バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

急患診療(No.19)

                           十番目の幸い



・・・・トマスは、イエスが来られた時、彼ら(十二弟子)と一緒にいなかった。そこで、他の弟子たちが、「私たちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
                                                              【ヨハネ福音書20章24~29節】


「復興」、それとも「復活」か?
 今日(現在)の日本は、「復興」という名の大目標を掲げながら、前進する(立ち直る)ことが求められています。実は私たちキリスト者も、「復興」なのか?それとも「復活」なのか?という、霊的な分岐点に差し掛かっていることを、あなたはご存知でしょうか?


 「復興」という言葉は、英語で「リバイバル(revival)」と言います。それに対して「復活」とは、英語で「レイズ(raise)」と言い、トリノ冬季オリンピックのフィギュア・スケート競技で使用された、「♪You raise me up!(あなたが私を再び引き上げて下さる)♪」の中の動詞が、まさしく分かり易い「意味(歌詞)」を教え示すものです。


 そして、聖書の中に使用される「レイズ」は、①父なる神が、ご自分の選んだ民を、今よりも更に高度な次元へと導く場合に、また②御子イエス・キリストを、十字架の「死」から復活させる場合という、二つの方向性で用いられています。ですから「リバイバル」と「レイズ」とでは、何となく似通った意味合いの言葉であっても、実際に聖書で用いる霊的な意味合いとしては、全く次元の異なる言葉です。


 「リバイバル」とは、元の状態(有様)に立ち返ることです。まさに今の日本が、物理的には「リバイバル」が要求されています。元の状態(2011年3月11日以前の日本)よりも、強固なものを造り上げようと、復興ビジョンを立ち上げ、これから大規模な国家予算を投入しながら、復興計画が進んで行くことでしょう。(国家的リバイバル)


 それに対して「復活(レイズ)」とは、完全なる破壊(死を含む)の後の、「新しい命」の創造のことです。つまり、「完全なる死」がもたらされない限り、この「復活」も起こり得ません。ところが今回の東日本大震災によって、日本民族の全てが死んだ訳ではありません。そういう意味で、日本は物理的にも民族的にも、「リバイバル」が望まれていますが、私たち日本人キリスト者にとって、今回の巨大地震の後に求められている信仰の渇き、それは「リバイバル」よりも、イエス・キリストによる完全な「復活(レイズ)」です!


 それは、三次元(物理・経済・民族)的な「復興」ではなく、「死」を乗り越えて働かれる、父なる神の偉大なる御業、即ち復活のイエス・キリストが、まさに今生き残った私たち日本民族に、求められているのです!私たちキリスト者が、復活のイエス・キリストが、私たちの語る「言葉」、日々為す「行い」などの中に、生き生きとしたものとして、聖霊様が顕現して下さることを信じて、実際に語り行動(前進)して行くのです!


 しかし現実の私たちは、このストーリーに記述されたトマスの如くに、「イェス様、信じます!」と口で言いながらも、未だもって「疑い」の領域から、レイズされていないのではないでしょうか?リバイバルの「奇跡」を求めることはあっても、復活のイエス・キリストご自身を求める信仰は、未々幼いレベルにあります。トロントのしるしやペンサコーラのしるしなどを、追い求めることに熱心であった、私たちペンテコステ派のキリスト者は、大いに反省すべき点があることを、トマスの教訓から学ばされます。


 そうです!2011年の巨大地震の後に、私たちキリスト者の霊的真価が問われているのです。それは単なる「建物(教会堂)や教会員数なとが、以前の状態よりも更に大きくなる!」ことを求めるなどの、世的な信仰の次元にではなく、「イエス・キリストの十字架の死と共に、自分の霊も十字架上にて死に、新しい復活の命を通して生きるか死ぬか?」が、まさに問われてるいるのです。①死んだら天国、②生き残ったら「復活」の働きが用意されているという、どちらの生き方も、父なる神が計画しておられる、素晴らしいキリスト道になります。


 実はトマス同様に、この世の人々にとっては信じることが出来ない、目に見えないものを信じる「信仰」というものが、私たちキリスト者に試されています。即ち「目に見える事実」にではなく、父なる神が御子イエス・キリストの、「贖い(十字架の死)」を通して完成された、「復活」という見えざる「神の事実」に、私たちが信仰を働かせることです。この世の人々にとってイエス・キリストの復活は、確実な証拠が無ければ、決して信じることが出来ない事柄です。それ故に、私たちがキリストの「証人」として、復活の事実の証拠提供、或いは証拠となる「証言」を語るという、確固たる信仰が試されているのではないでしょうか。


イエス・キリストによる「真のレイズ」
 マタイ5章3~11節には、イエス・キリストがイスラエルの民を前にして、神の見えざる「九つの幸せ」を、公に証言し語っている記事が書かれています。イエス・キリストはその「証言」の中で、先ず「心の貧しい人こそ、本当の幸せ者である!」と、大胆に宣言しました。すると彼らは「目に見える事実」のみに、人間の「幸せ」がある!ことを、常日頃から求めていますので、「現実はとてもじゃないが、ローマ人の搾取によってジリ貧状態である!この上更にあなたは、心が貧しくなれとでも言うのか?」などと、「疑い」混じりに聞いていたことでしょう。


