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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.14)

            感謝の出所を間違えてはならない



アブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。その時、天から主の御使いが・・・・言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは自分の独り子である息子すら、私に献げることを惜しまなかった。」・・・・アブラハムは・・・・その雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物として捧げ・・・・その場所をヤ-ウェ・イルエ(主は備えて下さる)と名付けた。
                                                                                                        【創世記22章10~14節】


間違えてはならない
 今回のスト-リ-には、私たちの信仰の歩みに関して、霊的に間違えてはならない、重要な奥義が語られています。それは「幸せ」とか「喜び」、そして「感謝」というものは、私たちが常に追い求めるものですが、如何せん、私たちの人生の途中で、これらのものが切れる(失う)と思える、突如の「試練」等が舞い込んで来ることも事実です。


 その時に、私たちが覚えておくべきことは、たとえ強い信仰を持つ者であったとしても、間違えることがある!という点です。その「間違い」とは殆どの場合、出エジプトしたイスラエルの民の如くに、神に対して不信仰的な態度を取り、時折「不平」等を呟くことです。この「間違い」に気付かないまま、私たちが歩み続けるなら、私たちは必ず元のアブラムに戻ります!


 ご存知のように「イサク」は、彼らがずっと待望していた、神による約束の子(賜物)でした。今回覚えるべき第一の奥義、それは「イサク」とは、神からの一方的な約束の「賜物」である!という点です。この神の事実は、間違えることの無きものですが、彼ら夫婦にとっては「イサクは、最愛の私たちの独り子である」、つまり「私たちのもの!」という意識が強かったのではないでしょうか。


 しかし「イサク」は、あくまで神からの一方的な「賜物」に過ぎません。と言うことは、あくまで与える側(出所)に、「賜物」に関する権利があるのであって、受け取る側には何ら「権利」が無い!訳です。私たちは、神の一方的な「賜物」を戴いた場合に、何となく「これはもう自分のものだ!」と錯覚しがちですが、あくまで神の次元(ご意志、裁量)に委ねられているものです。これを是非覚えておいて下さい!


 私たちは、自分の「命」や「人体」の成長なども、その全てが神の「御恵み」の中で、一方的に定められている、つまり神の麗しい次元の中で生かされている!のです。そして神が常に導いて下さっている!という、大いなる「救い(守り)」を知っているからこそ、私たちは素直に「感謝」を捧げることが出来るのではないでしょうか。


 しかし半面、私たちはその「出所」を間違えることがあります。信仰の歩みが、順風満帆な時には「勝利!」、「感謝!」と連呼し前進するのですが、途中から次々と、意図しない試練や困難に直面した時に、神の御心を「疑う」、或いは別の次元から「探る」など、肉的な次元から「出所」を間違える可能性があるのです。


正しい「感謝」の出所
 今回覚えるべき第二の奥義、それは一方的な「賜物」は、与えられた時点で、受け取った側から「感謝!」の表明、また与えた側は感謝の表明に対して、「了承(承認)!」という、言葉の受け取りが成立することです。ですからアブラハムは、今回も主なる神に対して、大いなる「感謝」の表明を捧げようと、恐らく「その時」に向けて、生贄(最良の子羊)を準備していたことでしょう。


 ところが今回、主なる神は別の「表明」を求められたのです。それは「アブラハムの愛してやまない、最愛の独り息子(イサク)」を全焼の生贄として捧げることでした。この時アブラハムは、「何故?」と非常に悩み苦しみましたが、翌朝には迅速な行動に移っています。


 このように一方的な「賜物」が、主なる神から返却する(捧げる)ように命じられた場合、私たちは如何なる行動を採るべきでしょうか?その賜物が「自分のもの!」と意識する限り、私たちは「どうか勘弁して下さい!」と、神のご命令に従うことが出来ません。


 しかし覚えて下さい。ここで「賜物」の出所を間違えてはなりません。神からの一方的な授かりものに関しては、私たちが「自分のもの」と意識した時点で、その出所が肉的なものに変わり、「不平」「言い訳」「文句」しか出なくなるのです。


 アブラハムも当然、「う-ん!どうしたらよいものか・・・・」と悩み、一晩中苦しみました。しかし徹夜で祈って朝方になった頃、「ちょっと待てよ。神は賜物(イサク)を、何処から与えたのだろうか?神は約束したことを必ず実現するため、この賜物を与えたはずだ!そうだ。神は私たちのような、死に行くべき体に命を宿し、この賜物を天から与えたのであれば、賜物を返上したところで、神の約束に変わりはない。賜物を再び与えて下さるはずだ!」という、聖霊様の促しに聞き従ったのです。


信仰によって、アブラハムは、試練を受けた時、イサクを献げました。・・・・アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもお出来になると信じたのです。それは死者の中から返してもらったも同然です。
                                                                                                 【ヘブルム書11章17~19節】


 この御言葉に、アブラハムの今回の信仰の決断に至る、全ての答えが記されています。元々「死者」の如き老夫婦から、生ける真の神が「新しい命」の始まりとして、約束の子(イサク)の歩みを始められました。即ち何も無き所から真実の「喜び」という名の、見える神の事実を産み出した訳です。ですから神の約束は、たとえイサクが死んだとしても、偽らざるご自身の事実として、再び始められる(命を与える)ことは、いとも簡単なことである!と、聖霊の促しに導かれて、彼は最終的に聞き従ったのです。


 そうです!神の「賜物」の全てが、天より授かる一方的な恵みです。私たちはこのことを、常に「霊の眼」をもって、明確に捉えて参りましょう!たとえ、一時的に失うことがあったとしても、死者を復活させて下さる信仰に立って、今度は私たちの側から「感謝します!主なる神よ、あなた様はいくらでも、先の道を開いていて下さり、見える事実としては何もなくとも、先にある神の事実としては、豊かな約束の地を用意して下さることを信じます。」と信仰告白しましょう。


 私たちも、霊的にはアブラハムの子孫です。イスラエルの民(アブラハムの子孫)は、その後どうなりましたか?現在は地球規模で、世界経済に多大なる影響を及ぼすほどの民となりました。ならば私たちは、神のご計画の中にあって、どれほどの素晴らしい「祝福の民」となるのでしょうか?「後の雨」が夕立の如くに、遂に始まる時代の中にあって、ボンヤリしてはいられません。


 目先のこと(目に見える事実)、それは単なる「通過点」に過ぎません。私たちは、その先にある「神の事実」を見ている民です。神の大いなる「収穫の時」が、いよいよ目前に迫っています。鍬と鎌の準備(点検、手入れ)、刈り取りの段取りを始める時です。


 聖霊様は常に語りかけます。「全てが一方的に与えられる、神の豊かな御恵み(賜物)によって、あなたは生かされています。ならばあなたの持てる全てをもって、神に感謝の生贄を捧げなさい。あなたが今生きていること、その全てが感謝です!」と。あなたが更に、主なる神の「賜物」を授かり、神の御声に直ぐに順応できる、約束の民として祝福されますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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