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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

言葉の革命(No.31)

                         「知る」とは?




どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなた方の内なる人を強めて、信仰によってあなた方の心の内にキリストを住まわせ、あなた方を愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さいますように。又、あなた方が全ての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれ程であるかを理解し、人の知識を遥かに越えるこの愛を知るようになり、そして遂には、神の満ち溢れる豊かさの全てにあずかり、それによって満たされるように。
                                                                                                    【エペソ書3章16~19節】


「知る」行動原理
 ご存知のように「人」は、孤独(単独)で生きられない生物です。つまり「人」は必ず、何らかの意思疎通(コミュニケーション)を図ることのできる、相手(対象)を求めようとします。しかも、人格的交わりを為すことのできる、同じ霊的生物との「出会い」と「交わり」を通して、共に生き合うことを欲する存在です。この「出会い」と「交わり」には、そのプロセスとして「本質」と「本質」の融合(接触)が必要になります。そしてそこから、「言葉」による交わりが発生します。


 文字通り「知る」ということは、相手の本質を全身全霊をもって、直接或いは間接的に交わり合う、行動プロセスのことです。具体的には、先ず第一に「見る」こと、そして「聞く」ことであり、第二にその見たものに対して、「近づく」という行動に移ります。そして第三の行動は、近づいた後に「手で触れる」ことです。そして触れた後に今度は、更に近づいて「触れ合いたい!」などの強い願いから、第四の行動に至ります。それは自分の「唇」をもって、相手(対象物)に直接触れることです。そして更に、最終的行動である第五の行動、交わる相手(対象物)の本質を、自分の唇もって「味わう」ことです。以上の五つの行動プロセスは、ある面で何らかの「食物」を食する時の、行動パターンをイメージして戴ければ分り易いでしょう。


 例えば、この「知る」ことにおいて、「聞く」行動プロセスの場合、先ず①「耳」で聞こうとします。そして、もっと明瞭な音(内容)を聞きたい時には、聞こえる所まで②近づきます。そしてその音を出している相手(対象物)に対して、「耳」をもって③触れようと試みます。この第三のプロセスは、次のようなケースに見られます。母の「胎」に宿る赤子が、少しずつ成長していく段階で、様々な器官が形造られていく時、成長に伴って心臓の音、即ち「心音」も大きくなります。実際に母親は、その音を直接聞くことができませんが、夫に対して「赤ちゃんの心音聞こえるか、聞いてみて!」などと促す時、夫はどのような行動に移ろうとするでしょうか?先ず妻のお腹に近づいて、更に接近してもっと聞こえるようにと、自分の耳を妻のお腹に付ける、つまり「触れて」聞こうと試みます。その結果、ようやく「心音」を認識(知る)できます。母親は産婦人科医の診断のもと、「心音」を機械による拡大音で、間接的に聞くことはできますが、実際に「生の音(ライブ音)」を聞くことができるのは、直接「触れた」父親だけです。


 以上から、「知る」という行動原理には、大まかに①知りたい!という意志の働き、②実際に「本質(対象)」に近づく、③より深く理解するために、直接触れる、という三つのプロセスを伴います。この「知る」という、父なる神が「人」に与えた素晴らしい機能は、どのような理由から与えられているのでしょうか?実は、「最初の人」アダムに与えられていた本来の「知る」機能は、神との「親しい交わり」の中に、常に聖別されたものでした。