 イエス・キリストの語る「心の貧しさ」とは、心と霊が真実から神の「御心」を求めて、飢え渇いている(ハングリーな)姿勢(生き様)のことでした。私たちもその場に居合わせたら、彼ら同様に「イェス様、福音の真の奥義は理解できますよ。でも現実はですね・・・・。イェス様のおっしゃる幸せは、全て目に見えないものですから。」などと、トマスと何ら変わり無き態度(不信仰)を示すことでしょう。そうです!私たちは、すぐに三次元的「復興計画」を、肉の次元で建て上げることに奔走し、それを神に要求する「弱さ」があるのです。「あなたがこうしてくれたら(目に見える事実として奇跡が起きたら)、私は素直に信じます!」などと。


 ところがイエス・キリストは、この時のトマス(私たちも含む)の姿勢を、決して責め立てませんでした。イエス・キリストはトマスに対して、以前と同様に親しく近付き、彼の両手を優しく掴み、こ自分の「手のひら」と「わき腹」へと持って行き、実際に彼の手で直接触れさせることで、「復活」という見えざる「神の事実」の、偽らざる証拠を提供しました。


 トマスはイエス・キリストの「わき腹」の、へこんだ傷跡に指を入れた瞬間、自分の愚かな現実を見せられ、イエス・キリストの足元に崩れ倒れ、即ひざまずいたのです。そうです!私たちも、イエス・キリストの御前に行く時、それは立った状態ではなく、思わずひざまずく(立てなくなる)格好になります。何故ならば、私たちのような愚かで罪深い、否定的かつ不信仰だらけの者が、御子イエス・キリストの御前に出る時、父なる神が私たちのことを、イエス・キリストの「贖い」故に、孤児ではなく「実子」として迎え入れて下さり、「全き愛」をもって抱擁して下さるからです。


 イエス・キリストが、十字架刑による「釘跡」と、わき腹に残る深い「傷跡」を、トマス(私たち)に対して見せて(提示して)下さる理由は、父なる神がトマス(私たち)のことを、尚も深く愛して下さるからです。この時トマスは、聖霊様の導きを通して悟り、「我が主よ、私は何と・・・・!」と、涙ながらに悔い改めました。以前のトマスでしたら、イエス・キリストのことを「先生!」と呼ぶのに対し、この時から「我が主、我が神よ!」と、聖霊によって聖められた言葉をもって、まるで「赤子」が母親を慕い求めるが如くに、イエス・キリストを「真の神」として飢え渇き始めたのです。


 すると聖霊自らが、トマスの「霊」を覆って下さり、優しく語りかけて下さいました。「我が子よ、私はそのようなあなたを愛している。さー、イエスの手を取りなさい!」と。彼は、イエス・キリストの差し出された、その貴い御手を握った時に、イエス・キリストの力強く、暖かな御腕に抱きかかえられたのです。これがイエス・キリストによる、真のレイズ(復活の救い)です。


十番目の幸い
 その後イエス・キリストは、、あえて確認されるかの如くに、「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(29節)という、十番目の「幸い」のメッセージを、彼の「霊」に届けられました。三次元的事実としては、トマスは確かに肉眼で見たから、信じたかのように推測できます。しかし霊の次元においては、彼の「霊の眼」が、明確に「イエス・キリストこそ我が主、我が神、仕えるべき最高の方、ほめたたえられるべき方、死を打ち破った甦りの主、王の王である!」と告白できる程に、既に肉の次元から解放されている(復活の次元に生きる者へとレイズされる)ことが伺えます。


 そうです!復活の次元に生きる者は、必ず目(肉眼)に見えてこない、「事柄(神の事実)」が(霊の眼で)見えてくるのです。私たちに問われていることが、まさに今回のトマスに起きた神の御業、即ちレイズではないでしょうか!「将来(先のこと)」を思う(心配する)こと、これは三次元(この世)的な「肉の眼」で見ることであり、これは「罪」がもたらすものです。聖霊様自らが、私たちに働かれる時には、「将来や明日のことは、全て捨て去りなさい!今まさに働かれる、イエス・キリストの御業を、霊の眼をもって見なさい!三次元的事実にではなく、見えざる霊の領域に働かれる、神の大いなる復活の御業に期待して、信仰の声を発しなさい!」と、語りかけ命じて下さいます。


 神の見えざる「復活(レイズ)」という、霊的事実のみを見よう!と、必死に祈り求める者こそ、イエス・キリストが提示して下さる十番目の「幸せ」を、実際に手にすることが出来るのです!あなたが、まさに今働かれる聖霊様の御業に従順し、「私の霊の眼を、あなたの次元へと引き上げ、復活させて下さい!まとわり付く、全ての問題からレイズして下さい!」と大胆に信仰の声を上げ、霊の眼をもって「神の事実」を豊かに見出し、父なる神の「ご計画」の中で、大いなる「完成」に携わる者として、更に選び召し出されることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する