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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.37)

                   礼拝において確認すること
 


 
その日、全イスラエルの見ている前で、主がヨシュアを大いなる者とされ・・・・ヨシュアに言われた。「掟の箱を担ぐ祭司たちに命じて、ヨルダン川から上がって来させなさい。」・・・・祭司たちはヨルダン川から上がり、彼らの足が乾いた土を踏んだ時、ヨルダン川の流れは元通りになり、以前のように堤を越えんばかりに流れた。ヨシュアは・・・・12の石をギルガルに立て、イスラエルの人々に告げた。「後日、あなたたちの子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ねる時には、子供たちに、イスラエルはヨルダン川の乾いたところを渡ったのだと教えねばならない。・・・・それは、地上の全ての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためである。」
                                                                                                   【ヨシュア記4章14~24節】
 
「神の事実」を確認すること
 今回のストーリーにおいて、非常に素晴らしい光景が描かれています。それは、祭司たちが「契約の箱」を担ぐ間、イスラエルの民全員が、ヨルダン川において、主なる神の用意した「安全な道」を、如何なる危険な事態にあうことも無く、完全に渡り終えたという奇跡です。この奇跡は、今日のあらゆる科学から検証しても、絶対に有り得ない事象です。何故なら、この時の「水(ヨルダン川の流れ)」の動きが、マネキン人形の如くに、全く動かなくなったからです。
 
 私たちが今回のストーリーにおいて、霊的に確認しなければならないこと、つまり大いなる「神の事実」は、私たちの信仰の歩みの中においても、必ず有り(起こり)得る事象である!という点です。そうです!私たちの信仰の道には、大激流の如き「試練」があるにも関わらず、私たちはその「試練」の中で、霊的に溺れ(沈み)苦しみ、最終的に溺死してしまうこと無く、むしろ主なる神が霊的に「脱出の道」を備え、私たちが対岸(信仰の巌)に辿り着くまで、押し留めて下さることを、私たちはその都度体験しているのです。
 
 これは見えない「神の事実」です。しかし私たちが、その霊的体験を高らかに証言(賛美)できる理由は、私たちには神の恵みとして、「天(上)」よりの聖なる信仰が、必ず(有り得る事実として)注がれているからです。そして私たちは、その上よりの信仰をもって、霊的に確認すべきことがあります。即ち、霊と真による礼拝において、私たちはその「神の事実」を確認するのです。主なる神を崇め、その御名を高らかに褒め称え、「神が何と偉大な方であるか!私のような小さな器であっても、常に守り導いて下さる!」ことを、私たちは礼拝の中で必ず確認しているのです。
 
二つのプロセス


信仰とは望んでいる事柄を確信し、目に見えない事実を確認することです。
                                                                                                              【ヘブル書11章1節】
 
 この御言葉で「信仰」には、二つのプロセスが示されています。それは第一に望んでいる事柄を確信し、第二(その後)に目に見えない、即ち未だ起きていない「神の事実」を、今(まさに)受け留めて確認する!という、二つの霊的行動プロセスです。しかし私たちの現実の行動は、「先(将来)が分からないから、今は・・・・する!」という、「現実(目に見える事実)」をベースにした行動を採ります。
 
 イスラエルの12部族は、各部族から一人の人物を選び、ヨシュアと共に(訳の分からぬ)行動することに、信仰的に同意し「先」を託しました。主なる神の「ご命令」は、誰もが三次元的に理解できない、つまり目に見えない(先が見えてこない)内容でした。「12個の石を運び、それらを積み上げることに何の意味があり、果たして何が起きるのか?」などと、首をかしげる者もいたことでしょう。しかし当の12人は、ことごとく神の「命令」に従順し、①石を運び(望んでいる事柄を確信し)、②その石を積み上げた(未だ起きていない神の事実を、今受け留めて確認した)のです。
 
 ヨシュアを含めて神の「ご命令」が、如何なる結果をもたらすのか、それが分からないにも関わらず、彼らは神の御業を仰ぎながら、御言葉に聞き従い(確信し)、未だ見えざる大いなる「神の事実」を、現実に見ることになります。それは「いつ」でしょうか?祭司たちが、対岸に辿り着いた、まさにその直後、ヨルダン川が大津波の如き、激しい流れとなって、目の前を通過した時です。その結果、彼らは「未だ川の中に居たとしたら、今頃皆は死んでいた。何と主なる神は、偉大なる奇跡をもって、川の流れを押し留めて下さったことか!」などと、口々に賛美し始めました。実はこれが、信仰的に確認することです。
 