 しかし、サタンはこのことを非常に妬みました。サタンもかつて、神ご自身を一番「知っていた」器でした。ですから、サタンは神を「知る」という行動原理と、同じ方法をもって「人」に近づいて来ました。彼はエバに近づき、こう囁きました。
「神は本当に、これを食べると必ず死ぬ!と言いましたか?」
これは、「知る」ことに対して疑いを抱かせる、一つの誘導尋問です。つまり、
「あなた方は、もっと更に神を知る方法を知りたい!と思いませんか?それを、父なる神があなた方に、あえて隠しているとは思えませんが・・・・」
などの、誘いかけの言葉を語りました。それに対してエバは、「疑い」というより別の面での興味を示しました。
「あら、そう?あなたが言うように、別の方法があるかも知れないわね!その方法を教えて下さらない?」
サタンは、しめた!とばかりに、
「じゃー、あなた方がしている神から教えられた方法で、私も教えて上げましょう!私に付いて来てごらん!」
と語るや否や、サタンはエバを「園」の中央へと誘いました。
「この善悪の木の実について、あなたは何を感じますか?その感じる思いを、直接あなたの眼で見て、鼻で感じて、唇で触れて、実際に舌で味わってみたらどうですか?さー、じっくり見てごらんなさい!」
と促しつつ、躊躇しているエバに更に囁きかけます。
「さー、遠慮しないで近づきなさい!触れるぐらいなら構わないでしょう!・・・・いい匂い(香り)でしょう!あなたの唇に触れてみてごらん!死にますか?死なないでしょう。じゃー、実際にかじってみて、あなたの舌で味わってごらん!美味しいでしょう。死にましたか?これこそ、神を知る新しい方法です。それがあなたに、今与えられたのです!死んではいません!さー、分ったでしょう。これからは、私の言葉にも耳を傾けるのですよ!」
と語りかけました。この誘惑の言葉は、何となく神が語られたかのように、錯覚する言葉です。


 ところで、父なる神は天地創造を為される際に、何故「暗闇」を利用したのでしょうか?ご存知のように、神の存在は「光」そのものです。ですから、本来なら「光ある方」として、「光の世界」にご自分の「作品」全てを、創造してもよかったはずです。何故父なる神は、「無秩序」と「暗闇」が支配する「混沌としたフィールド」に、あえて「光」を投げかけられたのか?実に不思議です。父なる神の「御心」を、私たちが霊的に正しく「知る」時に、神の救いの「ご計画」が罪人の私たちに及び、神の「栄光」を現す「麗しい作品」として、新しく再創造するためであることを、私たちは聖霊様の「啓示」により、新たに「知ろう」ではありませんか!


 「人」はサタンの「惑わし」によって、いとも簡単に騙されました。そして、本来「人」に与えられていた、永遠に続く神との「親しい交わり」、この素晴らしい天的機能が、サタンの「策略」により奪われました。この神との全人格的交わりの機能が、霊的に回復するためには、どうしたらよいのでしょうか?「人」には不可能なことです。しかし父なる神は、この全人格的交わりの機能を、信じる全ての者に聖霊を通して、再び与えようとされていることを信じて下さい!そのためには、聖書の御言葉に立ち返りましょう!神を霊的に正しく「知る」方法は、全て聖書に記されています。


聖霊の主権を知る
 先ず私たちが「知る」べき原則は、父なる神が天地創造を為される際に、ある一つの法則をもって始められていることです。それは父なる神の「命の息」、即ち聖霊様を通して万物を創造されたことです。又、「エデンの園」に満ち溢れていた神の「麗しさ(美)」は、聖霊様を通して現されていました。ですから、神の「新しい契約(新約)」の中に生きる私たちは、神との「全人格的交わり」の機能が回復されるに当たり、全ては「聖霊(命の息)」の働きが、重要な「鍵」となることを「知る」べきです。


 第一の原則、それは「全ては聖霊の主権の下に為される!」ことです。聖霊の主権、即ち聖霊様の導きの中で、私たちがどのように導かれるべきか、私たちはこのことを第一に知らなければなりません!イエス・キリストを導かれた方「聖霊」は、全ての聖徒に対してイエス・キリストと同様の、霊的な導きを為されます。聖霊様は私たちに対して、神との「全人格的交わり」の機能を回復させるべく、イエス・キリストが歩まれた道を、私たちにも同様に与え(体験させ)て下さることを、常に覚えておくべきです。


