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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Terminal Hope(No.17)

K・バルナバ

       全てを聖める主の「臨在」




祭壇に捧げるべき物は・・・・毎日絶やすことなく一歳の雄羊二匹を、朝に一匹、夕暮れに他の一匹・・・・油(オリーブ油)を混ぜた十分の一エファの小麦粉と、四分の一ヒンのぶどう酒の献げ物を加える。また、朝と同じく夕暮れにも、雄羊に穀物の献げ物とぶどう酒の献げ物を加え、燃やして主に捧げる宥めの香りとする。これは代々に渡って・・・・捧ぐべき日ごとの焼き尽くす献げ物である。私はその場所で、あなた達と会い、あなたに語りかける。私はその場所でイスラエルの人々に会う。そこは、私の栄光によって聖別される。・・・・また、私はイスラエルの人々の只中に宿り、彼らの神となる。彼らは、私が彼らの神、主であることを・・・・知る。私は彼らの神、主である。
              【出エジプト記29章38~46節】


「朝」に始まり「夕」に終わる
 イスラエルの民の霊的代表である、大祭司及び祭司たちは、朝及び夕暮れ時に、「全焼の生贄」を主なる神の御前(臨在の幕屋)で、毎日(日ごとに)捧げました。私たちは新約時代に生きるキリスト者ですから、旧約時代に生きる彼らと同様に、一歳の雄羊を捧げる必要はありません。しかし、この霊的儀式の中には、私たちにとっても、重要な奥義となる「雛型」が描かれています。


 仮に私たちが、主なる神の栄光の「臨在」の中で、毎日覆われながら暮らす霊的生活が、自動的に約束として保証されているのであれば、何の苦労もないでしょう。ところが現実の私たちは、霊的には罪を犯した「アダム(エバ)」の子孫ですから、汚れた世の中に生きていることも、十分に自覚しています。


 ここで覚えて戴きたい重要ポイントは、罪に染まったイスラエルの民の中に、主なる神はアダムを創造した時点と、何ら変わり無き素晴らしい「ご意思」をもって、また永遠に続く強い「御思い(熱情の愛)」をもって、彼ら(私たち)に臨まれる!という点です。「何故なのか?」、この「問い」の答え(理由)が、今回の奥義の真髄です。


 神と私たちとの「関わり合い」は、単なる「創造する側(創造主)」と、「造られる側(被造物)」の関係という、二次元(平面)的な構図ではなく、それは「命」と「命」に関わる、切っても切れない重要な「結び付き」です。片時も離れること無く、決して見捨てること無く、絶えず力強く抱きかかえて下さる、羊飼いと小羊の関係です。


 「朝」と「夕」という、二つの時間帯に分けて、「全焼の生贄」を捧げる、この一連のプロセスの中に、実は物凄く奥深い主なる神の霊的配慮が、重要な奥義として示されています。そうです!主なる神がイスラエルの民に対して、常に抱いている「ご意思」は、私たちの「思い(意思)」とは、懸け離れた高き次元から、麗しい「熱情」と「聖さ」をもって、常にご自分の身許に招き寄せていること!これが「朝」に始まり、「夕」にも臨まれる、主なる神の「御思い」です。


毎日捧げる「献げ物」の中身
 「日ごとの献げ物」とは、今に生きる新約のキリスト者にとって、霊的に如何なるものでしょうか?これが第一の重要ポイントです。「朝」に「夕」に、一歳の雄羊を個別に献げる、これは同じ規格のもの(唯一の献げ物)を祭壇上に奉じる訳ですから、霊的には「イエス・キリスト」の十字架を、雛型として描いています。


 そうです!私たちは「朝」起きた時から、誰に相対するのか?これが重要です。その答えはイエス・キリストです!イエス・キリストに対して、あなたは日々向き合うべく、霊的に小羊(イエス・キリスト)を、自分の歩み(一日の行動全て)の前に置く(捧げ尽くす)ことが重要です。


 続いてオリーブ油を混ぜた小麦粉及びブドウ酒とは、聖霊様の「働き」の雛型です。ヨハネ黙示録において、「オリーブ油とブドウ酒を損なうな。」(ヨハネ黙示録6章6節)と記されているように、「終わりの時代」には、「オリーブ油(オリーブの樹)」と「ブドウ酒(ぶどう畑)」が、サタン(きつね)によって荒らされ、根こそぎ枯らされてしまいます。しかし、聖霊様が私たちに臨まれる時には、私たちの側に霊的不備があっても、御子イエス・キリストを受け入れるべく、その備え(油注ぎと御霊の満たし)を進めて下さいます。そうです!私たちがイエス・キリストと、顔と顔を持って交わる時には、聖霊様が豊かに働かれます。それが先ずは「朝」に始まる、重要な「神の時」です!


