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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

信仰の完成(No.16)

                             孤独な戦い

 
私が・・・・シェマヤ(祭司)の家に行くと、彼は閉じこもっていた。彼は言った。「神殿で会おう。聖所の中で。聖所の扉を閉じよう。あなたを殺しに来る者がある。夜、あなたを殺しにやって来る。」しかし私は言った。「私の立場にある者は逃げることは出来ない。私のような者で、聖所に入って、尚生き長らえことの出来る者があろうか。私は入らない。」彼は、・・・・トビヤとサンバラトに買収されて私に預言したのだということを私は悟った。・・・・我が神よ、トビヤとサンバラトのこの仕業と、私を買収した・・・・預言者たちを覚えていて下さい。
                                                                                               【ネヘミヤ記6章10節~14節】


「孤独な戦い」にあっても・・・・
 信仰の戦いは、常に孤独である!と、私たちは熟知しています。その時に私たちは、ふと「慰めが欲しい!」、「信仰の助け手がいたら・・・・」、「人間的な励ましがあれば・・・・」などと願い求める傾向にありますが、今回のストーリーに見られる、ネヘミヤの信仰の戦いから、私たちは霊的に学ぶべき奥義があります。


 敵は私たちの「弱さ」を、必ず攻撃して様々に脅します。その時に私たちは、敵の外側からの攻撃に対しては、集団で防衛するなどして、ある程度は対処できます。ところが内なる領域に働きかけ、敵が内側から攻めてきた場合に、いとも簡単に防衛陣が突破されて、結局は孤軍奮闘の戦いを強いられます。しかし孤独であるからこそ、実は神の「御恵み」か豊かであることを、私たちはその時学ぶ必要があります。


 40日間に渡る断食の後、イエス・キリストが、サタンの誘惑と攻撃に対して、神の「命の言葉」をもって勝利したように、私たちも正しい「命の言葉」のガイダンスを、聖霊様に示して戴きながら、常に事に当たるべきです。先ず私たちが学ばなければならない第一の奥義、それは偽りの神託(預言、啓示など)をもって、敵は私たちを惑わすという点です。


 敵が今回ネヘミヤに遣わしてきた使者、それは正式な(偽物ではない)祭司であるシェマヤでした。彼は、実際にはネヘミヤの元を訪問したのではなく、逆にネヘミヤが何らかの理由で訪問しただけです。敵の攻撃に怯えて隠れ祈っていたシェマヤは、ネヘミヤに言いました。「総督様、只今神からの示しがありました。皆で神殿に赴き、聖所にて待つ神に出会いましょう!敵は聖所には近づくことが出来ませんから。」と。


 何となくこの「お告げ(示し)」は、神の偽りなき導きと思われます。しかし、祭司が語った次の言葉に、ネヘミヤは「罠」だと気付きました。「敵は毎晩、刺客を使って総督様の命を狙っていますので、聖所に入ったら鍵をかけましょう!」と。つまり祭司が語る言葉には、明らかな「脅し」が見え隠れしています。


 そこでネヘミヤは、祭司に悟られぬよう、黙して神に祈り求めました。「神よ、私は明らかに脅されています。これは正しいことでしょうか?」と。すると神は「これは偽りの言葉である!彼は敵により、既に買収されている。絶対に彼に組してはならない。」と、正しい方向に導きました。


 明確な神の言葉を受け取ったネヘミヤは、祭司に堂々と告げました。「私は逃げも隠れもしない!そのような私が、何故聖所に入って隠れなければならないのか?聖所に入るべき者とは、油注がれた大祭司だけだ!そこに入ることの出来る祭司とは、罪なき大祭司だけなのに、私のような罪人が入ったら、死んでしまうではないか。あなたの言っていることは矛盾している。それとも何か、あなたは私を殺そうとで言うのか?」と。


イエス・キリストの「孤独な戦い」
 前述したように、敵は私たちの「弱さ」を知っています。ここで言う「弱さ」とは、霊的な意味ではなく、肉(魂)的な「弱さ」のことです。ネヘミヤにも当然、この肉(魂)的な「弱さ」がありました。恐らく彼の最大の「懸念(恐れ)」は、神の御力を祈り求めながらも、同胞の民の命を守るべく、直ちに事に対処したい(帝国軍の力に頼りたい)!という、人間的な手法に移るか否かという点でした。つまり「敵」が攻め込んできた時に、皆が一致団結して「事」に当ろうとするなどの、人間的弱さが露呈するのです。


