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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

信仰の完成(No.21)

                         上より来る喜び




総督ネヘミヤと、・・・・エズラは、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」・・・・更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。・・・・今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」・・・・民は皆、・・・・大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。
                                                                                                 【ネヘミヤ記8章9節~12節】


二種類の涙
 ネヘミヤとエズラは、イスラエルの人々に対して、「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。・・・・今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。」(10節)と告げました。実は「喜び」には、上より来る(着せられる)ものと、下から来る(人間的に作り上げる)ものがあります。


 さて今回のスト-リ-から学ぶべき最初のポイント、それは二種類の涙に関することです。イスラエルの民は、書記官エズラから読み上げられた、神の「命の言葉」を聞いて、次の三点を思い起こしながら、哀愁の涙に浸りました。如何に①主なる神がイスラエルの民を愛し続け、ここまで導いて下さったこと。②アブラハム、イサク、ヤコブを通して現された、神の麗しい「ご計画」と「約束」の成就は、今も決して違うこと無く継続していること。③神は決して孤児(放浪者)とはせず、真の故郷へと連れ帰って下さること。


 彼らの「涙」は一見、真実の涙の如くに映ります。ところがその中に、強烈(感情的)な「涙」というものがあることに、ネヘミヤは気付きました。つまり「嘆きの涙」です。それは今の「現実」が、余りにも悲惨な状態であるため、ただ嘆くだけというものです。それ故にネヘミヤとエズラは、彼らに対して「今日は、全ての者が神の御前にて、霊的に悔い改める(軌道修正する)、聖なる日である。この聖なる日は、神が我らのことを抱きかかえ、共に喜び祝うである!だから嘆いたり、悲しんだりしてはならない。」と告げたのではないでしょうか。


 具体的に第一の涙とは、内向きな涙のことで、今の「自分」や目の前の「現実」を、つい見てしまうところから生じる涙です。この涙を友とする人々は、大抵「過去の喜び」にしがみ付いています。これが下から来る喜びで、それは一時(限定)的なものです。


 それに対して第二の涙は、ネヘミヤとエズラに与えられていた、「信仰」から掴んだ(確認した)ものです。二人は群衆の中にある、涙の「出所」を見ていました。つまり「下」から来る嘆きが、その源流であることを。しかしそれとは別に、両手を挙げながら、まるで目で見えているかのように、「涙」を流して顔を天に向け、礼拝を捧げている人々が居ることも、二人は見逃しませんでした。


 彼らは、目に見えざる神の「臨在」を感じ取り、神の「御顔」を霊の眼で捉え、神の「事実」を確認しながら、たとえ「現実(今の姿)」がどうであれ、更に神の「ご計画」の中で、必ず麗しい「栄光の状態(姿)」へ造り変えられることを、感激の涙をもって喜び祝いました。これが第二の涙です。それは「命の水」を、無代価で提供して下さる方、即ちイエス・キリストを、激しい熱情の愛をもって飢え渇くことで得られる、真実の「喜び」の涙と同質のものです。


主なる神を喜び祝う
 早朝から夕方に近い時刻まで続いた、神の御前での真実の「礼拝(悔い改め)」の、最終仕上げ(フィナ-レ)として、ネヘミヤは全ての民に対して、ご馳走(良い肉)とぶどう酒を振舞いました。すると全ての者が「嘆き」の顔から一変し、正直な「笑顔(朗らかな表情)」になりました。そして満ち足りた時を見計らって、ネヘミヤとエズラは、あの有名な「宣言」を告白したのです。


 「今日は聖なる日である!もう悲しむ時ではない。確かに今は、敵に囲まれ、エルサレム神殿は、かつての栄光の姿にはない。しかし荒廃した所から、奇跡的に城門が完成し、敵の様々な妨害活動にあっても、あなた方の中で殺された者はいるか?そして飢え死にした者はいるか?これこそが、私たちと共におられる、主なる神の為される御業ではないか!だったら、その主なる神を喜び祝おうではないか。神は常に、私たちの必要をご存じで、必ず天より与えて下さる方だから。」と。


 真実の「喜び」は、私たちの内側(肉)から、人間的に作り上げるものではなく、「天(上)」より来たることで初めて、私たちを霊的に力強め、私たちの「霊」を引き上げます。そして聖霊様の働きを通して、天の力を着せられる時に、この真実の「感謝」と「喜び」が、泉の如くに湧き上がってくるのです。


 「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(10節)は、直訳しますと「主なる神が、あなたに与えて下さる喜びこそが、必ずあなたを(全ての面で)力強め、あなたを真に立たしめて下さるのです!」となります。と言うことは、私たちの内側からの肉的な「努力」は、全く必要ありません。では、私たちは何を為すべきでしょうか?神が与えて下さることを、純粋に信じて「与えて下さい!」と告白し、受け取るだけでよいのです。


 「甘い酒」と美味しい「肉」が、人々を力強めるのと同様に、主なる神が常にイスラエルの民を見守り、たとえ「敵」に囲まれていたとしても、「敗北」ではなく「勝利」を取らせて下さることを、ネヘミヤとエズラは自ら教え示しました。


 イエス・キリストもゲッセマネの園において、最初は「現実(死)」の恐怖におののき、もだえ苦しみ祈りました。しかし最終的には、聖霊様を通して「上」よりの力を着せられた時、「私の杯ではなく、あなたの杯を飲みます!」と告白することで、真実の「喜び」を捧げることが出来たのたです。


 そうです!「勝利」イコ-ル、「十字架」上の死である!ことを、イエス・キリストは全面的に受け取りました。主なる神の御前で真実の礼拝を捧げるフィ-ルド、それは「十字架」上である!と。


 ですから私たちも、もはや嘆き悲しむ必要がありません!イエス・キリストが、既に私たちの身代わりとして、十字架上で「勝利」を取られたからです。「上」より来たる喜びを、私たちが着せられる時に初めて、私たちは力強い「礼拝者」、力強い「キリストの証人」として、聖霊様の取扱いにより仕立てられてゆくのです。


 聖霊様は今、あなたに励ましておられます。「上より来たる喜びを、常に飢え渇き求めなさい!」と。あなたの日々の信仰生活において、聖霊様が着せて下さる、「上」よりの真実の喜びが、常に豊かに注がれていることを信じ、霊の眼をもって確実に捉え、そして実際に受け取ることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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