 イエス・キリストは、その公生涯において「栄光ある器」、「勝利に次ぐ勝利者」、「人民の英雄(ヒーロー)」的存在だったのでしょうか?彼に付き従っていく弟子たちの数は、一時期確かに膨大に増え拡がりました。しかし、福音書に記されているイエス・キリストの実像は、他の世界史に登場する英雄たちの人物像とは、全く懸け離れたイメージで描かれています。はっきり申し上げて彼の公生涯の殆どが、「孤独な人」であったことです。大勢の群集に取り囲まれながらも、彼はすぐにその場を退き、ある場所に身を隠します。「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、独りでまた山に退かれた。」(ヨハネ福音書6章15節)と記述されているように、退かれた場所の殆どが、誰もいない「山」でした。彼は父なる神と、「親しい交わり(礼拝)」を持つために、「山」に登って行かれました。このように彼は、人間的に見て「孤独の道」を歩まれました。


 かつて「サウロ」であった頃は、人間的に見て「栄光の道」を歩んでいたパウロは、「イエス・キリストの捕われ人」になったが故に、その後の人生の殆どが「栄光の道」とは懸け離れた、「独房(監獄)」生活を強いられるなど、「孤独の道」を歩まされました。しかし彼は、この「孤独の道」を歩まされる中で、獄中書簡を力強い筆跡で次々と書き著しました。「孤独の道」にあっても、彼は諸教会を霊的に力強く励ますためペンを執る訳ですが、彼の「手」に「天上の力」をもって、激しく臨んだ方は聖霊様でした。聖霊の主権の下に導かれる時、それは必ずしも人間的に見て、「栄光ある勝利の人生」を歩むことではなく、むしろ「人の子」イエス・キリストと同様に常に「孤独」であり、人々から「のけもの」扱いにされるなど、アウトサイダー的「歩み」を強いられる(導かれる)ことを、常に覚えようではありませんか!


 ヤコブの子ヨセフの生涯においても、聖霊様は彼を霊的に回復するために、「獄中」から導き始めました。彼は「獄中」において、神から「指導者」としての訓練を与えられ、その霊的訓練を経て初めて、神からの素晴らしい啓示(夢と幻)を、正しく「知る」という「賜物」を戴いたのです。荒野において、40年間に渡る放浪(逃亡)生活を強いられたモーセ、迫害によって荒野の洞窟を住みかとした預言者エリヤ、「獅子の穴」に落とされた青年ダニエルなど、聖霊の主権の下に導かれた、彼らに共通する「訓練の場」が、「暗闇」に覆われた「獄中」のような環境でした。ご存知のように、「獄中」には殆ど「光」が存在しません。そして「独房」という場所は、完全に暗闇に覆われた狭き空間であり、しかも誰とも交わることのできない「孤独の場」です。このような場所では、正常な人間であっても数日程度が限度であり、一週間以上経ちますと「暗闇」に対する恐れと、交わり無き不安から精神に異常を来たし、気が狂ってしまうそうです。


 では、何故パウロなどの神に取り扱われた人々が、気が狂うことなく「神の言葉」を戴くことができたのでしょうか?それは、確実な聖霊の「導き」があったからです。彼らは、ある面で聖霊を通して霊的「独房生活」に追い込まれました。しかし聖霊様は、「暗闇」の中に(彼らを)導いたことで初めて、「真の光」を投じて下さいました。つまり「この時(場所)」が、イエス・キリストを「知る」、最高の「至福の時(場所)」だったのです。イエス・キリストを「知る」ということは、私たちが祈り求めた結果、何か素晴らしい神の「恵み」や「祝福」を戴いたり、本当に勝利ある体験をした時、例えば「リニューアル」の恵み、奇跡を伴う「しるし」と「わざ」の恵みを受けた時に感じるもの、つまり神の「恵み」を得た体験として「知る」ことではありません!本当にイエス・キリストを、全人格的に「知る」には霊的「独房生活」、例えば「苦難」の時、「迫害」の時、そして言い難き「苦しみ(うめき)」などに、追い込まれた時が必要です。


