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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

バルナバ・ボイス(No.16)

イエス・キリストのEyes③


                    熱を見て、熱に叱る方




イエスはペテロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。
                                                                                               【マタイ福音書8章14〜15節】


イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
                                                                                                 【ルカ福音書42章38〜39節】



「霊の次元」で全てをご覧になる方
 このストーリーに記述されている出来事は、私たちの日常生活の中においても、度々起こり得ることです。熱が急に出てきた時に、私たちの場合「もしかしたら風邪を引いたのでは?」などと体温計を手に取り、風邪薬の準備をしたり、或いは掛かり付けの病院に行くなどの行動に移ります。そしてそのような時、内科のお医者さんは必ず、「お薬(抗生剤、解熱剤)を処方しておきますから、ちゃんと食事をとって薬を飲み、後はゆっくり休んで下さい!」とアドバイスします。


 しかしこの時代は、そのような優れた医者も特効薬も存在しません。ましてや、ペテロの義母の発熱の原因は不明である!という事実に、私たちは先ず注目する必要があります。もし彼女の病が、風邪による発熱であるならば、イエス・キリストの行動から分ることですが、大抵発熱によって苦しむ一番のポイント、つまり「頭」に手を置いて祈るはずです。しかし今回のイエス・キリストの場合、彼は私たちの三次元レベルの判断とは、比較にならない霊的次元の中で、ペテロの義母に為されたのと同様に、私たちの「全て」をご覧になって下さる方!このことを覚えて下さい。


 イエス・キリストの見つめる「眼差し」は、私たちが見るような、制限された三次元(物理)的視点ではありません!イエス・キリストが、何よりも優先して見る対象、それは「父なる神」ご自身です。彼は、先ず父なる神の「御心」を求め、更に聖霊様の「助け」を見ることで、自分に与えられた救いの「使命」、つまり対象となる人々に対して、父なる神の「思い」をもって「眼差し」を向けられるのです。


 この世の人々は三次元的判断で、例えばある人が「病い」を患った場合、「〜したから・・・・になった!」、「あの人が〜したから、彼(彼女)は・・・・したのだ!」などと、「原因」と「結果」を安易に定義付けようとします。特に日本人は、仏教的思想(因果応報)などの二元論的思考から、必ず自分を含め人々を束縛して行きます。ですから私たちも、イエス・キリストと同じ霊的視点に立たなければ、必ず三次元(或いは二次元)的思考に束縛された概念で、人々を見ることになるのです。


 私たちの信仰生活の中にも、何らかの「問題」が生じた際に、「この問題は、私が〜したから・・・・になった!」、「あの人が〜したから、この私に・・・・という問題が起きた!」などと、三次元(物理)的な判断で物事を見てしまうが故に、ある面で「その時」から私たちは、霊的「発熱」という病いを患うのです。そういう意味で、私たちの「霊」はすぐにも発熱し易い、弱い器であることを先ず覚えて下さい!そうです!このストーリーに見られる現象は、ペテロの義母ばかりでなく、この私たちにも起こり得る霊的出来事なのです。



霊的「発熱」のメカニズム


愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたが全ての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。
                                                                                                     【第三ヨハネの手紙2節】


 この世のお医者さんは先ず、病にある私たちの「何」を見る(診断する)のでしょうか?それは殆どの場合、「顔色」や体の「動き(動作)」です。そして「顔色」を見る場合、特に内科医は顔の一部である「眼」を見ます。つまり私たちの「眼」の中に、健全な輝きがあるかを探ろうとします。しかしペテロの義母の場合、彼女を苦しめる「熱」の原因は、未だもって不明でした。


 ところで、私たちの「人体」の働き(作用)の中には、病原菌などの体外ウィルスによってではなく、物理的に原因不明の「発熱」を起こすことが、実は度々あることを知って下さい。特にそれは眼に見えない領域、例えば「記憶」を司る小脳の働きから、この「発熱」を引き起こすことがあります。私たちの「記憶」の領域に、思い(記憶していないこと)もかけない出来事が起きた場合に、突然「恐れ」や「不安」などにより、寒くないのに体が震えたり、発熱現象を引き起こすことがある訳ですが、そのメカニズム(原因)に関しては、今のところ詳細に解明されていません。


