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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

信仰の完成(No.27)

                          神の「しかし」




ところが、私たちの先祖は・・・・かたくなになり、戒めに従わなかった。聞き従うことを拒み、彼らに示された驚くべき御業を忘れ、エジプトの苦役に戻ろうと考えた。しかし、あなたは罪を赦す神、恵みに満ち、憐み深く、忍耐強く、慈しみに満ち溢れ、先祖を見捨てることはなさらなかった。・・・・四十年間、あなたが支えられたので、彼らは荒野にあっても不足することは無く、着物は朽ち果てず、足も腫れることは無かった。
                                                                                               【ネヘミヤ記9章16~21節】


人の「しかし」
 私たちが「屁理屈」や、「言い訳」などを主張する時には、大抵その多くが「だけど(でも)・・・・」などの表現で出て来ます。この「だけど(しかし)」を言うのが、私たち人の習性ともいえます。主なる神の「御思い」の中には、人の「しかし」は存在しません。神が「しかし」を使用する場合、それは発した「ご命令(戒め)」に対する、更なる補足的説明になります。


 ところが、私たちの状況が如何なる場合にせよ、神が一方的にご自身の「御心」を示すべく、神の「しかし」を宣言される時があります。実はこの場合には、素晴らしい意味が伴ってきます。例えば有名な使徒行伝の1章には、「しかし、聖霊があなた方に臨まれる時・・・・」と記述されています。


 そういう意味で、私たちが神の「しかし」を正しく理解し、この恵み深い「命の言葉」を覚え、実際に信仰をもって宣言するのであれば、今まで「不安」と「恐れ」に満ちた、不信仰の状況が直ちに一変するなど、天上からの「平安」が必ず降り注がれます。そうです!実際に使徒たちの全員が、聖霊様の「油注ぎ」を受けて、直ちに造り変えられました。


 それ故に先ず私たちは、人の使う「しかし」の本質も、正しく知る必要があります。16節及び17節には、この人間的な「しかし」が記述されています。人の「しかし」の本質(特徴)は、先ず①「不従順」です。この不従順の根源は、心の動きとしては「拒む」という、頑固な意志から生じます。分かり易い言葉で表すなら、殆どの幼児が使う「やだ-!」です。


 第二の特徴は、②神の「戒め」を「失念する(忘れる)」ことです。例えば私たちが「言い訳」をする時には、「何か(大事なこと)」を忘れています。だからこそ心に刻むための、神の「戒め」が必要となります。


 第三の特徴は、③「頑な」になることです。これは言い換えれば、自分の「考え」や「方法」などが、絶対に正しいと自負する、「プライド(自尊心)」を表します。これら三つの特徴に共通することは、「自己中心」の罪から発生していることです。


 この三つの特徴を備えたまま、私たちが生きて行きますと、主なる神が本来の「正しい道」へと導く次元ではなく、悪魔サタンが喜ぶ「エジプト」の次元へと、逆に戻ることを選択するレベルにまで、私たちは陥る危険性があります。


神の「しかし」
 聖霊に導かれた祭司たちは、先祖たちが今まで歩んできた、数々の愚かな「不信仰」の生き方にも関わらず、主なる神が次々と為された、驚くべき「恩寵」を表明しました。それが神の「しかし(17節の後半)」で始まるフレ-ズです。


 神の「しかし」の特徴は、先ず①私たちの「罪」を、忍耐の限りを尽くして、必ず赦し続けて下さいます。次に②「恵み」と「憐み」、「慈しみ」に満ちた方は、絶対に私たちを見捨てない!ことです。そして私たちが③放蕩息子(娘)であっとしても、親元(主なる神の居ます場)へと帰って来て欲しい!と、ひたすら待ち続けて下さいます。


 イスラエルの民は、主なる神の御目にとって、必ずと言ってよい程、御怒りを覚える程の「罪」を、度々犯し続けました。にも関わらず、真実の神は「御目」を閉じて下さり、常に執り成したのです。そうです!主なる神の「しかし」は、放蕩息子(娘)の如き私たちを、決して見放すこと無く、永遠に愛し続けて下さいます。


 そして最終的には(20節)、④岩から「命の水」を湧き出させ、次に「天のパン(マナ)」を、40年間に渡って降り注いで下さったのです。また荒野の放浪で、疲れ切った(憔悴し切った)彼らの足の痛みを日々癒し、朝には「マナ」を集める体力を与えるなど、元気な「くるぶし」を用意されたのです。


 聖霊様は必ず、これらの主なる神の「しかし」を、啓示や幻などをもって示して下さいます。「主に自らを委ねよ(主を己の喜びとせよ)。主はあなたの心の願いを叶えて下さる。」(詩篇37篇4節)。ですから私たちは、神の「恵み」の一つ一つを、決して忘れて(失念して)はなりません。先ず私たちは、私たちに必要な「全て」を、必ず用意して下さる、真実の主なる神に対して、「全幅の信頼」をもって委ねて参りましょう!そうすれば自分の中にある、人の「しかし」が次第に聖められて行くのです。


 主なる神は私たちを、全知全能の優れた「天の力」をもって、また聖霊様の確かな「導き」をもって、常に守り支えて下さいます。これに優る「喜び」はありません!


 あなたが「主よ、私は全身全霊をもって、あなたの御前に従い尽くします。どうぞ私が、あなた様の御思いから離れることが無きよう、全てを委ねつつ捧げ尽くすことが出ますように。私の唇から、だけど(でも)など言葉が出て来ぬよう、聖霊様!私の唇を聖めて下さい。」と、常に祈ることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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