バルナバ・ブログ村診療所

命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.3)

                  「水」によって生きる土



主なる神が地と天を造られた時、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て、土の面を全て潤した。
                                                                                                         【創世記2章4〜6節】


 神が「あるもの」を送る以前の、「土」の形状(フォーム)は如何なるものであり、構造的にそのフィールドを支配していた、父なる神の「意志」が、どのように現されていたのかを、私たちは「知る」必要があります。神の創造の法則には、常に「命の創造」の御業が現されています。そしてその「命の創造」は、どのような方向性で完成されていくのか、その方向性を私たちが正しく見極めなければ、必ず人間的な「肉の業」によって、つまり神が「命」を与えて下さっている、神の「意志(御心)」を無視した形で、フォームを造り上げよう(完成しよう)とする、可能性があることを覚えて下さい!


「土」の以前のフォーム
 先ず私たちは、神が「命」を送る以前の「土」のフォームは、如何なるものであったのか?これを「知る」必要があります。え!?「土」の中には、「命」が存在するのでしょうか?勿論「土」という物質は、私たち生物(有機体)と違って、「命」を持たない物質です。バクテリアなどの微生物が、「土」の中に数多く存在していますが、本来の「土」そのものは、「命」無きフィールドです。しかし父なる神は、この「土」という物質を創造された時から、この「土」の中にもご自分の創造の「目的(ご計画)」を、備えられたことを知って下さい。父なる神は、決してこの「土」を無用の長物の如くに、中途半端に造った訳ではありません。


 第一に、「地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。」(5節)と記述されているように、「土」のフィールドは、如何なる植物も生息できない環境、それが本来の「土」のフォームでした。つまり生物が全く存在しない、「不毛のフォーム」だったのです。何故、「不毛の地」であったのか、それは恐らく「土」の表面の殆どが、岩肌などの堅い形状の土質が覆うフィールドであり、地質的には「硬質地」であったものと推測できます。それ故、父なる神が「命」を送る以前の「土」のフォームは、今の地球に存在する「不毛の地」、例えば「砂漠」のような環境イメージというより、乾燥し切った塩岩土質などの、堅い岩肌に覆われていたのではないでしょうか。


 しかもこのようなフォームにおいては、昼間は熱射地獄になる程の過酷な猛暑に見舞われ、夜間は「凍土」と化するほど冷却するなど、厳しい環境にさらされるフィールドでした。ですから、このようなフォームにあっては、如何なる生物も生きられません。何故、このような過酷な条件を、「土」のフォームは強いられたのでしょうか?それは、この時の「土」のフォームの中に、未だ「あるもの」が存在して(送られて)いなかったからです。


 第二に、「土を耕す人もいなかった。」(5節)と記述されているように、仮に「人」が存在していたとしても、この時点の「土」のフォームは、とても耕作に適したフィールドではありませんでした。何故なら、「人」が耕すことができないほど、硬質のフィールドだったからです。このように、父なる神が「命」を送る以前の「土」の形状は、殆ど「不毛(不作)の地」であり、「命あるもの」が全く生存することができない、過酷なフィールドであったことを覚えて下さい。「土」は本来、神が「命」を与えるまでは、何も「良きもの」を産出することができない、「命」無き物質でした。しかし神は、この「土」に対しても、ご自分の栄光を現すために、神の満ち溢れた作品を①喜び、②満たし、③潤すという三つの計画をもって、遂にリフォームされたのです。


しかし神の「命」が・・・・
しかし、水が地下から湧き出て、土の面を全て潤した。」(6節)
 この御言葉にある、「しかし」という接続詞は、新約の五旬節に始まる「聖霊革命」の時につながる言葉であり、預言的励ましをもって弟子たちに告げ知らせた、イエス・キリストの御言葉「しかし、聖霊があなた方に臨まれる時、・・・・」(使徒1章8節)の、「しかし」と同義語です。何も為すことの出来ない不可能な状況や、何も産み出すことのない不作の状況に陥ったとしても、父なる神にとっては「しかし、私がある計画をもって動く時に・・・・」、神の計画が起こり始める!と約束されているのです。六節に記述されているように、「しかし、神の命の力に満ち溢れた水が来る時に」、つまり父なる神が何も産み出すことのない不毛の「土」のフィールドに、「命」の力として水を送られる時に、神の「新しい創造」の御業が始まりました。


