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命と心の健やかなる成長のために!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.1)

                    主なる神の第一の感謝

 
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、・・・・
                                                                                                              【創世記1章3~4節】


「感謝(Thanks)」とは?
 主なる神が「感謝」を捧げることが、果たしてあるのでしょうか?主なる神は、私たち「人間」を創造するに当たり、信仰の手順を示されました。主なる神が如何なる方であるのかを、私たちは神との「親しい交わり」を通して、また御子イエス・キリストによる、「真の愛」を通して十分教えられています。


 しかし主なる神が、私たちと同様の「感情」を持っておられるのかは、中々知りようもありません。実は「創世記」の記述の中に、神の様々な霊的感情が、モーセによる著述を通して、とても豊かに表されています。例えば、今回の「良しとされた」という、主なる神の表現の中に、それが示されています。


 そこで私たちは、先ず「感謝」という言葉を、改めて学ぶ必要があります。英語では「Thanks-giving」と言いますが、この「Thanks」とは、文字通り「ありがたく思う」ことです。ですから「感謝」は、この「Thanks(様々にありがたく思う気持ち)」を「giving(素直に表明する)」、つまり自発的に捧げる行為のことです。


 私たちの「霊」が、主なる神の「御心」を、深い「思い」をもって探るのであれば、それは「全て」のことを相働かせて、「益」として下さる神ご自身が、常に私たちに「恵み」を賜って下さる、その結果として「Thank」の数々を自然に捧げること、これが真の「感謝礼拝」ではないでしょうか。


 では日本語として、本来「感謝(中国の漢字)」を表す「ことば」が、別に存在していたのでしょうか?「ありがとう」という表現は、一体何処から発生したのか?非常に興味深いものがあります。現在では、この「ありがたき」が、漢字で「有り難き」と表記しているので、何となく「めったに無い(有り得ない)ことを非常に嬉しく思う」ことと理解します。


 実は古代ヘブル語の中に、「アリガトゥ-」という言葉があり、これは「私にとって幸運です」という意味です。ちなみに現代ヘブル語では、「ハカラト・ハ-トフ」と言い、私たちにはごく当然と思っていることですが、ユダヤ人の場合は朝起きた時から、「その日」を創造して下さる神に、「今日という一日を賜って下さる神よ、あなたに感謝の意を捧げます!」という意味です。


 何故彼らは、このような「感謝」の思いに駆られ、毎日ストレートに礼拝を捧げることが出来るのでしょうか?それは彼らの辿った、悲しみの「歴史」の中に答えがあります。ご存知のように彼らユダヤ人は、常に「離散」と「迫害」の経験を、世界史の中で繰り返してきました。その中で、実は「当たり前」と思っていたことが、神の深い「恵み」と「憐れみ」によることである!と、彼らは霊的教訓として学びました。それ故に「もう一度、新たな一日を与えて下さった!」ことを、日々の「感謝」の気持ちとして、起きた時から眠る時まで、今日も尚捧げ尽くしているのです。


 この「ハカラト・ハ-トフ」は、英語で「gratitude」と言い、「grati」即ちラテン語の「恩寵(恵み)」を語源とします。神の「恵み」とは、本来は戴くには不相応の者であるにも関わらず、一方的に与えて下さることです。ですから主なる神の「恵み」に対して、戴いた者は自然に「感謝」を、全身全霊で捧げるのではないでしょうか!


主なる神の「感謝」の中身
 さて主なる神は、今回の記事の中において、如何なる「感謝」を表明したのでしょうか?実は創世記の1章には、この「良しとされた」という表現が7回登場します。この部分は英語で「be pleased with」と訳されていて、「お気に召す」、「満足する」、「物凄く喜ばしく思う」という意味です。だからと言ってそれは、自分が為したことを「私は良くやった!」などと、自己満足に浸るような意味合いの言葉ではありません。


 実はこの「良しとされた」という言葉を、言語的に紐解きますと、その中には重要な「法則」が示されています。これから記すことは、あくまで私の信仰的なイメージで捉えたストーリーです。・・・・・・・・


 ・・・・父なる神はある時、どうにもならない程の「寂しさ」を覚え、「宇宙」の深遠を御覧になりながら、「宇宙」の中を隈なく散策しました。しかし「何」もあり(見つかり)ません。ご自身が満足するものが、全く存在しないのです。あるものと言えば「暗闇」だけです。生み出すものが無く、実体が一切無い虚無の世界です。そのため「うーん、困ったな!私はこれから、一体どうしたらよいのだろうか?」と独り言を漏らしました。


 すると、側に付き従っていた聖霊様が「主よ、あなたは既にご存じだと思います。この暗闇を造られた方は、あなたご自身ですから、あなたはある事を、これから始めたいと望んでおられるはずです。」と促します。それに対して主なる神は、「始めたいところだが、果たして私が満足し、素晴らしく思い、有り難く思う、そのような事が起こり得るだろうか?」と、首をかしげました。


 それを聞いていた聖霊様は、思わず笑みをこぼし「主よ、あなた様には如何なることも、既に可能ではありませんか!この暗闇の中に、あなた様が望んでおられる、素晴らしいことを始めたいのであれば、ただ一言私に命じて下さい!そうすれば私は、あなた様の働きを、豊かに現すことの出来る、その備えを致しますから。」父なる神は「うーん、確かにそうだが・・・・」と、まだ躊躇気味に考えています。


