Terminal Hope(No.21)
一点の曇り無き神の栄光
彼らは各々香炉を取り、それに炭火を入れ、香を載せ、モーセとアロンと共に臨在の幕屋の入口に立った。コラは共同体全体を集め、臨在の幕屋の入口でモーセとアロンに相対した。主の栄光はその時、共同体全体に現われた。
彼らがモーセとアロンに逆らって集結し、臨在の幕屋の方を向くと、見よ、雲がそれを覆い、主の栄光が現れていた。
【民数記16章18~19節,17章7節】
神の永遠の「聖さ」
主なる神の「栄光」は、神ご自身が「完全なる神」である以上、同様にその現われは純粋であり、また聖い「臨在」が永遠に続くものです。然り!そこには「一点の曇り」もありません。しかしサタンは、神の栄光に覆われた、最初の人(アダムとエバ)の霊の中に、「一点の曇り」となる複雑な思い(反感)を、ものの見事に混入させました。そうです!サタンは、「一点の曇り」を混入させることで、全てを神の「御心」の如くに、あえて見せることで人々を騙すのです。
今回の記事から示される第一の重要ポイントは、主なる神の属性の一つである、「永遠の聖さ」とは如何なるものか?という点です。実は罪人の私たち人間は、この「聖さ」という概念に対して、憧れ感も多少あるのですが、殆どと言って良い程、霊的な抵抗感を覚えます。
ところが主なる神は、私たちの「思い」の中に、例えば「自分はとても聖くなれません。依然として罪の因子が残っていますから。」などの、霊的抵抗感があったとしても、決して私たちを咎める方ではありません。覚えて戴きたいことは、神が私たちに望まれる「聖さ」は、「聖くなければならない」や、「聖くあるべく、絶えず努力しなさい!」などの、強制的な律法遵守の次元に、私たちを導くものではありません。
むしろ神ご自身は、ある事を通して、再び神の「聖さ」を、私たちの中に回復したい!と、強く望んでおられます。ある事とは、真実なる神が無代価で与える、「命の水(イエス・キリスト)」を飲むことで、次第に造り変えられて行く次元、それが神の「聖さ」です!
サタンの策略に陥ったコラたち
コラ、ダタン、アビラム、オンの四つのグループは、徒党を組んでモーセとアロンに、集団的な反逆行動を取ったのではありません。彼らは単に、反感的なデモンストレーションを、二人に投げかけたのです。「何故あなた達だけが、特別な務めにあずかるのですか?」などと。これは一見、正当な要求に思えますが、コラは大事な点を見逃していました。つまりモーセとアロンの務めは、神の「御心」に反した場合、即自らの「死」の職分にあることを。
モーセはこの時、次のように警告しました。「分を越えているのは、私たちではなく、むしろあなた達である!主なる神は聖なる方である。私たちの中に聖なる部分があるから、私たちに特別な務めを任じた訳ではなく、神の聖さの中に、自分の死を全うしてでも、神に忠実に奉仕したい!と思う意思があるから、私たちは任じられているに過ぎない!」と。
すると翌日、何が起きたのでしょうか?大地が裂けて、反逆したグループばかりでなく、彼らの家族全員が、一瞬の内に地の底に呑み込まれたのです。「一点の曇り」とは、サタンが創造主(礼拝すべき唯一の対象)に対して、抱いた別の異なる「様々な(複雑な)考え方」、つまり「崇める(礼拝する)べき対象は、唯一ではなく、多様性(他のもの)があっても良いのでは」などの、霊的反抗心のことです。
続いてイスラエルの民は、死んでしまった四つのグループに対して、神に対して心から悔いるのではなく、逆に再び反抗的な態度を示しました(17章6節)。彼らは決して学ぶことはせず、神の「御心」を理解するどころか、文句(自分の心)を並べ立てました。今度は何が起きたのでしょうか?目に見える「災い」ではなく、目に見えざるエピデミック、即ち未知のウィルス(ペスト菌?)による、突発的な感染拡大が、民の中に起こり始めたのです。
するとアロンが事態を重く見て、とっさ的に神に懇願しました。「主なる神よ、もう十分です!私の命に引き換えにして、この疫病の災いを止めて下さい。」と。そして急いで「贖い」の儀式をすべく、祭壇上に「生贄」を献げました。その瞬間に「災い」が収まりました。
神の唯一の「聖さ」とは?
