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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.39)

                   神の救いが完成される時
 


 
・・・・ヨシュアは民に命じた。「・・・・主はあなたたちにこの町を与えられた。町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主に献げよ。ただし、遊女ラハブ及び彼女と一緒に家の中にいる者は皆、生かしておきなさい。・・・・」・・・・民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、・・・・町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。・・・・遊女ラハブとその一族、彼女に連なる者は全て、ヨシュアが生かしておいたので、イスラエルの中に住んで今日に至っている。
                                                                                                   【ヨシュア記6章15~25節】
 
ヨシュアの「課題」
 ご存知のようにヨシュアは、第二世代から登場した若き「リーダー」です。新しい「リーダー」の名の下に、イスラエルの各部族は更に、霊的に「信仰」が取扱われました。その中でヨシュアに科せられた課題は、非常に大きいものでした。
 
 先ず第一の課題は、イスラエルの全家が無事に、「ヨルダン川」を渡り切ることでした。しかしたとえ、この第一の難関をクリアしたとしても、その後に来る第二の課題、即ち鉄壁の守りを誇る、エリコ軍の要塞(城壁)が待ち構えているのです。
 
 この二つの課題を前にして、何故ヨシュアは前進し続けることが出来たのでしょうか?ヨシュアは少年期の頃より、師モーセの指導のもと、様々な「試練」と「艱難」を通して、霊的訓練(神の取扱い)を受けました。その中でヨシュアは、一つの重要な信仰姿勢を、モーセの中に見出していたのです。即ちモーセは、断る度に神の山に登り、神の「言葉(御心)」を求めたことです。
 
 モーセは必ず、神の「言葉」を受けた後、神の「言葉」を純粋に信じて、その通りに行動しました。年老いたモーセが、神の「言葉」を大胆に発する時に、見えざる神の領域の中に、大いなる神の「救いの時」が現され、「全イスラエルを救い出す!」ことを、若きヨシュアは一つ一つ確認して行ったのです。
 
 それ故ヨシュアは、目の前に如何なる「現実」が迫ろうとも、見えざる神の「言葉」が臨む時には、聖霊様が相働きて「益」として下さり、神の「救い」を完成して下さることを、不動の信仰からその全てを確認しました。つまり彼は、神の「言葉」に対して、全面的に従順したのです。
 
 イスラエルの民はこの時も、不従順の道を選択することが可能でした。「こんな方法で敵が敗北するとは、とても信じられない!一抜けた!」と。しかし彼ら全員が、この時は霊的に練り聖められました。第一回目は「ヨルダン川」で、そして今回はエリコ城を七周することで。
 
 そうです!私たちも、聖霊様による取扱いが無ければ、また神の「救い」の恵みが無ければ、贖いの子羊イエス・キリストの、十字架の「血潮」の注ぎが無ければ、神の御前に出ることが出来ない、「罪」深い存在です。
 
二段階の霊的取扱い
 今回のストーリーから学ぶべき第一の奥義、それは「七日目」、即ち「安息日」という救いの時です。第一日目から六日目は、神の恵みの時を指します。それに対して「七日目」とは、神による「完成の時」です。私たちの生きる時代は、いよいよ主イエス・キリストの、「来臨の時」が迫っている、そんな「七日目」の時かも知れません。即ち、ようやく七周目を歩き終える、「その時」なのです!
 
 遂に「救いの源」なる、主イエス・キリストが、この地に再臨される時、私たちは「鬨の声」を上げるべく、今!霊的に整われ訓練されているのです。ですから「主日礼拝」は、単なる習慣行事ではなく、まさに「鬨の声」を上げて、救い主(イエス・キリスト)の来臨を、激しく呼び求める霊的訓練の時です!そうです!「主イエス・キリストは我らの救い、我らが誉め讃えるべき、大いなる救い御名を持つ、偉大なる方である!」と、高らかに賛美して参りましょう。
 
 いよいよ、鉄壁のエリコ城が崩壊した後、ヨシュアは次の命令を発しました。それが第二の奥義です。「戦いはこれで終わりではない。これからが本番だ!」と。ここで覚えて戴きたいことは、私たちは「敵」に勝利した直後、必ずと言って霊的油断に陥ることです。それは「勝利」が、あたかも自分の力で勝ち得たかのように、自然と錯覚するからです。例えば「私たちの今までの苦労が、やっと実を結んだ!」、「自分たちの長年の祈りがあったから・・・・」などと告白する、それが私たちの「弱さ」です。しかし聖霊様は、端的に厳しく命じます。「全てを聖絶しなさい!」と。
 
