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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.48)

            主イエス・キリストを信じなさい!




目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる。」看守は、・・・・二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」・・・・まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、・・・・神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。
                                                                                                    【使徒行伝16章27~34節】


看守の信じる「絶対正義」
 今回のストーリーに登場する看守(刑務官)は、「明かりを持って来させて」(29節)と記述されていることから、もしかしたら他の刑務官より上役、或いはこの刑務所の「所長」という、非常に責任ある立場(役職)にあった人物かも知れません。とにかく刑務官にとって、「囚人」たちを見張ったり、何らかの刑罰を囚人に与えることは、日常茶飯事のことですが、仮に「囚人」の一人でも、脱獄するような事が起きた場合には、「所長」にとっては逆にローマ帝国法から、「死刑」の宣告を受ける程の、重大な責務を担っていると言えます。


 ところで今回のストーリーの中で、一番重要となる「命の言葉」は、パウロがこの看守に言及した「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」の命令語ですか、この御言葉は決して、この看守だけに留まらず、全ての「キリスト者」と、全ての人々に投げかけられている、父なる神からの偉大なる「勅令」の如きものとして、私たちは受け留める必要があります。ある面で私たちが、更にイエス・キリストの「御心」に触れ、父なる神の居ます奥深い「至聖所」という、聖なる領域(フィールド)に入る為に、「入口(門扉)」を開ける「鍵」となるもの、それがこの御言葉の中にある、「信じる」という霊的アクション(実行、行動)なのです!


 当然この看守にとって、上官からの「命令」は、ローマ法に基づく「正義」であり、彼の行動(職務)を支配する絶対的なものです。そして彼にとって「法(ルール)」とは、自分の家族を守り導くこと以上に、命を懸けて遵守しなければならないものだったのです。ところがご存知のように、実際に「この世」のルール程、私たちにとって「安心(安らぎ)」と、「希望」を与えるものとは、余り感じられるものでは決してなく、むしろ返って何らかの「束縛感」を、与えるようなものではないでしょうか!即ち彼にとっても、「法」が絶対的なものであると、頭で信じ(理解し)ていても、「霊(心)」の中では「ミスしたら罰せられるかも知れない・・・・?」などと、常に「不安」と「恐れ」の中で、責務を全うしていたものと思われます。


全ての法に優る「神の言葉」
 今回の突然の「出来事(巨大地震)」は、そのような彼の「法」に対する「信頼感(信心)」を、根底から覆す程の大事件でした。巨大な「地震」にも、私たちは五感全体で震え上がりますが、この時彼の「耳」に入ったサウンドは、巨大な地震による建物の破壊的なサウンドばかりではなく、同時に起きた各牢獄の扉が開くサウンドと、全ての「囚人」を束縛していた、「足枷」のはずれるサウンド、この二つの信じられない(起こり得ない)音でした。


 その結果彼の「不安」は、更に大いなる「恐れ」へと変わります。「あー!囚人にとってこのチャンス(彼にとっては最悪の時)は、最高の脱獄の時だ。我々だけでは、囚人の暴動は抑え切れない。」などと。そして遂には・・・・「あーもう駄目だ!何一つ音がしなくなったぞ。もう奴らは、全員が逃亡したのかも。もはや死あるのみ。私の死をもって、この重大ミスの責任を果たそう!」と、自殺を図ろうとしました。


 まさに「その時」、聖霊様が「全て」の事を相働かせて、「益」とすべく介入されたのです。聖霊様は「全て」の物事の、「始まり」から「終り」に至るまで、今回の出来事を通して、一体「誰」が重要となるのか?そしてパウロを通して宣言される、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」の御言葉が、如何に「全て」の物事を先んじて、父なる神の「ご計画」の中で進められているか、この二つの「取扱い」を、看守長に行ったのです。


 覚えて戴きたいことは、牢獄の一番「奥」に居たパウロとシラスは、看守長が大地震後の「この時」、一体何処に存在している(生きている)のか、そして「何」を企てようとしているのかを知りません。しかし聖霊様が、パウロの「霊」に上よりの霊感を授けた瞬間、彼は「大声で叫んだ」(29節)のです。新共同訳聖書の英訳では、この時のパウロの行動を、よりリアルに記述しています。それは彼が、今までに出したことの無い程の、つまり最高の音量をもって「自害してはならない!」と叫んだことです。何故なら「その時」、彼らは牢獄の一番「奥」に居たからです。


 続いてパウロは、尚も大声をもって看守長に呼ばわります。「絶対に死んではならない!我々は全員、今この場に居る。一人も逃亡(脱獄)した者は無い!」と。パウロは何故、囚人の全員が生存し、牢獄から立ち去っていないことを、この時知っていたのでしょうか?それは聖霊様が、「全て」の物事を相働かせて、「益」として下さった結果、全ての囚人が①祈りと②賛美という、天(御国)の次元に触れ、大地震を被災しても守られたことを、聖霊様を通して既に確認済みだったからです。


主イエスを信じること
 この看守長は妻子を養うという、家族の「長」としての立場にあることから、ローマ法に違反する行為があった場合に、家族が路頭に迷うという「不安」も、常々抱いていたことでしょう。しかし自分の「命」と交換するのであれば、ローマの法律による処罰は、家族にまで及ばないことを知っていた彼は、自分の家族を守るべく、三次元的な方法(自害する)に至ったのです。


 ところが、聖霊様は彼ばかりではなく、彼の家族の「全て」を贖うべく、前もって大地震を引き起こし、ローマの法を遥かに優った、父なる神の「命の言葉(ご命令)」を、パウロの「唇」を通して発せられました。「主イエスを信じなさい!そうすれば、あなたばかりでなく、あなたの家族全員が、ローマ法の下にではなく、神の法(神の国と神の義)の中で、永遠に守られ祝福されるという、神の救いに必ずあずかることが出来るのです!」と。


 太平洋戦争以前の、日本においてもそうであったように、当時のローマ市民にとって「家長」の命令は、家族にとっては絶対的なものです。それ故彼が「私は本来、死罪に価する程のミスを犯したが、この方々の信じる真の神が、この私を死の滅びより贖い出して下さった。それ故にお前たちも、お父さん同様に、主イエス・キリストを信じようではないか!」と告白するや否や、妻を始めとする家族全員が、「確かにお父さんは、今までとは違う程の、喜びに満ちた素晴らしい家長になった。私も主イエス・キリストを信じます!」と信仰告白し、その日の内に家族全員が、パウロから洗礼を授かったのです。


 「全て」のことを相働かせて、「益」として下さる神の「力」は、パウロとシラスの不動の信仰を通して、特に霊と真による礼拝を通して、「上」より注がれたものです。そして、「神の時」至りて大地震が起こり、神の「救い」が約束の保証として成就したのです。主イエス・キリストを信じるということは、約束の成就として、必ず自分ばかりでなく、家族も救われるという保証が付いて来るのです。この重要な「神の保証」を、是非信じて受け取って下さい!


 そして「益」とは、自分のための益(ご利益)のことではなく、イエス・キリストの「御名」が、高らかに褒め称えられるためのものです。そうです!神の「救い」は、私たちの為す日々の務め、即ち朝に夕に①祈りと②賛美をもって、神を礼拝することから始まっているのです!あなたが、神の「救いの言葉」を流し続け、主イエス・キリストを信じるという、素晴らしい「命の言葉」を携える者として、周囲の人々にキリストの「証人」としての、明確な「証し」が確立されることを、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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