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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.49)

                              栄光ある出立




朝になると、高官たちは下役たちを差し向けて、「あの者どもを釈放せよ」と言わせた。それで、看守はパウロにこの言葉を伝えた。「高官たちが、あなた方を釈放するようにと、言ってよこしました。さあ、牢から出て、安心して行きなさい。」ところが、パウロは下役たちに言った。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持った私たちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、私たちを連れ出すべきだ。」下役たちは、この言葉を高官たちに報告した。高官たちは、二人がローマ帝国の市民権を持つ者であると聞いて恐れ、出向いて来て侘びを言い、二人を牢から連れ出し、町から出て行くように頼んだ。
                                                                                                    【使徒行伝16章35~39節】


「朝」になると・・・・
 「朝になると」(35節)と記述した時、ルカの霊的な「思い」は、如何なるものであったのでしょうか?この記述以前の「出来事」は、「突然」強制的に収監され、「暗闇」の支配する、「牢獄」の奥深い領域において為されたものです。ところが父なる神は、この出来事を通して「全て」の事を、相働かせて「益」として下さるべく、パウロとシラスの①祈りと②賛美により、大地震を引き起こし、その結果刑務所が崩壊したにも関わらず、囚人の誰一人として脱獄する者が無かった!という、紛れも無い「事実」が確立されたのです。


 ところが大地震の被害を、同様に受けた高官サイドからすれば、この大地震によって、看守と囚人の幾人かが被災して死亡し、恐らく他の生き残った囚人の全員が脱獄し、既に逃亡していると予想したものですから、夜が明けぬ内から、下役たちに刑務所を訪問して調査させ、事の一部始終(報告)を聞き終えた時、高官たちに言い知れぬ「驚き」と、「恐れ」が生じたのです。


 ですから、ルカが記述した「朝になると」とは、単なる時間のプロセスを表現した言葉では決してありません。「暁の明星」であるイエス・キリストが、「暗闇」に支配されている、「この世」において生きざるを得ない、私たちの「霊」に訪れて下さる時、即ち霊的に「夜(闇)」から「朝(光)」になると、「全て」が明るみの状態として出現するのです。そうです!パウロとシラスは、前日までの状況が、何もかもガラリと変わることを、「朝」体験することになりました。


 それに対してローマの高官たちは、「往き(前日)」」は良い良い、「返り(朝)」は怖い(不安になる)などの、立場が逆転した状況に追い込まれたのです。しかし、それでも彼らはローマの役人としてのプライドから、部下を通して看守たちに「あの者どもを釈放せよ」と下知したのです(彼らが喜んで、この町から去ってくれることを期待しながら・・・・)。


神の「シナリオ」
 ところが、パウロは「全て」の事が、神の「栄光」ある出現によって、引き起こされたことを知っていましたから、ローマの下役たちに対して「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持った私たちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、私たちを連れ出すべきだ。」(37節)と、堂々と言い放ったのです。


 覚えて戴きたいことは、パウロはユダヤの「律法」に精通していましたが、実はローマ市民として、「ローマ法」にも精通していたのです。とりわけ、ローマ帝国の「市民権」の持つ、法的権利(人権)に関しては、法的手続き(裁判)を踏まない処罰は、如何なる役人と言えども、絶対に為してはならない!こと、逆にそれを犯した場合は、その役人に対して重罰が科せられる!ことを、この時のパウロは熟知していた上で、逆に提訴したのです。「あなた方は、この事件を隠蔽しようとでも言うのか?むしろあなた方は、この事件に対して被った、ローマ市民権を持つ私たちに対して、当然の謝罪を要求する!」と。


 すると、蜂の巣を突いたかの如くに、高官たちは慌てふためいて、二人の前に謝罪することになりました。恐らく「侘びの言葉」ばかりではなく、彼らに対して不当な扱いと、鞭打ち刑の罰を与えたことに対する、「損害」を見積もった上で、何らかの「賠償金」も支払ったことでしょう。そうです!高官たちの描いた、人間的な「シナリオ」通りに事は運ばず、神の栄光ある「シナリオ」が、この時完成したのではないでしょうか!


 私たちキリスト者は、「この世」に生(命)を授かった時から、イエス・キリスト同様に、理由無き「憎悪」と、「迫害」「妬み」「そしり」などを、好むと好まざるとに関わらず受けます。その時に私たちは、サタンの罠に陥ってはなりません。仮に、私たちが「暗闇」のフィールドに、強制的に収監されたとしても、聖霊様が「その場」に臨まれ(訪れ)、「朝」になると霊的な逆転劇が、父なる神によって完成されることを、私たちは是非覚えておきましょう。


栄光ある出立
 イエス・キリストの公生涯を見ますと、三次元的に「栄光」とは、懸け離れた生き様のように映ります。その殆どが、理由無き「迫害」に追いやられ、最終的には十字架上で醜態をさらし、死刑に処せられるという、ミゼラブルな人生劇です。しかし、イエス・キリストの「霊」が聖霊様と共に、「暗闇」のフィールドに落とされた時から、父なる神の「新しい創造(救い)」の御業が、そこから始まったのです。そうです!三日後の「朝」に、イエス・キリストは三次元を支配する、全ての霊的束縛(縄目)を打ち破り、滅びの「死(暗闇のフィールド)」から、栄光ある出立を踏み始められたのです!


 「家族」の救いは、この時の看守長にもたらされたような、過去だけの出来事では決してありません。今に生きる、私たちの現実の生活においても、父なる神が約束の保証として、必ず成就する(完成される)ものです!霊的な「暗闇」に縛られている人々の中にも、「あなた(私)」がイエス・キリストの、「栄光」を帯びた者として遣わされる時に、そこに神の「新しい業」が起こり、「あなた」が日々為している、真の礼拝を忠実に捧げることで、聖霊様はあなたの「唇」にも、彼らに必要な預言的メッセージを用意されるのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」と。そうです!私たちキリスト者は、いつ如何なる時にも、如何なるフィールドにおいても、キリストの「栄光」を帯びた者として、召し出されているのです。


 イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも永遠に変わること無く、私たちと共に臨在して下さり、私たちの進み行く「先(前)」を、真の「暁の明星」として、常に守り導いて下さる方です!イエス・キリストが、常に「熱情の愛」をもって、私たちに激しく臨まれる理由は、「この世」において、圧倒的な勝利者とするばかりではなく、「家族」の救いを通して、父なる神の「救い」に、誰一人として漏れることが無いようにと、とりなしていて下さるからです。


 私たちは既に、イエス・キリストと共に、「栄光ある出立」の歩みを始めています。その道は、「シオン(神の宮)」に至る、神の「大路」です。そうです!神の「大路」には、多くの人々が共に歩むようになる!即ち、あらゆる「家族」の救いが保証されることを、是非信じて祈り続けて下さい!主イエス・キリストの、豊かな「救い」の御業が、「あなた」を通して、これから益々成就して行くことを、主イエス・キリストの御名で祝福しお祈りします。アーメン!


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