 ところで真の羊飼いである、主イエス・キリストは如何なる指導者であったのでしょうか?ご存知のように、イエス・キリストは沢山の弟子たちを導いていました。にも関わらず、彼らに対して相談したことは皆無でした。「福音」を語って、彼らを励ますことはあっても、彼らの直談判等に対しても、全く「事」に対処することはありませんでした。


 主なる神の御子であるイエス・キリストは、あえて「孤独」を選択したこと、これが第二の奥義です。イエス・キリストは常に、彼らに悟られぬよう、さっと離れて「山」に登られました。恐らく弟子ヨハネだけが、不思議に思って跡をつけたのでしょう。そして誰もいない場所にて、悶え苦しみながら祈る、師(ラビ)の真の姿を見たのです。


 「父よ、彼らは何をしているのか分からないのです。彼らは常に、私に肉の剣を取るように迫ります。しかし私は、あなたの御心のみを求めます。どうか真理の道だけを教え示して下さい!」と。そのような苦しみの祈りをしながらも、イエス・キリストは下山する時には、聖霊様の新たな力を得て、喜びと確認に満ちた顔つきで、弟子たちと合流する様も、ヨハネは見逃しませんでした。


 さてネヘミヤは何故、祭司の「助言」を見破ることが出来たのでしょうか?実はネヘミヤは、イエス・キリスト同様に、誰かに「助け」を求めるなどの、人間的な「相談」事を一切しませんでした。そうです!彼は常に「孤独」でした。側近の「兄弟」にも相談していません。彼は常に、自らを神の「御心」の中に求め、その応え如何によって、信仰の選択を忠実に果たしていたから、瞬時に見破ることが出来たのです。


 彼は常に「自ら動かず、神の御心が何にもまして優先する!」という生き方を徹底したのです。確かに人間は、一人(孤独)では弱い生き物です。それ故に、他人に頼るという選択に陥ります。ところが聖霊様の場合は違います。私たちが弱い時に、聖霊様の場合はどう働くのでしょうか?聖霊様は、決して人間的な方法を良しとはされません。


聖霊様は「弱いあなた」に働かれる
 聖霊様は、人間的な多数決等の方法には、絶対に働くことはありません。今後の日本のリバイバルは、どうなっていくのか分かりませんが、一つだけ分かること、それは「村社会」的な方策から脱却し、聖徒を始めとして、どの牧師(偉大な器)であろうが、聖霊様の働き(意志決定)に対して、素直に聞き従うのであれば、必ず「その時」至りて結実することです。


 覚えて下さい!「一人(孤独)」であることこそ、聖霊様の働き(取扱い)が多く為される機会なのです。それと同時に「一人」である!と自覚した時が、実は一番霊的に「弱い」時です。聖霊様によって、自分の「弱さ」を露呈して戴いたネヘミヤは、思わず感謝しました。「私のような罪人が聖所に行ったら死んでしまう。しかし私は、決して(敵から)逃げも隠れもしない!聖霊様がいらっしゃるから。」と。


 ロ-マ書8章15節には、「あなた方は、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは、アバ父よ!と呼ぶことができるのです。」という文言が書かれています。そうです!敵は私たちを「恐怖」という名のサタンの奴隷として、強固に縛り苦しめたいところですが、聖霊様は逆に私たちを、「神の子」として生きる自由人、つまり仮に「孤独」であったとしても、常に「アバ(お父ちゃん)!」と、主なる神に対して親しく呼べる程の、強固な信頼関係の中に、私たちを導いて下さいます。


 そして26節で、「聖霊も弱い私(あなた)を助けて下さる!」と続くのです。ですから弱い自分を、聖霊様の助けによって誇りましょう!イエス・キリストによる「正しい道」を歩む時には、絶えず「孤独感」が付きまといます。しかし聖霊様は、何よりもまず「神の御心を求めて祈りなさい!そして弱いあなたに働く、私の取扱いに期待し従って来なさい!」と命じられます。


 イエス・キリストが預言されたように、「終りの時」には、本物らしきもの(偽り)が登場して来ます。聖霊様こそが、イエス・キリストによる「正しい道」のガイダンスです!それ故に私たちは、ネヘミヤの如くに真偽を見定める、正しい霊の耳、霊の唇、霊的洞察力をもって、今後聖霊様と共に歩む、一人(孤独)の神の子でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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