 このようにペテロの義母も、原因不明の「熱」に苦しんでいたのですが、イエス・キリストは彼女のその様子を、注意深くご覧になっ時、「父よ、私の眼の前に寝ている女性は、ひどく病んで傷付いています。何の原因で熱が起きているのか分りませんが、あなたの御心を示して下さいますように!」と静かに祈りました。すると、聖霊様が父なる神の「御心」を届けられ、「全てを見渡しなさい!彼女の苦しむ表情ばかりでなく、彼女の霊の内側にまであなたの両目を向けなさい!」と促されました。そこで、イエス・キリストは更にご自分の「眼」を、彼女の霊的フィールドにまで投げかけられ、遂に彼女の「霊」を蝕む、「発熱」の原因を発見するや否や、彼女の手に触れられました。


 そして、突然に怒りを顕わにしながら、彼女を苦しめる眼に見えない「熱病」に対して、「熱よ、お前は退がれ!」と叱りつけました。ご存知のように、イエス・キリストの「癒し」の言葉に見られる、様々な信仰告白(宣言)は、非常にシンプルな言い回しです。私たちの信仰生活にも、様々な原因不明の「トラブル(発熱)」が起きる訳ですが、「その時」私たちは安易に三次元(二次元)的憶測から、その「原因」を探ったりするなどして、解決手段を見出そうとするのですが、この時のイエス・キリストと同様に、ストレートに「私を苦しめる原因不明の霊的トラブルよ、お前に命じる。直ちに私の元から、完全に退がれ!私は既に、イエス・キリストの十字架の血潮を注がれ、豊かに守られている身だ!お前はこの私に、近付くことが出来ない!」などと、大胆に告白できればよいのですが、大抵の場合に私たちは、三次元的「眼」で物事を見つめてしまい、最終的には「嘆き(呟きと絶望)の谷」に転がり落ちてしまうのです。私たちを突然に苦しめる、原因不明の「トラブル」に対して、私たちが三次元的に解決する方法は一つも無い!このことを是非覚えて下さい。


 ペテロの義母も何か善きことする度に、必ず「不明熱」が起こり倒れ込む、そんな苦しい日々を過ごしていたのですが、世間の人が思う(憶測する)ような、例えば「災いが起きた理由は、きっと彼女自身に問題があったのか、ご先祖様の祟り(呪い)だ!」などの類ではありません!それは、彼女の「全て」を父なる神がご存知であり、彼女を苦しめる「不明熱」を癒すという、父なる神の「栄光」の御業を通して、今に生きる私たちに「何か」を教えるためです。聖霊様は、私たちが三次元的方法をもっても、対処しようが無い四次元の霊的領域にまで、イエス・キリストの「眼(Eyes)」を、私たちに投げかけて下さる方である!このことを覚えて下さい!


 イエス・キリストは、私たちの「全て」を見られた後に、必ず私たちの元に近付いて下さり、直接御手をもって病める(苦しむ)領域に触れて下さり、「命の言葉」をもって命じられるのです。「この者を苦しめる熱(体温のことではありません)よ、お前には力も権威も無い!お前は、父なる神の栄光が現れる、この領域から直ちに退出せよ!この者の霊の領域にお前は、今から立ち入ることも侵入することも、今後如何なる力を行使することも、私は許さない!直ちに引き下がれ!」と。私たちの語る「言葉」にも、このような「信仰の言葉」が与えられたら、どんなに素晴らしい神の御業が、次々と起きることでしょうか!


 しかし現実の私たちは、出エジプトしたイスラエルの民と同様に、すぐに「過去(エジプト)の谷」に転がり落ちるのが常です。イエス・キリストは、そのような悪しき谷間に寝込んだ、私たちの元にも降りて来て下さり、優しき御手をもって触れて下さいます。そして傷付いた子羊(私たち)を懐に力強く抱きかかえ、元のポジション(安らぎの憩いの泉)へと導き、最終的には「命の水」を与え、解放して下さる方です!