「霊的暗闇」にある時
 「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれ程であるかを理解し、」(18節)の御言葉にあるように、「広さ」「長さ」「高さ」「深さ」などの言葉は、尺度(測量単位)を表す言葉ですが、あなたは「キリストの愛」に関して、どれ位の単位を知っていますか?「キリストの愛」に関する単位は、私が霊的にイメージする限り、それは底なしの泉(淵)を測るようなものです。パウロ、モーセ、ヨセフ、エリヤ、彼ら全てが霊的「死の淵」を通過する、貴重な体験をしています。「極限の死」に至った状態、それが「独房」の世界です。この「知る」という領域は、大祭司が年に一回入ることのできる、「至聖所」のフイールドに似通っています。彼らは、確かに特別に選ばれた「器」でしたが、年に一回人々の身代わりとして「死刑判決」を受け、実際に「処刑場」の中へ、即ち「至聖所」に入らなければなりませんでした。「至聖所」の領域は「死」に直面する場、つまり生半可な精神状態では入れない場であり、常に「死」を帯びた孤独な場です。


 前述した「父なる神は天地創造を為される際に、何故暗闇を利用したのか?」、この問いに話しを戻しますが、父なる神が天地万物を創造する際に、あえて「暗闇」を利用されたその理由は、天地創造の目的が、全てご自身の愛する「人」のためにある、この「真理」から導かれます。つまり、ご自分が「人」を愛し、親密に交わっていく中で、父はある法則を用いています。それは、「知る」ということです。私たちが、「光」の素晴らしさを「知る」には、どうしたらよいのでしょうか?例えば、「太陽の光」の素晴らしさを「知る」には、「暗闇」という空間に「太陽」を存在させることです。これは簡単(単純)な法則ですが、「光」の素晴らしさを「知る」には、「暗闇」が絶対必要になります。つまり、「暗闇」の中に「光」を投じた時に初めて、「光」の存在意義が見出される(知る)のです。「光」の広さ、長さ(波長)、明るさを認識できる場、それが「暗闇」であることを覚えて下さい。


 私たちが聖霊を通して、霊的に「暗闇の道」を歩まされる時、それはある面で「光(イエス・キリスト)」の素晴らしさ(広さ、長さ、高さ、深さ)を「知る」時です!仮に独房が、素晴らしいシャンデリアに飾られた部屋であり、テレビや電話機器、そして娯楽設備が備え付けられているなど、普段と同じ生活環境であったとしたら、悪人ばかりか大抵の人々が、喜んでその場に入ることを求めるでしょう。しかし実際の「独房」は、「暗闇」と「孤独」の世界だからこそ、どの囚人も入ることを求めず、むしろ拒絶します。父なる神の存在は、無限であり永遠のものです。この無限なる方、永遠の光なる方を「知る」ために、私たちは「暗闇」と「無秩序」の中から創造されたことを知って下さい!確かに「エデンの園」においては、「暗闇」は存在しませんでした。そしてアダムとエバは、父なる神の「光」の中にあって、自由に「光」を全身全霊で体験し、苦労することなく「光」の素晴らしさを、霊的に「知る」ことができました。彼らは、常に父なる神の「光」に覆われていたので、あえて「知る」必要も無かったのです。しかしご存知のように、彼らはサタンの「古い言葉」を「知った」ために、父なる神の「光」を失い、「暗闇」に覆われる存在になりました。


 「暗闇」に覆われた私たちが、「永遠の光」なる方を「知る」には、その「光」へ導いて下さる方「聖霊様」が必要です。A・マーレーは、次のように述べています。「果実を知るためにはそれを味わう以外に方法はありません。光を知るにはその中に入ってそれを用いる以外に手立てはありません。人を知るためにはその人と交わる以外に道はありません。そして聖霊を知る道は聖霊を自分のものとし、自分も聖霊のものとされる以外にはありません。」(注1)私たちは今まで、様々な「霊的導き」を体験してきました。しかしパウロ、ヨセフ、モーセ、エリヤのように、未だ完全な「暗闇」のフイールドを、歩いているレベルとは言えません!


