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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神の時(No.26)

                      ヨルダン川を渡る時
 



さて、主の下僕モーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。「私の下僕モーセは死んだ。今、あなたとこの全ての民は立って、このヨルダン川を渡り、私がイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、私がモーセに約束したとおり、あなた方に与えている。あなた方の領土はこの荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土及び日の入るほうの大海に至るまでである。あなたの一生の間、誰一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。私は、モーセと共に居たように、あなたと共に居よう。私はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。私が彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、私の下僕モーセがあなたに命じた全ての律法を守り行え。これを離れて右にも左にも逸れてはならない。それは、あなたが行く所ではどこでも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。その内に記されている全てのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。私はあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたと共にあるからである。」 
                                                                                                       【ヨシュア記1章1~9節】
 
神が提供する「保険」
  今回の御言葉は、主なる神が与えて下さる「保証(霊的保険)」が、物凄く麗しいものであり、「この世」が提供するような、一時的保証の次元には無いことを教え示しています。主なる神はヨシュアを通して、イスラエルの民に対して一言、「このヨルダン川を渡り、私がイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。」と命じられただけでした。
 
 この「ご命令」は、今に生きる私たちキリスト者に対しても、必ず要求されるものです。私たちにとって「ヨルダン川」とは、一体「何」を意味するのでしょうか?確かに私たちキリスト者は、主イエス・キリストの、十字架による「救い」を信じた結果、霊的に「エジプト(この世)」から脱出し、完全に贖い出されました。そして主なる神が、いよいよ新しい「天」と「地」を、私たちのために用意される時、最後の戦いが始まります。この最後の戦いの前に、第一段階として、「ヨルダン川」を渡ることが要求される訳です。
 
 「ヨルダン川」は、その殆どが激流と言われています。ですからヨシュアに命じられた、今回の神の「ご命令」は、はっきり申し上げて、命懸けの行為(行動)になります。それは、ある面で「死」を意味します。主なる神が「ヨルダン川を渡りなさい!」と命じられた以上、それは人間的な方法で、川の「流れ」を緩くすべく堰き止めた後に、渡り切ることではなく、「今、目の前に広がる川の中を、ストレートに歩みなさい!」ということです。
 
 その目的は、敵を征服することではなく、神が約束の保証として定められた、「カナンの地」を戴くためです。「ヨルダン川」を前にして、たたずんでいる限り、それは約束の「保証」を、未だ戴いていないことを意味します。しかし「死」を恐れずに、川を渡り切ってしまえば、その先にある「約束の地(カナン)」を所有する、信仰の第一歩となるのです。
 
「今」渡りなさい!
  私たちキリスト者も、いずれ神の「土地」に入ることになります。しかし「その時」が来るまでに、必ず「ヨルダン川」を渡るか否かが、私たちにも試されるのです。そして、この時に一番重要となるポイント、それが「今、渡る!」という、この「今」の時刻です。
 
 覚えて戴きたいことは、イスラエルの民は遂に、やっとの思いで「ヨルダン川」に辿り着いたことです。ですから彼らは、「暫く(一時)」は休息を取って、全員が安心してカナンに入るルートを、模索したいところでした。しかし、主なる神はヨシュアに対して、「今!」と命じられたのです。つまり一切の「暇(いとま)」が無い訳です。ヨシュアは一瞬、「今渡ったとしたら、それこそ死者数が増えるのでは・・・・?」などと、心が怯(ひる)んだのではないでしょうか。
 
 それに対して主なる神は、恐れおののくヨシュアに対して、ある霊的方向性を指し示すべく、「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、私がモーセに約束したとおり、あなた方に与えている。」と、霊的に励ましの言葉を添えました。この言葉は彼らにとって、大いなる霊的チャレンジとなりました。
 
