨み付け脅そうと攻撃しかけてきました。私はその瞬間、
「あーしまった!言わなければよかった。聞こえるとは予想もしなかった!」と一瞬思いましたが、時既に遅く助けを呼ぶにも呼べる状況にありません。目の前に「敵」が唸り声を上げて、今にも飛び掛ろうとしているのですから。


 この事態を、どう切り抜けて行ったらよいのか、さっぱり分りませんでした。しかしその時、ふと私は思いの中に聖霊様が、
「相手の眼を見てはいけません!」
と、囁かれるのを聞きました。続けて聖霊様は、
「あなたの眼を閉じなさい!」
と命じられました。私が聖霊の御声に従って待っていると、続いて聖霊様は重要な命令(軍令)を発せられました。
「異言で静かに祈りなさい!」


 そこで私は、相手に聞こえないように、新しい霊の唇をもって、静かに「囁く」ように祈り始めました。その瞬間、何が起こったと思われますか?普通でしたら、「何を、こいつはしているんだー。怒っても相手にならない!こいつは気でも狂ったのかー?」などと、諦めて帰ってくれることを期待していたのに、「敵」はとんでもない第二次の言葉を吐いて攻撃して来ました。それは、悪魔サタンが全ての霊的事象について関心を持ち、聖霊の働きについても、ある程度知っていることが証明される言葉でした。私が「敵」の第一次の言葉に動じずに、祈りの念仏でも唱えているかのように見えた「敵」は、一時たじろぎはしたものの、サタンの霊に取り付かれた彼の唇を通して、
「お前が、イエス・キリストに何を祈ろうが、俺は負けないからなー!」
と、怒鳴り散らしたのです。


 私は、正直言ってびっくりしました。私は今まで、彼に対して自分が「キリスト者」であることを告白したこともなく、ましてや自分のプライベート生活習慣など、知るはずがないにも関わらず、サタンは知っていたのです。私が「異言」を語り出した瞬間に、アルコール中毒をもたらす悪霊が、イエス・キリストに対する、「霊の言葉」に震えおののき、更に人間的な脅し文句を私の「霊」に吐きかけました。
「お前が、神にいくら祈ったところで、何も起こり得るはずがない!」
と。ところが、私がその言葉を無視して祈り続けますと、最後まで悪態を付いていましたが、暫くして彼は遂に身を退いたのです。その後彼がどうなったのか、私は知る由もありませんでしたが、二度と私を害することはありませんでした。・・・・


 この時の経験から学んだことは、私たちが「異言」を語り出し、その方向が「神」に向かい出した瞬間に、まるでサタンと悪霊たちが、隣り合わせで存在する者の如くに、霊的な攻撃を仕掛けてくることです。しかし忘れてならないことは、私たちの「異言」を導かれる方は聖霊様であり、聖霊様が私たちの全てを、「異言の祈り」をもって守り導いて下さることです。又「敵」が、「神」に向けて語られる「異言」に対して、如何なる攻撃を仕掛けてきたところで、何一つ太刀打ちできないまま、結果的に後退を余儀なくされることです。


 ですから、私たちは霊的戦いにおいて、たとえ大きな事態に遭遇しても、自分の「肉の力」で対処しようとするのではなく、むしろ黙って静かに「異言」で祈り続け、聖霊様の導きに依り頼み従うことが、「勝利の秘訣」です。あなたが戦うのではなく、主ご自身が戦って下さることを、改めて知ろうではありませんか!又私たちには聖霊様を通して、「御霊の剣」である「新しい言葉」が、霊的武具として備えられているのです!この「御霊の剣」によって、私たちは「霊の領域」が変革され、私たちに本来備わっていた神との聖なる「一体化」の中で、益々強められていくことを求めて下さい!そうすれば、あなたに与えられている「新しい言葉」に、更なる「磨き」がかかり、「敵」をいとも簡単に断ち切ることのできる、「剣の鋭さ(霊的感性)」が備えられていくことでしょう!


 「剣」は戦いの後に、必ず「手入れ」が必要です。仮に、その「刃」が少しでも斯けたら、その斯けた部分に再度「火」を入れ打ち叩くことで、更に「磨き」がかかり「鋭敏さ」を取り戻します。ですから、私たちは与えられている霊的武器の、「刃」の状態をも「知る」必要があります。私たちの語る「霊の言葉」は、常に「研ぎ澄まされた」状態にあるとは限りません!ある時には、霊的に打ちひしがれて、感性がボロボロになっていることもあるでしょう。その時は、自分の「肉の力」に頼り「知性」で祈ろうとしないで下さい。


 聖霊様を通して与えられる、上からの「力」によって強められることを求めて下さい。そして霊的にへり下って、「私は今、ボロボロの状態にあります。どうぞ、あなたの聖なる炎によって、私に与えられている、御霊の剣の刃を修復して下さい!祈りがもっと研ぎ澄まされるように。敵の攻撃にたじろぐことがないよう、私の内側から働いて下さい!そして、あなたの御霊によって、私の全てを覆って下さいますように。イエス・キリストとの聖なる一体化を、私は求めています!」と、へり下って祈る者へと変革されますように。そうすれば、私たちは如何なる霊的戦いにおいても、百戦して危うからず


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