神の「聖さ」とは、例えば物理的基準の「0.999999999(100分の99)%の清い水」では、「純度」から計って十分とは言えません。むしろ「唯一の神性」と把握するのであれば、それは「1」という数値ではなく、一つしかない「聖さ(完全なる純度)」です。つまり神の「聖さ」には、他の聖さ(一点の曇り)は混入できません。
神ご自身は、「聖さ」を一つしか保有していません。この神の唯一の「聖さ」は、最初の人(アダム)を創造した際に、明確なプロセスをもって現れ出ました。先ず「一つの体(Body)」中に、「一つの霊(spirit)」を息遣わせ、これらが完全に融合し、唯一のアダムが命ある者として生きることで、神の「完全性」が仕上がりました。
私たちは、この「唯一の(一つの)」という概念が、中々理解しにくい訳ですが、「他の如何なるもの(一点の曇り)も、一切存在しないもの」と捉えて下さい。ですから父なる神が、私たちの為に「唯一のギフト(イエス・キリスト)」をプレゼントしたら、それ以外のものには、如何なる「救い」が一切ないのです!他のものと比較にならない程の、完全なる「満たし」が、神の「聖さ」にはあります。
それに対してサタンは、アダム(エバ)が持つ「一つの飢え渇き」の中に、「他のものを欲する」などの、複雑(多様)性の欲望を、ものの見事に混入させました。「神の救い(祝福)は、他の如何なる道(方法)の中にも、神が用意しているから、安心して受け取って(食べて)みたら?」などと。しかし覚えて下さい!サタンが複雑かつ多様なる「罠」を、「終わりの時代」に用意したとしても、神の「唯一の救い」のプラン(花婿の来臨の時)には、決して太刀打ちできません。その時にサタン・グループは、最終的に大地に呑み込まれるからです。
大祭司イエス・キリストの「現われ」により
結論になりますが、今回の記事から示される第二の重要ポイントは、主なる神にとって「聖」とされる次元は、モーセとアロンの如くに、たとえ民の側に「罪(一点の曇り)」があっても、彼らの「身代わり」として、自らの「死」を覚悟のうえで、至聖所にて執り成す、大祭司の貴い務め(礼拝の行為)を、「良し!」とされるものです。然り!神の「聖さ」とは、私たちが神に百パーセント従ったから、与えられるものではなく、「贖い」の業を為したモーセの行い故に、民に対する「聖さ」の次元にあずからせる為です!
私たちが救われたのは、大祭司である主イエス・キリストが、自らの「命」を懸けてまで、十字架上に進み行かれた、その貴い「贖い」の生贄によるものです。それ故に私たちは、「聖なる者」として召し出され、今も尚「聖なる領域」へと、更に召し出されているのです。私たちは、依然としてコラたちの如くに、神の御心に反したり、時には「不平」と「不満」を宣べるなど、不信仰だらけな器ですが、主なる神の側にとっては、唯一の救い主イエス・キリストにより、私たちを「聖」として取扱って下さいます。それ故に、私たちは謙虚な思いをもって、主なる神が召し出して下さる、唯一の「聖なる領域(至聖所)」へと、聖霊様と共に進み行きましょう!
神の「御心」に反したコラたちに対して、その後主なる神は、彼らに「慈しみ」と「憐れみ」を、一切示されなかったのでしょうか?彼らの子孫は、その後霊的に深く悔い改め、レビ族の一員として務める傍ら、聖霊様を通して学ばされました。「主よ、あなたは・・・・ご自分の民の罪を赦し、彼らの咎を全て覆って下さいました。怒りをことごとく取り去り、激しい憤りを静められました。・・・・主よ、慈しみを私たちに示し、私たちをお救い下さい。・・・・ご自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、彼らが愚かなふるまいに戻らないように。主を畏れる人に救いは近く、栄光は私の地に留まるでしょう。」(詩篇85篇1~9節)
いよいよ主なる神が、ご自分の「栄光」の臨在を、贖い主イエス・キリストの来臨を通して、間もなく現わし出そうとしている時代の中にあって、私たちは何を神に捧げるべきか?明確に見定めることが出来ませんが、聖霊様は唯一の「渇き」を、私たちの「霊」に投げかけています。「渇く者よ、命の水の元(源流)に来なさい!」と。然り!私たちが純粋に「命の水(イエス・キリスト)」を求めることで、しみも汚れも一切無き、「聖い乙女(花嫁)」として、花婿なるイエス・キリストに、私たちは唯一の「礼拝(生贄)」を、霊と真をもって捧げることが出来るのです。
真実の神なる、主イエス・キリストが、私たちのことを「聖い!」と宣言される時、サタンは私たちに近付くことが出来ません。何故なら、主イエス・キリストの流された、その貴い犠牲(贖い)の「血潮」が、私たちの全てに降り注がれる時、それは神にとって「聖い」と映りますが、サタンにとっては「敗北のサイン」と映るからです。
父なる神の唯一の「贖い」のご計画が、主イエス・キリストの麗しい「臨在」を伴って、聖霊様の折に適った「助け」により、あなたの「霊」の只中から、豊かに拡大して輝き溢れ出ますよう、主イエス・キリストの聖名で、祝福してお祈りします。アーメン!(2024年8月25日のメッセ-ジ)
☆バルナバ・ブログ福音薬局
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