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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.22)

              自らの命をもって神に奉じる信仰
 
 
 
ギデオンは、この方が主の御使いであることを悟った。ギデオンは言った。「ああ、主なる神よ。私は、何と顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました。」主は彼に言われた。「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」・・・・その夜、主はギデオンに言われた。「あなたの父の若い雄牛一頭、即ち七歳になる第二の若い牛を連れ出し、あなたの父のものであるバアルの祭壇を壊し、その傍らのアシェラ像を切り倒せ。あなたの神、主のために、この砦の頂上に、よく整えられた祭壇を造り、切り倒したアシェラ像を薪にして、あの第二の雄牛を焼き尽くす献げ物として捧げよ。」ギデオンは・・・・主がお命じになった通りにした。だが、父の家族と町の人々を恐れて日中を避け、夜中にこれを行った。・・・・(町の)人々は口々に、「誰がこんなことをしたのか」と言った。・・・・ヨアシュは、責め立てて止まない人々皆に向かって言った。「あなたたちはバアルをかばって争うのか。・・・・もしバアルが神なら、自分の祭壇が壊れたのだから、自分で争うだろう。」・・・・
                                                                                                          【士師記6章22~32節】
 
 人は「死」を恐れる
 ギデオンの神に対する、直ぐな信仰の行動の結果、彼はこの時「神(神の使い)と出会った者は、必ず(自分というものが)死ぬ!」ことを悟りました。しかし神の使いは、すぐさま彼を励ましました。「心配しなくても良い!あなたには未だ、果たすべき務めがある!」と。今回のストーリーに示される奥義のキーワード、それは「死ぬ」ことです。余り響きの良い「言葉」ではありませんが・・・・。
 
 ところで今日の日本において、主に老世代の人々に「終活(人生の終わりに当たって葬式を準備したり、子孫に遺言(遺産)等を残すなどの活動)」が流行っているそうですが、私たちは普段から「死ぬ」ということを、真剣に考えて生きているのであれば、後々のとを「あれこれ」と考える必要もありません。パウロが明言するように、「生きるのも死ぬのも主なる神のため!」と考えて生きていれば、既に「この世」のことに死んでいるからです。
 
 今回のストーリーに見られる、当時のイスラエルの人々の悪しき習慣、それは神が一番に忌み嫌う「偶像礼拝」でした。本来ならば、各家庭において一番聖めるべき場所に、神のための祭壇が築かれ、「子羊」等が捧げられるのですが、何と彼らはそこにバアル像を据えて、生贄を奉納していたのです。太平洋戦争期においても、当時の国家権力による弾圧の結果、キリスト教会の講壇上に、救いのシンボル「十字架」ではなく、天皇の「写真」を掲げて、礼拝を捧げざるを得ないという、苦渋の信仰を強いられた時代がありました。
 
 当時のイスラエルの人々は、一体「何」を恐れて生きていたのでしょうか?それは「敵」の手にかかって、一族郎党が殺されることでした。ギデオンの中にも、バアル神は恐れなくとも、父(ヨアシュ)の心を乱したくない余りに、何らかの霊的妥協があったのかも知れません。しかしギデオンの「信仰」の奥底には、「このまではいけない!いつか時来たらば・・・・」という、激しい(敵に対する)「争いの炎」が燻ぶっていました。
 
 この時、神の使いは「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」(23節)と、彼に対して大いなる励まし(助言)を与えました。それを聞いた彼は、どれ程「慰め」を受けたことでしょう。彼は「死ぬ」ということに対して、何ら「恐れ」は無いのですが、神との出会いで死んでしまったら、使命を果たせなくなる!という恐れが、この時ありました。彼は常々「この国が、真の主なる神のみを崇める、本来のシオンに回復するように!見える偶像にではなく、見えざる神に全ての生贄を捧げるという、真の礼拝を回復しなければ、この国はいつか消滅してしまう。」等の危機感を抱いていた訳です。
 
何を先ず畏れるべきか?
 今回の奥義の第一ポイント、それは「安心しなさい。恐れることは無い。死ぬことは無い。」という、神からのメッセージを、私たちも大胆に受け取ることです。私たちの「霊」の中には、常に「恐れ」や「心配」が存在します。例えば「神」を畏れるよりも、「人」を恐れるなどの弱さのことです。そして「人」を恐れるあまりに、別のもの(霊的バアル)を持って来て安心しようとするのです。
 
 しかし、そのような「恐れ」の中にあっても、目に見えざる「神の事実」を、霊の眼で見るという「信仰」を働かせるのであれば、私たちは何ものをも、恐れる必要がありません!肉体的な「死」ではなく、復活に至る真の勝利(永遠の命)を与える神が、「死」を乗り越えることの出来る、「上(天)」よりの力をもって、常に導いて下さることを、ギデオンはこの時悟りました。
 
 主なる神はギデオンに対して、「あなたの父の若い雄牛一頭、即ち七歳になる第二の若い牛を連れ出し、あなたの父のものであるバアルの祭壇を壊し、その傍らのアシェラ像を切り倒せ。あなたの神、主のために、この砦の頂上に、よく整えられた祭壇を造り、切り倒したアシェラ像を薪にして、あの第二の雄牛を焼き尽くす献げ物として捧げよ。」(25節)と命じました。この神の「命の言葉」が今こそ、「日本」に生きる全てのキリスト者に対して、必要とされる信仰の原動力ではないでしょうか。そうです!私たち日本人キリスト者に、この神の「命令」が問われているのです。「日本にある八百万の偶像の全てを、イエス・キリストの御名によって、霊の言葉をもって大胆に打ち壊し(滅ぼし)、真の神の祭壇上に焼き尽くしなさい!」と。
 