 覚えて戴きたい第一のポイントは、彼らは如何なる「望み」をもって、ヨルダン川の中を通過したか?という点です。川の真ん中も怖いが、対岸に辿り着いたとしても、前面には「敵」が控えている!もはや逃れようも無い運命にある、その恐ろしい「現実」を前にして、彼らは「信仰」という望みを持って、ひたすら前進し続けたのです。
 
 第二に、目に見えざる「神の事実」として、彼らは「その時」何を確認して前進したのでしょうか?つまり彼らが川の真ん中を、一歩一歩進む時に分かった事実がありました。それは自分たちが歩むフィールドが、ドロドロした所が全く無い、つまり完全に乾いた地であったことです。その中で主なる神が、安心して無事に辿り着かせるべく、イスラエルの民全員を守り導いて下さる!ことを、自分の足元の歩み(ステップ)の中に確認したのです。その結果彼らは堂々と、神を賛美しながら前進したのです。
 
礼拝において確認すること
 このように、霊と真による礼拝(賛美の進軍)において、私たちも神の大いなる、目に見えざる事実を確認するという、霊的作業が必要となります。それは一週間に一度(主日礼拝の時)の務めではなく、日々朝起きた時から夜眠る時まで(日もすがら夜もすがら)、その都度為すべき務めです。
 
 私たちが霊と真によって礼拝する、その霊的意味(真意)は何でしょうか?私たち(親の世代)は、「子」の持つ霊的飢え渇きに対して、答える(教える)義務があります!ましてや「主の日」を聖別することは、幼少期から教えるべきことです。主なる神の、大いなる臨在を常に求めることで、私たちは如何なる事態にあっても、主なる神が片時も見放すこと無く、私たちを守り導いて下さること、それを「主の日」の礼拝の中で、一つ一つ確認していくことに、真の意味があるからです。
 
 たとえ「この世」が、如何なる「事実」を着き付けたとしても、見えざる「神の事実」のみが、私たちの「大盾」となって守り導き、山の頂にあっても「大路」を整えて下さるなど、私たちは必ず「礼拝」の中で、神の臨在と恵みの数々を確認するのです。そうです!12個の「石」を積み上げること自体は、単なる「今(現在)」の行動に過ぎなく、「先(将来)」において、如何なる意味を持つのか確認できませんが、「神の事実」としては、既に意味が確立されている!こと、これを信仰として受け留めましょう!
 
 さて具体的に、私たちは「何」を教えるのでしょうか?第一に神の「奇跡」が現された場合、その①時間的プロセスを記録しておき、「次世代」の者たちに事細かく教えることです。神の時には、「救い」の時、「贖い」の時など様々あります。私たちは、そのような「神の時」を、何故憶えているのでしょうか?それは神の為されることの全てが、無代価で一方的に、「天(上)」から与えられる(注がれる)ものだからです。 
 
 私たちが、「信仰」の歩みの中で経験することを、「子」たちに教え示す場合、次のような霊的アドバイスを、必ず語ることでしょう。「何も心配することはない。私たちの歩みは、確かに大変な時があった。しかし今も尚、このように生かされていること、これは全て神の大いなる恵みが、私たちの人生に豊かに現されているから!」などと。
 
 第二に教えること、それは主なる神の御力が、如何に偉大であるかを知り、共に敬い続けるためです。これは私たちが礼拝を捧げる上での、最大の意味(目的)です。そうです!私たちの歩みがどうであれ、その時々に応じて主なる神が、大いなる「恵み」をもって、常に守り導いて下さることを確認し、実際に「礼拝」を捧げる時において、その偉大なる御業の数々を、高らかに讃え(敬い)続けること、これを次世代に教え示すのです。
 
 これから先、如何なることが起きるのか、全く予想が付かない時代にあって、私たちは決して揺り動かされることがありません。何故なら私たちは、見えざる「神の事実」の一つ一つを、たとえ目に見えなくとも、霊的務めとして積み上げる、即ち「至聖所(祭壇)」を設けることによって、主なる神が私たちを常に愛し、如何なることからも守り導いて下さることを、いつも「礼拝」の中で、必ず確認するからです。
 
 そうです!私たちの主なる神に、いつ(如何なる時)も大いに期待して参りましょう!主なる神が、更にあなたの信仰生活に密に関わって下さり、大いなる臨在をもって、あなたの信仰の歩みを、確かなものとして下さいます。あなたは主の民です。偉大なる神が、あなたと共に常に居て下さる限り、あなたは「何」をも恐れる必要はありません。あなたの先を行かれる、イエス・キリストと共に、あなたが日々前進できますよう、イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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