 では「夕」とは、如何なる「神の時」でしょうか?ご存知のように「人の時」であっても、そこには毎日「変化」があります。世の人々にとっては、日々が何の変哲もない、只の三次元的時間かも知れません。しかし私たちキリスト者は、就寝前にふと思いを巡らします。「あー今日も色々あったけど、何とか無事(安全)に生きてこられた。感謝と思える事がゼロでは無かった。数えてみれば、余りある程の神の恵みに導かれ、今日一日が守られて来たんだ。」などと。そうです!「夕暮れ時」に一日を振り返る時、必ず最終的には「感謝の祈り(献げ物)」になります。


 「その時」にも、聖霊様は要求します。「全てはイエス・キリストです。イエス・キリストに、全ての栄光と誉れを返上しなさい!イエス・キリストの血潮が、あなたの行く全ての道を守り、イエス・キリストの聖い霊が、あなたの全てを平安の中に導き、一日を終えることが出来たのですから。」と。


 ところで、ボアズとルツに見られる、彼らの全ての信仰行動は、霊的に「礼拝」の奥義を示しています。覚えて戴きたい事実は、ルツは異邦人である、即ち「偶像崇拝」文化に育った、異国の女性であるという点です。その彼女が「不幸の元凶」とも思える、ナオミの人生全般に付き従ったのでしょうか?ルツはナオミに、命を懸けて告白しました。「義母さんの信じる神こそが、真実の神でありますから、私も信じて付いて行きます。あなたが生きるのも死ぬのも、それは真実の神の御心ですから、私はあなたの信じる神を、私の命を懸けて信じます!」と。


 もはや没落しそうになる程、家(一族)の不幸な運命にあっても、実はナオミの信仰行動には、変わらざる特徴(習慣)がありました。それが「朝」に始まり「夕」に終わる、日ごとの「献げ物(礼拝)」でした。最初は、ルツはナオミの行動が理解できませんでした。しかし「日ごと」に捧げる、ナオミの謙虚な「祈り」の中に、生きて働かれる神の麗しい「臨在」が、彼女の唇から豊かに流れ出て、永遠に変わることの無い、神の偉大なる「約束(契約)」の祝福が、彼女の人生に伴っていることを、ルツは見出したのです。


何故「毎日」捧げるのか?
 私たちは何故、①一歳の雄羊と②穀物と③ぶどう酒を、毎日朝と夕に捧げるのでしょうか?その理由が第二の重要ポイントです。「これは代々(全ての時)に渡って・・・・捧ぐべき日ごとの焼き尽くす献げ物である。私はその場所で、あなた達と会い、あなたに語りかける。」(42節)に記されているように、その理由は①神があなたと会って、②直接(顔と顔を付き合わせて)語りかける為です。


 そうです!私たちが礼拝を捧げる創造主なる神は、遠い遠い(遥か離れた)次元に存在する、「話しにくい神」ではありません!いつも「朝」からあなたに会って、直接(近くにて)御声を発する、またあなたの声を受け留める、そして「夕」にも、あなたの「祈り(感謝の言葉)」を欲するなど、麗しい永遠の「交わり」をもって臨まれる、インマヌエルの神です。


 その明らかなる「証拠」として、主なる神は四つのプロセス(43~46節)をもって働かれます。具体的に主なる神は、①あなたの元を訪問されます。その時に訪問客は先ず、いきなり進入することはせず、必ず玄関の扉をノックします。「私だけど、中に入ってお話ししたいから、どうか開けておくれ!」と。この時に、私たちは快く扉を開けます。これが「朝」の献げもの(祈り)です。「主よ、今から始まる、私の一日の全てに、あなたを歓迎します。」と。


 この時に私たちは、一瞬躊躇します。「ちよっと待って下さい。まだ片付けてもいませんし、散らかっていますから」などと。しかし覚えて下さい!主なる神は、私たちの「霊」の只中にある、片づけていない「罪(霊的なゴミ屑)」を見ません。むしろ扉の内側に待っている、ありのままの「あなた」を見る、即ちあなたの「顔」と、自分の「顔」が相まみえる、それを強く望んでおられるのです。


 続いて②あなたの存在する「場所(部屋)」、あなたが為す全ての「業(仕事や行動)」を、神が聖別する(聖くする)為に、あなたの元を訪れるのです。この「神の事実」を知ったら、私たちは身軽になます。聖霊様が常に、あなた(私)に臨まれる理由は、「あなたを、しみも傷も無い、麗しい乙女へと聖くしたい!」からです。


 さて主なる神は、いよいよ私たちを聖めた後、如何なる約束を、最終的に果たされるのでしょうか?「また私はイスラエルの人々の只中に宿り、彼らの神となる。」(45節)即ち③あなたの中に、全ての生活空間を共有し、共に暮らし合う関係となること、また④あなたの主君(Lord)として関り、それは何者も絶対に立ち入ることが出来ない「あなたの神」となる、またあなたも「主なる神の友」となる、この二つの約束が果たされるのです。ある面でこの約束のゴールは、ルツ(真の花嫁)とボアズ(真の花婿)という、神の「結び付き」に至ります。


 「真実の光」なる主イエス・キリストの、輝かしい栄光の「臨在」の訪れは、その輝きの中で私たちを、必ず瞬時に聖く(純白と)します。その御力の源は、全て十字架上から流された、貴い小羊(イエス・キリスト)の血潮によるものです。ですから私たちは、もしかしたら「明日」来られるかも知れない、主イエス・キリストに対して、日ごとの「献げ物」を捧げて参りましょう!


 主イエス・キリストは、必ず再臨されます。また栄光ある、主イエス・キリストの「訪れ」は、毎日(日ごと)です!「その時」にあなたが、花婿なるイエス・キリストから、「私は、聖められたあなたを、心から愛するために、また喜んで迎え入れる為に、遂に帰って来た!よくぞあなたは朝に夕に、私に祈りと感謝と賛美の礼拝を、毎日欠かすこと無く捧げましたね。さー私と共に、今パラダイスに行こう!」と暖かく抱擁される、「真の花嫁」として迎え入れられることを、主イエス・キリストの聖名で、祝福してお祈りします。アーメン!(2024年7月7日のメッセ-ジ)


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