「第二の牛」を捧げなさい!
 今回の奥義の第二ポイント、それは「第二の牛を捧げなさい!」です。さて「第二の牛」とは、霊的に何を意味するのでしょうか!聖書が示す「第一の牛」とは、「最初の牛」即ち初子のことで、その「命」の管理者は父ヨアシュにあります。それに対して「第二の牛」は、その家族(一族)の中で第二の権威を持つ者が、如何様にも使用できるという意味での、「第二」となる牛(生贄)を指しています。ですから、「第二の牛」の所有権は父であっても、その管理(生贄として育成、世話をすること)は、必然的に跡取りのギデオンになります。
 
 彼にとって「第二の牛」は、自分の「命」と同価値のものとして、一生懸命に世話をしたことでしょう。「第二の牛」の第二のポイント、それは自らの行為を、あえて「証拠」として示すことになるという点です。「第三」や「第四」であれば、誰が為したか分からないのですが、「第二の牛」となれば、それはギデオン自身の行為(行動)を、如実に示す証拠そのものです。ですからその行為自体が、ギデオンの「死(公開処刑)」を意味することになります。
 
自らの「命」を奉じる信仰
 しかし、「(あなたは)死ぬことが無い!」と言われた、主なる神の豊かな「約束」の保証は、この時のギデオンの「信仰」を、不動のものにしたことが伺えます。つまり神の「ご命令」を、自分が忠実に守り行いさえすれば、神が大いなる奇跡を為されることを、彼は「霊の眼」をもって確信し、皆が寝静まった「真夜中」に事を実行しました。
 
 ギデオンの「人」を恐れず、「神」のみを畏れて、自らの「命」と同価値の「第二の牛」を捧げた、彼の神に対する「誠実(真の礼拝)」は、死んでいたかのように見える、父ヨアシュの「信仰」を復活させました。ヨアシュは、近隣の住民に対して「お前たちは何をうろたえているのか?ふざけるな!我々は今まで騙されていた。このバアル神とアシェラ像さえ拝んでいれば、一族の繁栄と祝福が約束される!と、敵は言い放っていたが、何だこの様は・・・・見る影も無い炭の塊ではないか!」と激怒しました。
 
 私たちキリスト者を、霊的に束縛するものは多く存在します。目に見えるものから、目に見えざる精神世界など。しかし聖霊様は、そのような霊的束縛から、私たちを霊的に解放すべく、炎のメッセージ、即ち「あなた方が本来、真っ先に築くべき祭壇は、一体何処にあるのか?あなた方の為している礼拝の中に、悪魔サタンによって騙され、巧妙に取り込まれているいるもの(偶像)が無いか?」と問い質しておられます。
 
 私たちの霊的戦いは、キリスト者VSサタンと悪霊という、まるで「合戦劇」の如きイメージを描きがちですが、彼らは非常に巧妙な霊的罠(トリック)を、密かに(気付かぬ内に)仕掛け用意します。あたかもそれは、子羊(イエス・キリスト)を祭壇から取り除いて、別の生贄(バアルの祭壇、アシェラ像)を、私たちの「霊」の中に持ち込むなど、常に狐VSぶどう園の農夫の如き戦いです。
 
 私たちが、常に携え行くべき霊的生贄、それはイエス・キリストだけです!自分の「願い」や「計画」、或いは逆の意味で「心配事」や「恐れ」を、生贄として捧げるのではなく、唯一の「救い(贖い)」を成就された方、即ち御子イエス・キリストに、真の礼拝を捧げるべきです!イエス・キリストこそが、真に聖い生贄であられます。イエス・キリストのみが、私たちを永遠に贖い続けて下さる方である故、私たちは「第二の牛(自分自身の全て)」を、唯一の「生贄(イエス・キリスト)」と共に、十字架上に捧げ尽くしましょう!
 
 イエス・キリストがいらっしゃらなければ、今の自分は有り得ない!という信仰を持って、私たちが主なる神に、自らの「命」を奉じる時に、神の奇跡が必ず起きるのです!如何なる奇跡でしょうか?それは、今まで自分が様々に恐れてきた、「不信仰」の次元から解き放たれ、父ヨアシュにも起きた、新しい「復活の信仰」が回復するという奇跡です。
 
 私たちは先ず、自らが主なる神の御前に出て、「命の源」なるイエス・キリストを、祭壇(礼拝)の基(もとい)としましょう!たとえ「現実」がどうであれ、私たちが捧げるべき唯一の生贄、それは贖いの子羊イエス・キリストだけです。私たちが、イエス・キリストの住まわれる、至聖所に行きさえすれば、全てを恐れること無く、安心して「自分に死ぬ!」という、「上(天)」よりの信仰が、あなたにも注がれるのです。
 
 どうかあなたが、イエス・キリストのみに「信仰」の望みを置き、「信仰」の礎を打ち立てて下さった父なる神に、心から従順することの出来る「上」よりの力を、聖霊様の取り扱いの中で、豊かに受け取ることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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