霊的「発熱」を叱りつける時
 私たちが霊的に転がり落ち、悪しき谷間に伏した状態に陥る時、それは自力で立ち上がることも出来ず、息をすることも力失せた(萎えた)、困難(苦しみ)の中にある時です。これが、私たちの「霊」を苦しめる霊的「発熱」の原因です。特に、私たちの感情を司る魂(心)の領域には、他人の唇から吐きかけられる、様々な「古き言葉」に傷つけられたり、また「記憶」の領域において、思い掛けない経験を通過させられる故に、私たちが本来為すべき神との健全な「関係(親しい交わり)」に、進み行くことが出来ません!


 これが、悪魔サタンの巧妙な「罠(トリック)」によってもたらされる、悪しき「発熱」の正体なのです。ある人は「憎しみ」を心(魂)の領域に、大事に抱きかかえているが故に、必ず人間関係に躓き倒れます。そして自分が躓き倒れた原因を、「憎しみ」を与えた対象(人)と決め付け、「あの人が〜したから、今の自分は苦しいのだ!」などの間違った判断をすることで、益々悪しき「罠」の虜になる訳です。これも霊的「発熱」現象の一つです!


 これに対して、私たちは「肉の方法」では立ち上がることも、何らかの解決策を見出すことも出来ないことを、先ず知る必要があります!しかし、このような悪しき「罠」に陥って苦しんでいる人々を、私たちの主イエス・キリストは、全てご覧になって下さり、「愛する者、あなたの魂が全ての点で恵まれ、あなたの人体ばかりでなく、あなたの霊の細部に至るまで健全であるように!と、私はいつも祈っている。」と、聖霊様を通して励まして下さっているのです!しかし、それと同時に悪魔サタンも、イエス・キリストの「御声」を遮断すべく、「お前が、いくら進んでも無理だ。もう諦めなさい!」などと囁きかけます。この「悪しき声」を、私たちの「霊」がキャッチしますと、「もう駄目だ!諦めよう。」などと将来に対しても悲観的になり、再び信仰の歩みをストップし、いとも簡単に「悪しき谷間」に戻り行くのです。


 このことに対して、イエス・キリストは激しく憤られ、「そのような、否定的で愚かな思いを与える悪魔よ、お前に言う!この者に対する私の願いとして、(この者を)もっと麗しい花嫁(器)として整えるべく、私が直接導いているのだ!お前にはこの者を侵害し、捕虜とする権威は無い!」と、今も尚宣言し続けていることを、あなたの「霊の耳」は聞こえているでしょうか?ペテロの義母は、イエス・キリストが「熱」に対して叱りつけた時、素直に「アーメン!」と即答したのか定かでありませんが、恐らくイエス・キリストが命じられたのと同時に、自分の「霊」を苦しめるものに対して、「私もお前を叱る!お前は私の人生から、完全に立ち去れ!今後お前は、私を侵すことも無い。何故なら私の霊の中には、イエス様との健全な関係が、まさに今確立されたから・・・・」と命じ、そしてイエス・キリストの「命の言葉」を思い返した瞬間に、自分の手に触れているイエス・キリストの「御手」のぬくもりを、初めて感じ取ることが出来たのです。そして何事も無かったかのように、健康な時と同様に自力で立ち上がり、彼女が本来為すべき願い望んでいた奉仕、つまりイエス・キリスト(主)に対して、真心からもてなす奉仕に携わることが出来たのです。


 私たちが、たとえ「悪しき谷間」に転がり落ち、そして倒れ込んだとしても、決して彼らの「悪しき声」に耳を貸さないで下さい!むしろイエス・キリストが、私たちの「霊」を守り導き、そして私たちの全てをご覧になっていて下さる!この事実に、私たちは眼を留めるべきです。私たちは、イエス・キリストの「眼差し(視点)」を忘れているが故に、すぐに自分(自己)を見ようとします。しかし覚えて下さい!自分の正しい「有様(姿)」を見るには、イエス・キリストの「視点」を通してでなければ、何も見えて(投影されて)きません!自分の「視点」で自分(自己)を見る限り、そこからは「自己正当化」、「自己満足」、「自己憐憫」などの、古き次元の産物しか生じません!聖霊様を通して、イエス・キリストの「視点」に立ち返りましょう!イエス・キリストは常に、あなたの「全て」をご覧になって下さる方です!


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