 聖霊が為される全ての導きには、必ず霊的「至聖所」が備えられていることを「知る」者は、イエス・キリストとの「親しい交わり」を、ひたすら求めて前進します。イエス・キリストを、「スーパースター」として描いている者にとって、「至聖所の道」は理解できません。彼らはパウロのことも、新約世界における「最高のカリスマ伝道者」としか把握できません。私もかつて若かりし頃、次のような誘惑(野心)の言葉(思い)を抱いていました。それは、「私は将来、必ず日本のチョー・ヨンギ師になる!」などの三次元的思考(願望)です。


 私たちが、現在活躍しているカリスマ・リーダーたちの、今の成功したミニストリーだけを見ているとしたら、「人間的な栄光(人の光)」は見えても、「神の光」を見出すことはできません!しかし、彼らの祈りの生活には、必ず霊的「至聖所」を求めて止まない、神との「交わりの時」があるのです。確かに「至聖所」には、神との麗しい「親しい交わり」の場が用意されます。それと同時に、はっきり申し上げてその場は、人目に付くことのない寂しい「孤独の場」であり、誰からも認められない「苦しみの場」でもあります。しかし、そのような「孤独」と「苦しみ」の場に導かれた時に初めて、私たちは次のことを「知る」のです。「知性」で表明できない、「言い難きうめき(異言)」の祈りが出て来ることを。「主よ、あなたを求めて止みません!どうぞあなたの広さ、深さ、高さ、その永遠性が、如何に聖く麗しいものに満ちているかを、私は知りたいのです!私は今、暗闇の中にあります!だから永遠の光なる方、あなたを更に知りたいのです!」と。


光の源を知る祈り
 「異言の祈り」は暗闇の中に、必ず「光の源」なるイエス・キリストを、新たに見出す「祈り」へと成長します。そして「光」を、霊的に正しく「知る」ために必要な方法が、「異言」をもって神と交わることです。父なる神が「暗闇」の中に、万物を創造される際に語られた言葉が、霊による「命の言葉」であったことを覚えて下さい!同様に父なる神は、「命の息」の源である「聖霊」を通して、「暗闇」の中にある私たちを贖うべく、「光の源」なるイエス・キリストの御元へと導き出し、「神の光」を帯びた「新しい人」として、私たちを再創造して下さいます!


 私たちが「暗闇」にある時は、確かに「霊的独房」に入ったかのように、感じられることもあるでしょう!私たちは果して、「金持ち」と「ラザロ」を見比べて、どちらの道を選択するでしょうか?「金持ち」は、求めるものは何でも得られる、人間的に見て「この世」における、「成功者」としての人生を過ごしました。人々から愛され、人々に称賛される身分の者でした。かたや「ラザロ」と言えば、「金持ち」のゴミ捨て場に暮らすホームレスであり、人から見向きもされない「孤独の人」でした。しかし、彼の「霊」の只中には「真の喜び」が満ち溢れ、父なる神を求めて止まない「至聖所」が存在していました。彼は「世のもの」に何一つ興味を示さず、イエス・キリストと同様に「家なき者」、つまり野宿生活にありましたが、内なる「霊」は常にイエス・キリストの愛の深さ、広さを「知る」ことを求め、イエス・キリストの愛に根ざす、豊かな「孤独の人生(生涯)」を全うしました。彼の寿命が何歳であったのか、知る者は誰一人いませんでしたが、確かに彼は死後「天上」に挙げられ、アブラハムの愛の懐に抱かれているのを、「金持ち」はゲヘナから見たのです。


 さて、私たちは「この世」において、「光(栄光)ある生活(人生)」を求めますか?それとも「この世」において誰からも認められない、つまり自分に「光」が向けられないような「暗闇」にあっても、確実に神が与えて下さる「新しい言葉」をもって祈る、そのような霊的生活を求めますか?そして「キリストの愛」が更に豊かに満ち溢れ、自分の全てを捕えて離さない!そのような砕かれた人生を求めますか?悪魔サタンは、常に「甘い言葉」をもって、私たちに誘惑し囁いてきます。「あなたは、もっとこの世において光を求めなさい!」と。


 それに対して聖霊様は注意を促します。「否!否!否!アダムとエバを騙した、サタンの言葉に騙されてはなりません!あなたは暗闇の中にあって、更に真の光である主イエス・キリストを求めなさい!」と。この二つの語りかけが対立し合う中で、私たちは霊的に矛盾を感じながら葛藤します。「え!暗闇を求めるのですか?」。聖霊様は即、「そうです!あなたが死す時に、あなたの霊の中に真の光なる方、イエス・キリストが耀き溢れ出るのです!あなたの霊の中に、あなたの光が存在する限り、イエス・キリストが耀き溢れ出ることはありません!あなたの光を消し去りなさい!イエス・キリストは真の光として、あなたの霊の全てに渡って満ち溢れたい!と強く望んでおられます!」と命じられます。