 エリコとは、主なる神の御心を実現する、至聖所(カナン)に至る霊的ステップ、即ち一つの「聖なる所」です。それ故神の行かれる所は、如何なる場所と言えども、その全てを聖める務めが、私たちにはあるのです!神の「救い」を完成するための最後の条件、それが「全てを聖絶しなさい!」です。主イエス・キリストの来臨の時には、これが大いに試されます。
 
 具体的に如何なるものも、私たちの「霊(神の住まい)」の只中に、大切に保管してはなりません。ソロモン王以降のイスラエルの民は、これを守らなかったが故に、次々と「敵」の仕掛ける罠に陥り、国を荒廃させてゆきます。神が忌み嫌う霊的偶像とは、目に見える悪しき像ばかりではなく、富(金銭)・権力・名声・私的生き方などに依存しようとする、つまり目に見えざるものも含みます。
 
 「エリコのものは全て、神のものである!それ故、エリコの全てを神に返却しなさい!」、これが聖絶の真意です。全てを「神のもの」として捧げ尽くすとは、如何なる「小さなもの」をも、「自分のもの」としてはならない!という意味です。ですから私たちは、神の一方的な「選び」が、イエス・キリストの「贖い」の御業を通して、今や成就しているが故に、ご自身が既に聖めて下さる!という、この聖めの信仰に立つべきです。
 
 ところで、エリコを巡る聖絶の実態としては、おびただしいエリコ軍の流血により、とても聖められた状態(聖い所)と、言えるものではありませんでした。しかしその中で一箇所だけは、贖いの地(救いの源)が用意されていました。それが赤い紐を目印とする、ラハブの館でした。この赤い紐(救いのシンボル)を基にして、新しい神の「救い」のご計画が、ラハブの信仰によりスタートします。
 
ラハブの家族の「選び」
 ご存知のように「赤い紐」とは、イエス・キリストの「十字架」を指します。不従順な者にとって、この「赤い紐」は無意味なものですから、結果的にエリコ軍と同様、自分の「血肉」を地に注ぎ出すだけです。しかしラハブにとっては、神の「救い」を求める、信仰の目印として掲げたのです。
 
 イスラエルの民が、毎日エリコ城を一周し、七日目に七周を巡り終え、一斉に「鬨の声」を上げた瞬間、ラハブは「その時」を悟りました。つまり神の完全なる勝利、そして自分たち家族の「救い」が始まったことを。城内で始まった、エリコ軍とヘブル軍との戦いの音に怯えながら、ひたすら館内で祈って待っていると、合図の如き扉を叩くノック音がしました。ラハブは裏窓から周囲を確認して、密かに(穏やかに)訪問客(二人の斥候)を館の中に入れます。
 
 これは霊的に、聖霊様の重要な働きを物語っています。聖霊様は、いつも私たちの「霊の扉」をノックして下さいます。「イエス様が、遂に来られましたよ。」と。ラハブは謙って「おー、遂に皆様方が来られたのですね!どんなにか、この時を待ち待ち望んでいましたか。どうぞお入り下さい!」と応じました。ヘブル書11章において、ラハブの信仰が「様子を探りに来た者たちを、穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。」(31節)と記述されています。そうです!彼女の家族全員は、不従順な者と共に滅ぼされるのではなく、真の主なる神の「救い」にあずかったのです!
 
 ラハブは、単純(素直)に神の「御言葉」に従順し、「赤い紐」を館に吊り下げただけです。「赤い紐」自体には、何の力もありません。しかし彼女は、即座に信じたのです。「赤い紐」イコール、神の「救い」のシンボルだ!と。その後ラハブは、ボアズを産み育てます。ラハブから五世代目の子孫に、ダビデ(イエス・キリストの雛形)が誕生します。
 
 私たちの信じるイエス・キリストは、如何なる職業・身分・性別を問わず、純粋に信じ尽くすという、私たちの中にある「従順さ」をもって、一方的に「この世」から選び召し出し、「救い」の初穂として下さいます!はっきり申し上げて私たちは、神に対して常に「従順である!」と、言い切れる者ではありません。しかし覚えて下さい。私たちが見えざる「赤い紐(十字架)」を、霊的に掲げる限り、常に神の「安息」の中で守られるのです。
 
 ラハブ同様に、あなた(救いの初穂)を通して、神の「救い」が実現していくのです。「この世」の出来事は、いつも「まさか(予想できない事象)」の連続です。しかし私たちは、「まさか」ではなく、「まもなく必ず来られる」イエス・キリストを、花嫁としてお迎えする、そんな神の「救いの時」を準備する日々が続きます!
 
 イエス・キリストが来臨される時に当たり、あなたが「世的なこと(エリコ)」の全てをかなぐり捨てて、神の御前に馳せ参じる者でありますように!そして聖霊様の霊的訓練を、喜んで豊かに受けられる毎日でありますよう、イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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