 何故なら、この約束の御言葉は、彼らが「ヨルダン川」を、渡り切らなければ与えられない!という、非常に覚悟の要るものだからです。たとえ「ヨルダン川」を渡る時にも、主なる神が守り導いて下さることを、純粋に信じて前進する者には、必ず神が対岸にまで、辿り着くことの出来る「力」を与え、無事に通過させて下さること、これが信仰のテストになります。
 
 ご存知のように、私たちの「足」は霊的な意味として、私たちの信仰の「歩み」を指します。ですから、仮にその「歩み」が平坦なもので、立ちはだかる障害物が、何も無かったとしたら、途端に私たちの「足」は歩みを止め、「もう大丈夫だから!」と言って、その場に座ってしまうのではないでしょうか!殆どの方が(私を含めて)そうでしょうが、楽な道(楽な歩み)を、つい考えて選択します。その結果、「何」も努力しなくなります。
 
 そのような私たちを聖別するために、主なる神は「ヨルダン川」を、あえて提供されるのです。そうです!私たちの「信仰」を、更にイエス・キリストの「信仰」と、同じレベルまで練り聖めるフィールド、それが「ヨルダン川」なのです。私たちの「信仰」の歩みを鍛えられる神は、私たちがある場所に留まり、安座することを「良し」とはされません。
 
ヨルダン保険の「保証」
  主なる神が与えた、この「ヨルダン保険」について、聖霊様は毎日必ず、この「保険証書」を提示して下さいます。ご存知のように「保険証書」には、その「保険」に関する条件等の項目が、必ず明記されています。では、主なる神が与えて下さる「ヨルダン保険」には、如何なる条件等の項目が、明記されているのでしょうか?
 
 5節には、具体的な保証内容が記されています。先ず第一に「あなたの前に立ちはだかる者(敵)」は(今も後も)一切無い!という保証です。敵サタンがもたらす「世的保険」は、様々な魅力(誘惑)を保証します。そして最終的には、反キリストの元に跪くよう仕向けます。しかし私たちは、サタンの提供する「世的保険」には、全く見向きもしません!何故なら、私たちは神の約束の地へと、日々前進しているからです。
 
 第二の保証、それは絶対に見放されないことです。インマヌエルの神は、私たちを見捨てることも無く、見放すことの無い方だからです!イエス・キリストが、いつも私たちと共におられる!という、この大いなる保証、これ程に素晴らしい祝福はありません。私たちの必要とするものの「全て」を満たす方、それが真の羊飼いなる方、イエス・キリストです。
 
 そして第三に、決して見捨てられることが無い!という保証です。ご存知のように、「この世」の保証は、満期になると見捨てます。この素晴らしい「ヨルダン保険」の保証を受け取るには、ある条件が課せられます。それが「信仰」を働かせるという霊的項目です。
 
 6~8節には具体的な、「信仰」の働かせ方が示されています。それは先ず①強くありなさい!ということです。私たちが「出来ない存在」であることを、十分ご存知の上で、私たちが「信仰」を働かせて、一歩でもいいから進むこと、これが「強くある」ことです。私たちが「弱い」からこそ、勇者なる方(聖霊様)が助けて下さるのです!ですから私たちが、助け主なる聖霊様に、純粋に付き従うことが重要となります。
 
 そういう意味で、②雄々しくありなさい!とは、勇者なる方の後に、ひたすら従順していくことです。たとえそれが、川の「深み」であってもです。そして③昼も夜も、神の「ご命令」を口ずさむことです。つまり主なる神が、その都度指し示す、様々な霊的ガイダンスを、片時も忘れること無く、④真っ直ぐに歩み続けることです。
 
 「ヨルダン川」を渡ることで得る、主なる神の大いなる「祝福」を、私たちは「信仰」をもって、ストレートに受け取って参りましょう!神の「ヨルダン保険」は、既にあなたのものです。主なる神が、「あなた」を豊かに練り聖め、そしてあなたに立ちはだかる「ヨルダン川」を、聖霊様を通して注がれる「信仰」をもって、大胆に働かせながら渡る時に、神の約束の保証として、霊的カナンの「祝福」を、確実に受け取ることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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