 第1章で学びましたように、「水」のフィールドは神の「意志」に従って、「天上の水」と「地の水」に二分されました。当然「地球」の表面には、「水」が全く存在しなかったのですが、父なる神が「天上の水」を地上に降り注ぐことで、「不毛の地」に「水」が溜まり、あるものは地下水脈へと流れ込み、又あるものは「川」や「湖」となり、更には「海」のフィールドを形成するに至りました。この時から「天の水」と「地の水」が、神のご計画通りにバランスよく循環するようになったのです。つまり、父なる神が「不毛の地」に、天から「水」を送られた時から、「地(土)」のフィールドが生きるようになりました。本来の「土」は、雨が全く降ることの無い「不毛のフィールド」であったが故に、如何なる生物も生存できない環境でしたが、父なる神が「水」を送られた時から、「土」は死んだ(不可能、不毛、不作)状態から、生きている(可能、産み出す)状態へと変革されたのです。


 父なる神が、全ての「命」の力の源である、「水」をこの地に送られる時、そこには父なる神が定めておられる、二つの方向性が見えてきます。私たちは常に、神が定めた方向性を「知る」必要があります。それは第一に、「水(雨)」は必ず「天」から送られるという方向性です。即ち、父なる神が計画通りに「良きもの」を送られる場合、それは必ず「天」から与えられるということです。何故父なる神は、そのようなことを為されるのでしょうか?それは死んだもの、死んだフィールド、何も産み出すことが無い状況に対して、父なる神は「天」からの祝福を送り、その中に「命」を与えるためです。そうです!それまでの「土」は確かに、「命」はありませんでしたが、父なる神が「天の窓」を開き、「雨」を降り注いだ結果、「土」は生きるようになったのです。


 「天」から水が降り注がれたことによって、至る所に「溜まり水」が出来上がりました。そして、次第に「水のフィールド」が、「地のフィールド」を覆うようになった結果、今まで過酷な自然環境にあった「土」の形状が、「水」によって和らぐことになりました。つまり不毛(不作)の状況にあった「土」が、父なる神の「意志」の現れとして、「天の水」が降り注がれた結果、「土」の形状(フォーム)自体が、地質的に改良され出したことです。即ち「土」は、「水」という命のエネルギーを注がれたことで、「命」に満ちた力ある方向に変革され、結果的には良き水分を多く含んだ、命ある「土」に改良されました。まさしく潤った土地(フィールド)に生まれ変わったのです。


 そして最終的に父なる神は、地上だけでなく地下にも、水を溜めるフィールド(地下水脈)を用意して下さいました。第二の方向性、それは地下の水が時々、泉(湧き水)となって地上に溢れ流れ出たり、間欠泉として大量の水しぶきを上げる有様に見られます。雨が①「天」から降り注がれ、②「地」の下から湧き出ること、この二つの「水」の現れ(流れ)が、神の定めた「水」の方向性です。大抵「川」の源流は、地上の「溜まり水」から起点を発するというより、地下水脈の出口(湧き水)が支流となって集められた結果、一本の川を形成しているのではないでしょうか!


「命の水」の流れに導かれる
 不毛(不作)のフィールドの中に、父なる神が「命の水」を送られる時に、その死んだフォームが癒され回復し始めることで、潤いのある生きたフォームへと造り変えられます。


 父なる神が、「命の力」を送られる時のパターン(状況)は、非常に「単純な法則」に基づいています。聖書の中に登場する、神を追い求め続けた人々は、たとえ導かれた所が不毛の状況にあっても、必ず神の「単純な法則」に従って、「天」からの約束(良きもの)を期待しました。例えば預言者エリヤは、どうでしたでしょうか?大飢饉の時に人々は、「この世」の偶像に依り頼み、霊的にも肉体的にも枯れ果てましたが、彼の場合は神の不思議な導きにより、干ばつの最中にあっても「命の水」が湧き出る、ケリテ川の川辺に召し出されました。そして彼の元には、常に天から「命のパン」が、カラスの口をもって届けられたのです。