 その様子を、側でじっくり見ていた御子が、「父上!あなたの本来のご計画は何でしたか?あなたは始まり(アルファ)であり、終わり(オメガ)なる方として、この宇宙を創造した時に、あるご計画を持っておられましたね。その計画通りに、この暗闇の中に、ある言葉を発して下さい!父上、その命の言葉を、あなたが発せられた時から、あなたの豊かな麗しい、あなたが必ず満足されることが起きます。ですから直ちに命じて下さい!」


 父なる神は「おー、我が独り子なる君よ、よくぞ言うてくれた。そなたは常に、私の心を先の先まで理解している。相分かった!」と言うや否や、物凄く大きく息を吸いながら「光よ、出て来なさい!」と、宇宙の深遠に向かって、大号令を発したのです。


 その瞬間に何かが起きました。父なる神が、ただ一言発しただけで、聖霊様が「今だー!」と、誰かに掛け声を発しました。即座に、父なる神の御側に座していた御子が、聖霊様にバトンを渡されたかの如くに、深遠(暗闇)の中に押し出されました。そして、御子が「暗闇」の中に投じられた瞬間に、宇宙の中に「光」が、圧倒的な発光エネルギー体として、まさしく現われ出たのです。この一連の動きは、またたく間の(即ち言葉と同時に出現する)出来事でした。


 光なる方として、御子が「暗闇」の中に出現するや否や、全ての「実体」が始まった、つまり見えるようになったのです。「暗闇」の時には、今まで見えなかったものが、「光」の出現により、直ちに見える次元がスタートしました。この奥義を、使徒ヨハネは明確に述べています。「この世(暗闇が覆う世界)の中に、真の光イエス・キリストが現われ出た!」と。そうです!イエス・キリストの「現われ」により、主なる神の「天地創造」がスタートしたのです。


第一の「感謝」の奥義
 主なる神は、この「瞬時」の一連の働き(これは私たちの「時の概念」では、中々理解しにくい次元にありますが・・・・)の一部始終を、実は御覧になっていました。即ち、父なる神は「光」が「暗闇」の中に登場する様を見て、「良し!(物凄く満足し、素晴らしいことが起き始めたことに、感謝の意を表すこと)」とされたのです。


 ですから主なる神が、第一の感謝として表明したこと、それは「光が暗闇の中に現われ出たことを、ご自分の目で確実に見たこと」です。だからと言って、これは単なる「自己満足」の次元ではありません!ご自分が発した「命の言葉」が、まさしく聖霊様の働きにより、「光」の出現、つまりイエス・キリストが現われ出る様(シーン)を、明確に確認したが故に、第一の「感謝」につながったのです。


 「私が思い描いていたことが、遂に御子の出現により始まった!」と満足された父は、次のように確信したことでしょう。「もはや寂しさ(虚無)も無く、孤独感にむせぶ涙や、悲しみ等の辛い思いも無く、自分が意図していた幸せに満ちた世界が、御子の出現から始まった!」と。もしかしたら、前述した古代ヘブル語の「アリガトゥ-」こそが、神の第一の感謝の真意を表しているのかも知れません。


 それ故私たちが信仰により、主なる神が第一の感謝を捧げた時と同様に、「命の言葉」をもって、創造的な会話を始めるのであれば、少しずつなりにも変革が起きるのではないでしょうか!仮に私たちが、今も「暗闇」の中を歩む民として、人間的な会話を為す限り、そこからは「何」も生まれ出ません。特に不信仰から生じる「不平」や「呟き」は、私たちを「暗闇」へと誘いかけるなど、霊的に悪しき罠となります。


 それに対して私たちは、如何なる信仰の言葉を吐くべきか?それが今回示されている、父なる神の「第一の感謝」です。たとえ「現実」がどうであれ、主なる神が「暗闇」に対して、「真の光よ、出て来なさい!」と発せられた如くに、私たち自身も上よりの「信仰」を戴いている以上、為すべき信仰告白があるのです。また主なる神が、ご自身が「命の言葉」を発せられた直後に、事の一部始終を見ておられたように、私たちも信仰告白の後の姿勢としては、「その通りになる!」ことを見続ける!という、忍耐も必要となります。


 そうです!詩篇の作者が「我が魂よ、何故そのように深く悲しみ、うなだれているのか?私は我が望みを、主なる神のみに置く。そして更に私は、神の救いを求めて告白し続けよう!我が救いなる主よ、私はあなたを慕い求めて、賛美の生贄を捧げます。今の現状がどうあれ、私は我が望みを、主なる神のみに置きます。御顔の救いを求めて止まない、あなた様に我が望みを置きます。」と、常に信仰告白し続ける時、必ず神の「御心(ご計画)」が起き始めるのです。


 さー、私たちは聖霊様に導かれながら、信仰の声を上げて、高らかに叫びましょう!「花婿なるイエスよ、私はあなたの現れを切に待ち望んでいます。ですから神の偉大なる創造の御名により、今この場(環境、暗闇など)に来て(現われ出て)下さい!それを信じます!そして私は事の一部始終を見続けます!」と。


 あなたが、主なる神の「全て」の御業に対して、素直に「感謝」の霊的生贄を捧げる、直ぐな信仰者として日々歩むことが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!
 

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