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キリストの家族(No.24)

         父と母の「教え」に耳を傾けなさい!



我が子よ、父の諭しに聞き従え。母の教えをおろそかにするな。
それらは頭に戴く優雅な冠、首にかける飾りとなる。
                                                                                                                 【箴言1章8~9節】


「人生」の道しるべ
 父と母の「教え」は私たちの人生を、如何に麗しいものへと導くのか、また父なる神が定めた「家族」の中において、何故神は父と母を置いているのか、この点について箴言から学んで参りましょう。


 ご存知のように私たちの「人生」は、一つの長い「道のり(航路)」のようなものです。箴言の主要な著者であるソロモン王は、数々の成功を「人生」の中で築き上げましたが、その反面彼の人生には、失敗も付きまといました。しかし、彼はこの箴言を書き記すに当たり、父なる神からの「戒め(知恵)」が、如何に自分の「人生」にとって、最高の「宝物」であったか、更に父(ダビデ)と母(バテシバ)の「教え」をないがしろにすることが、自分の「人生」を失敗に至らせるものであったかを、彼は晩年になって悟ったのです。


 そして、最終的には父なる神の「知恵」が、父と母の「教え」の中に、忠実に現されていることをも見出した訳です。それ故彼は、神の「知恵」が如何に麗しいものであるか、それは「この世」にある様々な金銀や、宝石にも優ったものであるかを悟り、自分の子にも大切な「教え(諭し)」として、この箴言を書き残したのです。


 お気付きのことでしょうが、この箴言の中に見られる言葉に、「我が子よ、」という表現が数多く記されています。「家族」の中において、「何」が一番大切なものであるかを、ソロモンはこの御言葉から、私たち「キリストの家族」にも教え示しています。父なる神の「知恵」を求め続けた、彼の「家族(家庭)」の中における重要な「柱(大幹)」は、父と母の存在も含まれていますが、何よりもそれは父と母の「教え」であり、子は素直にその「教え」に聞き従って生きること!と書き記しています。


父と母の「教え」の方向性
 ソロモンによれば父と母の「教え」は、第一に頭に戴く優雅な「冠(花婿のターバン)」のようなものです。中東地域(アラブ諸国、イスラエル)に住む人々にとって、人間の「徳(人格としての麗しい品性)」を表現する手段として、男性はターバンを頭に巻きます。そしてそのターバンが、見た目に優雅であればある程、その人の「徳」が一段と輝きを増す訳です。ですから父と母の「教え」は、優雅な「ターバン(冠)」の如くに、私たちの「人格」や「徳性」を高めるものである!と、ソロモンは第一の方向性を述べています。


 第二に、「ターバン」が男性の装飾品であるのと同様に、女性の身に付ける装飾品、例えばネックレスや腕輪、そして宝石を散りばめた指輪など、これらは女性にとって「優雅さ(美)」を表現するものです。女性にとって「美しさ」を外見に表す際に、それらの装飾品は一段と効果を示す訳ですが、「美しい首飾り」の如くに、私たちの「外見」を美しく仕立てる(完成する)もの、それが父と母の「教え」である!と、ソロモンは第二の方向性を述べています。


 「人格」や「徳性」が、人の内面性を表すものであるのに対して、品のある「態度」や「しつけ」、また美しい「行動」などは、全て「外見性」を表しています。この二つの方向性に従って、父なる神が本来定めておられる、「美しい人」へと導くものが、父と母の「教え」です。つまり、私たちの内側にある「霊的な品性」、そして外側に現れ出る信仰の「行動(歩み)」や、神に対する「表明」などが、本来の神の「御心」に沿うものとして、正しく導く(案内する)ものが、父と母の「教え」です。