 このように神を追い求める人々は、必ず不毛の地(状況)に導かれます。イエス・キリストも然り。四十日間の断食による霊的訓練の中、イエス・キリストは何処から「水」を汲み上げたのでしょうか?彼は全て聖霊に促され、「命の水」の源に導かれたのです。又スカルの女性は、どうでしたでしょうか?かつて彼女は、「ヤコブの井戸」から何十年にも渡って、「井戸水」を汲み上げていました。しかしその「井戸水」が、彼女の真の飢え渇きを満たすことはありませんでした。ある面で彼女は、自分の「肉の力」によって、古い「井戸」から自分の渇きを満たすべく、「真の水」を汲み上げようと試みていました。しかし汲めば汲むほど、彼女は霊的に干からびて行くだけです。


 そして干からび切る直前に、父なる神は彼女の霊的飢え渇きに応えて下さり、永遠の「命の水」であるイエス・キリストを、彼女の元に遣わして下さいました。そして彼女は、遂に真の「命の水」を飲むことができたのです。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(ヨハネ福音書4章14節)そうです!彼女は、「天」から与えられる、神の祝福の「命の水」を受け取った時から、彼女の干からびた不毛(不作)の霊的フィールドに、突然天上の大雨が降り注ぎ、遂に彼女は霊的に満たされた(潤された)のです。これは、彼女自身の「肉の力」によってではなく、聖霊の「上」からの力によって為されたことであり、彼女の「霊」の只中から、永遠の命に至る生ける真の水が、豊かに流れ続けるようになりました。


 このように、父なる神の「単純な法則」によって、全ての物事が進められて行く時、そこには必ず「天」から「恵みの水(雨)」が降り注がれることによって、私たちが自らの「肉の力」を行使することなく、父なる神が私たちの不毛(不作)の霊的フィールドの中に働きかけ、再び聖霊を通して「命の力」の源イエス・キリストを、霊的に産み出すことが可能になるのです!


「霊的土くれ」のあなたにも
 私たちは、物理的(物質的)には「土」と「塵」に過ぎません。又この「土」と「塵」も、「命の力」を生み出す「水」が存在しなければ、本当の「力」を発揮することが出来ません。つまり本来の「土」は、何も良きものを産み出し得ない、不毛(不作)のフィールドでした。しかし父なる神が、この「土」に対して、天から「水」を送られた時から、「土」は生きたフィールドに造り変えられたように、只の「土くれ」に過ぎない私たちにも、「命の水」の働きを司る聖霊様が臨まれる時に、私たちは新たに「力」を得、至る所に神の「祝福の水」を流すことの出来る、つまり人々を霊的に潤すことの出来る、真の「命の水」が用意されることを、先ず覚えようではありませんか!


 しかし「その時」、「命の水」の働きを司る聖霊様が、天から「恵みの雨」を降り注がれる時、自分の「肉の力」によってではなく、只「上」からの力(天的エネルギー)によって、私たちが「天の良きもの」を流す器として、聖霊様が造り変えて下さることを信じて下さい!「土くれ(あなた)」の中に、父なる神の「命の法則」が動き始める時に、聖霊様は只一つの方向性(目的)をもって、私たちを「正しい道」へと導いて下さいます。その正しい方向性とは、イエス・キリストを慕い求めることです。


 私たちが、これから全世界に出て行き、至る所において神の「御国の福音」を告げ知らせる時に、聖霊様は私たちに対して、只一つのことを命令されるでしょう。それは「神が天から与えて下さる、生ける命の水(リビング・ウォーター)を、あなたは流すだけでよいのです!」と。この時、あなたは流暢な言葉や、他者を魅了するパフォーマンス的な「しるし」と「わざ」ではなく、聖霊を通して語らされる「命の言葉」を、天上の「命の水」として流すだけでよいのです。聖霊様が流して下さる「命の水」とは、まさしくイエス・キリストのことです!あなたの霊的フィールドが、如何なる状態に陥ったとしても、あなたが「天」を見上げ、天上から「命の水」を降り注いで下さる方、主イエス・キリストを追い求める時に、あなたにとって「不毛」に見えていたフィールドから、必ず生ける「命の水」が溢れ出るようになり、「その時」からあなたは、新しい「キリストの花嫁」として生きる者に造り変えられることを、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

×

非ログインユーザーとして返信する