 このように、「真理」を「知る」には「死」を通過しなければなりません!「死」の中から、新しい「命」が生まれるのです!同様に、「暗闇」の中から「真の光」が生じるのです。「暗闇」の中にあって初めて、「真の光」の素晴らしさを「知る」ことができる!このことを常に覚えて下さい!ですから私たちは更に、霊的な「暗闇」へと導いて下さる、聖霊様の働きを敏感に感じ取ることのできる、直ぐな「霊」に造り変えられようではありませんか!A・マーレーの言葉を借りるならば、「変えられた新しい生命のみが、神の全き御心を知ることを欲するのです。」(注2) 私たちは「暗闇」の中で初めて、①「光なる方」を見ることができ、そして②「光なる方」に近づき、③「光」そのものに触れ、④自分の唇をもって感じ取り、更に⑤「光なる方」ご自身が、自分の「霊」の中に入って戴くことによって、イエス・キリストの「本質(ご人格の全て)」が、私たちの全てに満ち溢れるようになること、これが「知る」ということです。


 私たちは、何を「知る」ことを求めていますか?パウロが、「異言を語ることを禁じてはなりません。」(Ⅰコリント14章39節)と強調しているこの御言葉は、恐らく彼がキリスト者として、人生の大半を過ごした「独房生活」の中から、見出した霊的真理ではないかと思います。モーセが、荒野という「暗闇」において受けた霊的訓練の期間は、「40年」という長い年月でした。ですから私たちは、「この霊的な苦しみの期間は、いつまで続くのでしょうか?」などと、「神の時」を疑問視したり、自分勝手に「時」を計ってはなりません。それは、聖霊様に対する愚かな質問になります。キリストの「裁きの御座」に立った時、御父から「忠実な者よ!あなたは暗闇の中にあって、よくぞ私の光を見出してくれた!今、私の元に帰って来なさい!」と、「ラザロ」同様に優しく招き寄せられるのか、それとも「不忠実な者よ!あなたの暗闇の期間は、余りにも短かった!私の光も見出せないくらいに・・・・。あなたの光を必要とする、サタンの元に行きなさい!」と、「金持ち」同様に永遠の「死刑判決」を下されるのか?それは私たちの選択次第です。



                                                        至聖所への祈り


 聖霊様、あなたに従順することができるように。

 聖霊様、神の御霊によって、礼拝する者にして下さい。人間的なものではなく、あなたの御霊によって為すことができるように。全ての人本主義的なことから解き放って下さい。

 どうぞ聖霊様、自由に働いて下さい。

 聖霊様、一切のこの世的なものから解き放って下さい。

 聖霊様、どうぞこの小さな私たちを守って下さい。

 聖霊様、上よりの力を増し加えて下さい。

 聖霊様、あなたによって私たちを整えて下さい。

 聖霊様、私たちではなく、あなたによって為して下さい。

 主よ、どうぞ私たちを用いて下さい。あらゆる敵の罠から、私たちを守って下さい。どうぞ、私たちに大胆さを与えて下さい。

 聖霊様、どうぞ私たちが、恐れずに前進することができる者にして下さい。

 どのような現状にあっても、どのような状態にあっても、主よ、あなたを誉めたたえ、あなたと共に前進することができる者に造り変えて下さい。

 礼拝は聖なるものです。私たちは、聖なる礼拝にあずかりたいのです。聖なる礼拝に、悪しきもの、汚れたもの、世的なもの、バビロンを入れることがないように、又はびこることがないように守って下さい。

 私たちの心と思いから、一切のバビロンを解き放って下さい。イェスの御名によって、一切のバビロンを解き放ちます。アーメン!
※1997年8月31日、妻の「異言の祈り」より



注1、A・マーレー著『キリストの御霊』(いのちのことば社)92項から引用
注2、A・マーレー著『キリストの御霊』(いのちのことば社)216項から引用


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