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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.18)

                   神の「第一のリフォ-ム」




ヨセフはエジプトの司政者として、国民に穀物を販売する監督をしていた。ヨセフの兄たちは来て、地面にひれ伏し、ヨセフを拝した。ヨセフは一目で兄たちと気付いたが、そ知らぬ振りををして厳しい口調で、「お前たちは、何処からゃって来たのか」と問いかけた。・・・・ヨセフは、その時、かつて兄たちについて見た夢を思い起こした。
                                                                                                            【創世記42章6~9節】


兄たちを見た瞬間・・・・
 今回の記事は、ヨセフが見た第一の「夢(幻)」が、まさしく目の前で実現した、神の事実を物語っています。さて私たちの経験の中で、自分の人生を追いかけて来るもの、それは苦い(辛い、苦しい、悲しい)体験ではないでしょうか!


 同様にヨセフも、自分が見た第一の「夢」を、兄たちの前で披露したばかりに、様々な苦い体験をした訳ですが、自分の子(マナセとエフライム)を見た時に、それらの苦い経験の霊的縛りから、瞬時に解放されました。しかし「今!」、まさに目の前に兄を見た時、如何なる感情が湧き出たのでしょうか?


 普段の冷静な感情でしたら、自分と関わりの無い他人であっても、自分を頼って拝する態度には、必ず同情(憐み)の念を抱きます。ところがヨセフはこの時、そ知らぬ振りを装って、「お前たちは、一体何者だ?何処から来たのだ!」と、まるで犯人(不審者)を尋問する、刑事の如き態度を示したのです。


 このように、私たちの人間的な経験は、たとえ「良き事」が塗り重ねられたとしても、一時的な「感謝」しか出て来ません。耐え切れない「試練」が来た時に、もろくも「感謝」の念が剥がれ落ちる訳です。


 例えば、私たちはヨセフの波乱の人生を、「これは特別に神が召し出した器のスト-リ-であって、私の如き平凡な者には、決して神の逆転劇は起こるはずが無い!」と捉えます。しかし視点を改めて下さい!つまり、ヨセフも辛かったことでしょうが、逆にヨセフを殺そうとした兄たち、そして父親と弟(ベニヤミン)も、それ以上に苦しんできたという。別の側面をも見るべきです。


 と言うことは、今回の記事に見られる「第一の夢」の展開は、ヨセフの人生だけを取扱っているのではなく、父親(イスラエル)を筆頭に、家族全員を神の「恵み」の中で、豊かに造り変えて行くことになります。


神の「第一のリフォ-ム」
 さてヨセフから直々、エジプトを探る「スパイ」にまで疑われた兄たちは、この危機に対処すべく、必死になって身の潔白を訴えました。人間的な「謀り(計画)」をもって、事を収めようとするのであれば、今回の記事はヨセフの為した、単なる「復讐劇」に映ります。しかし兄たちに対して語った、数々のヨセフの問い質しは、実は聖霊様の「取扱い」によるものです。ですからヨセフが発した、今回の「言葉」の始まりは、結果的に兄弟たちばかりでなく父イスラエル、そして自分自身にまで、聖霊様の大いなる「取扱い」の始まりを意味することになります。


 目の前で始まった、「第一の夢」の実現を見た時に、ヨセフは如何なる行動を取ったのでしょうか?それは聖霊様が、私たちを霊的に取扱う場合にも、問われる行動となります。大抵の場合、私たちは驚きの余り、慌てふためき立ちすくむか、その逆に一気に、肉の解決を図ろうとします。ヨセフは冷静に執政官として、いつも通りの質問を発したのです。「お前たちは、一体何者だ?何処から来たのだ!」と。


 私たちが「過去」において体験した、様々な「経験」というものは、実は神が圧倒的な「取扱い」をもって、私たちに臨んでいるという、この大いなる「神の事実(摂理)」に、私たちは霊の目を向けるべきです。


神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めて下さるので、私たちも神から戴くこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることが出来ます。キリストの苦しみが満ち溢れて、私たちにも及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めも、キリストによって満ち溢れているからです。私たちが悩み苦しむ時、それはあなた方の慰め救いになります。また、私たちが慰められる時、それはあなた方の慰めになり、あなた方が私たちの苦しみと同じ苦しみに耐えることが出来るのです。・・・・神は、これ程大きな死の危険から私たちを救って下さったし、また救って下さることでしょう。これからも救って下さるに違いないと、私たちは神に希望をかけています。
                                                                                               【Ⅱコリント書1章4~10節】


 ヨセフは、様々な「苦難」と「悲しみ」を経た後、人間的な肉の「努力」によって、それらの苦い経験を乗り越えた!と、宣言することも出来たのですが、彼は「全て」の事の中に相働きて、「益」として下さる主なる神が、自分の「人生」を支配し導いていることを、素直(謙虚)に認めました。即ち神の「摂理」無くしては、自分の「命」も在り得ない!と悟った時に、今の自分が在ることを感謝したのです。しかし神は、これで「終わり」とはしませんでした。


 ここからが、実は更なる「始まり」だったのです。神の「第一のリフォ-ム」、それはヨセフが封印していた、「過去」における家族との関係でした。この家族との関係を、更に超える霊的次元の中で、主なる神はイスラエル民族を、偉大なる神の初穂として選び召し出し、ヨセフを霊的先駆けとして、前もってエジプトに遣わしたことが、明らかにされていくのです。


 確かに神の「第一のリフォ-ム」は、私たちにとっても苦々しい、嫌な「取扱い」です。しかし主なる神は、パウロが明言するように、最終的には「慰め」をもって臨んで下さり、必ずイエス・キリストの「救い」という、素晴らしい賜物(希望)を与えて下さいます。それは、これから救われるであろう、多くの「魂」にとっての、霊的先駆け(初穂)として、私たちも選び召し出されているからです。


 そうです!私たちは、イエス・キリストによる「救い」の初穂です。今の「あなた(私)」が、ここ(今置かれている場)に生かされているのは、全てが神の偉大なる「ご計画」の始まりです!ですから、私たちの歩みの一つ一つを、確かなものとされる主なる神に、私たちは真心をもって喜び仕え、純粋に「感謝」を捧げて参りましょう!


 あなたが主イエス・キリスト、豊かな「恵み」の一つ一つに対して、素直に感謝を捧げ、あなたに対して為される(取扱われる)神の御業が、如何に偉大なものであるかを、喜びをもって「希望」を抱くことが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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