 私たちの人生の「節目」には、両親からの「道しるべ」が必要となります。同様に私たちキリスト者にも、霊的な父親である神の「道しるべ」が、様々な形(聖書の御言葉、メッセージ、教え、勧め等)をもって示されます。それ故に私たちは、父なる神の霊的な「教え(道しるべ)」に、「子」として注意深く耳を傾けるならば、それは私たちの霊的な成長を促し、私たちの「人生」を、本当に麗しい(美しい)ものへと完成して行くのです。


 覚えて戴きたいことは、父と母の「教え」は、イスラエルの人々が守り行っている、「律法」の如きものではありません。もし父と母の「教え」が、「律法」の如くに子に付きまとい、厳格に行動を縛り上げるものであったら、「子」はそれを嫌がり(忌み嫌い)、彼ら独自の「歩み」を構築していくでしょう。つまりソロモンの箴言は、律法が説くような「~しなさい!さもなければ・・・・の罰が科せられる」といったイメージではなく、父と母が「子」に対して純粋に願っている、「我が子よ、父(母)の教え(勧め)に真剣に耳を傾け、注意深く人生の案内人として、その教えに付いて(聞き従って)行きなさい!そうすれば、もっと更なる神の祝福が、あなたの人生に約束されるから。」という、愛に溢れた「親心」から生じるものです。


 それ故父と母の「教え」は、父なる神の「御心」に沿って生きる、彼らの実際的な「経験」を伴った、一つの「生き様」を物語っているものです。ソロモンの如くに、父と母が自分たちの「経験」を語る時に、「子」は両親の歩んできた、人生上の「失敗」や「過ち」などから、「正しい道」への道筋を学ぶのではないでしょうか。私たちの歩みには、常に「肉の判断」によって、自分本位に生きるのか、それとも父と母の「教え」、つまり父なる神の「御心」に、注意深く聞き従い、聖霊様の常なる霊的な「促し」に、導かれながら生きるかという、二つの選択が用意されています。仮に私たちが、サタンの「導き(誘惑)」通りに、自己中心的に自分の「人生」を確立するのであれば、それは必ず神の「祝福」から、締め出されることになります。


美しい「あなた」へと仕立てるもの
 イエス・キリストが、私たち「キリストの家族」の中に、父と母を置いている理由は、彼らの語る「教え」や「しつけ」によって、イエス・キリストが私たちに、強く望んでおられる健全な霊的成長を促すこと、つまり私たちが「子」として、どのように造り変えられ歩んで行くのか?という、一つの正しい方向性を指し示すためです。


 優雅な「ターバン」や美しい「首飾り」を、身に付けた人物を見た人々は、明確に「何」を感じ取るのでしょうか?それは、その人物の持つ「人格」や「徳性」、そして実際的にその人が、高貴な身分(ライフ・スタイル)であることを認識するのです。それと同じように、「キリストの家族」の家長である、父なる神の「御心」のみに、忠実に従って歩む父と母の「教え」は、「子」にとって無駄な努力(花嫁修業)をしなくても、より美しい「キリストの花嫁」と仕立てて行く、霊的な「道しるべ」となります。


 私たちは神の「教え」に関して、様々に人間的な解釈を施します。しかし一番大事なことは、私たちが神と真正面に向き合いながら、例えば「主よ、今の私の歩みは、果して主の御心に沿っているのでしょうか?私の判断(解釈)ではなく、霊的な父親である、あなたの教えが聞きたいのです!私に足らぬ部分、間違った所(点」があるのでしたら、どうぞあなたの知恵を授けて下さい、あなたは、私が誤った道(歩み)から、必ず脱出できるルートをも備えて下さると信じます。私は、私の知恵に頼りません!」と素直に表明した時から、私たちは祝福されるのです。


 神の「教え」は、私たちを霊的に縛り上げるために、与えられているのではなく、私たちの人生を更に美しい(実りある)ものとして造り変えるべく、神の奥深い「新しい知恵」も同時に授けていること、これを是非信じて下さい!主イエス・キリストの豊かな知恵が、主イエス・キリストを求める、あなたの信仰の渇きに応じて、更に溢れ出る程に注がれることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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