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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.37)

               感謝に満ちた心をもって祈る




主において常に喜びなさい。・・・・どんな事でも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとを、キリスト・イエスによって守るでしょう。
                                                                                   【ピリピ書4章4~7節】


心の「置き場所」
 「感謝」に満ちた心を持つとは、簡単に申し上げれば、能動的な信仰を働かせることです。パウロは常に問いかけます。私たちの「心」の中に、果たして何が働いているのか?と。神の明確な「命の言葉」に立ち、神の「平安(平和)」が、私たちの「心」と「思い(考え)」の中に、満遍なく満ちているのであれば、私たちの唇からほとばしり出るもの、それが「感謝」と「喜び」、そして「穏やかさ」です。


 ところがピリピ書が示すように、私たちの「弱さ」も、心の中で様々に働いています。ご存知のように人は、目に見える「事実」に弱い、つまり現実しか捉えられない存在です。しかし私たちキリスト者は、目に見える「事実」が、所詮神が許されている範囲にしか過ぎない故、その奥深い次元にある、目に見えざる「神の事実」を、正しく「信仰」で確認しようとします。ですからパウロは、私たちが「どんな事でも、思い煩うのはやめ」(6節)るよう、霊的にアドバイスしているのです。


 今回の御言葉の奥義、その第一のポイントは、私たちが心の「置き場所」を、何処に置いているのか?が重要となります。つまり心の在り様を、正確に点検しているか?ということです。仮に、私たちが心の「置き場所」を、「この世」という、目に見える事実に置いているのであれば、「心配(思い煩い)」だらけの毎日です。


 「心配」とは、文字通り「心」が様々な場所にある、つまり落ち着いていない(一箇所に留まっていない)状態を表します。そのような人々は、目に見えざる「明日の糧」のために、今の事実に鞭を打って努力する(無理をする)など、心が常に落ち着きません。


 ところが、神から霊的な知恵を授かる者は、先ず神との「一体化(親しい交わり)」の中に、自らの「心」を置くため、目に見えざる「神の事実」が、その人の全ての次元を支配します。神との「一体化」の中にあるとは、英語で「in union with God」と表現し、神の豊かな支配の中に、自分の全てを委ね切った(組み込まれた)状態のことです。


 そのような人々は、必ず次のような信仰告白をします。「私が心配するのではなく、神が私の事を常に慮(おもんばか)って(配慮して)下さる!」と。これは目に見える事実に捉われることなく、目に見えざる「神の事実」に、常に期待する信仰でもあります。先に対する心配の余り、心を「将来の不安」、「明日の経済(糧)」、老後の「蓄え」や「健康」など、様々な場所に置く必要はありません!自分の心を、常に神との「一体化」の中に置く(預ける、委ねる)のです。


 あなたの「心」は今、果たして何処にありますか?点検してみて下さい!サタンは、常に私たちの「心」を突いて、「これでは駄目だね。もう少し頑張らないと・・・・」、「これでは足りないかも?」、「自分の生活も大事だから、余り献金は無理しない方が・・・・」などと、様々に目に見える事実に誘導します。


 しかしペテロやパウロの信仰の場合、何もない(持たない)事実を、むしろ感謝しながら、目に見えざる「神の事実」、即ち「人はパン(目に見える糧)のみにて生きるにあらず!神の命のパン(目に見えざる事実)によりて生きる!」という、黄金律の如き「福音」を、徹底して語り伝えたのです。彼らは揺ぎ無い、堅固な神との「一体化」の中に、神の「守り」が自分の「心」を、常に平安で満たす!という信仰に生きました。


 「そうすれば(7節)」と記されているように、これは神の「ご命令」に従うことを意図しています。神の「守り」の有様を、私たちが実際に見えたら素晴らしいのですが、そこを(否定的に捉えるなどして)見ようとしないのも、私たちの「弱さ」です。何故なら、私たちは目に見える事実が「怖い!」からです。それ故に「心配」し出すのです。


 ところが、目に見えざる「神の事実」に立つ者は、「今」を思い煩うのではなく、何事も感謝を込めて、神に祈り求める(神の次元に依り頼む)、上からの「信仰」で生きようします。自分の生活の中に「苦しいこと」がある、また「不足していること」がある、先々のことで「耐えられない状況」にある等、そのような「心配」の次元から、先ずは自分の「心」を引き戻して、「私の心よ、イエス・キリストの御名で命じる。本来の神との一体化の中に、今直ちに戻りなさい!」と、常に信仰の宣言を為すのです。


「感謝」のスイッチを押す
 結論となりますが、今回の御言葉の奥義の第二のポイントは、私たちの「信仰」を、元の正しい状態に戻す霊的なスイッチ、それが「感謝」である!という点です。例えば私たちが、度重なる「試練」に出くわしますと、途端にそれまでの積極的な「信仰」は消え失せ、次第に神に対する「不信仰」の念を抱くようになります。


 しかし聖霊様は、そのような「弱い私」に働きかけます。即ち「神は(永遠に)良き神である!たとえ如何なる事があろうとも、目に見える事実に捉われるのではなく、目に見えざる神の御言葉をもって祈り続けなさい。感謝の心に満ち溢れた、命の言葉をもって告白し続け、必ず開かれるまで叩き続けなさい!」と。


 神との「一体化」の中にあるとは、分かり易く別の表現をするならば、常に「離れない関係」の中に在り続ける!ということです。そうです!私たちの霊的な花婿である、主(主人、夫)イエス・キリストが、私たちに必要な全てを「どうにかして下さる」、これが「一体化」の信仰告白です。


 パウロは、この点について7節で明確に記しています。「キリストなる方(永遠の救いを保証する)イエスとの交わりの中に、あなたの心と思いを、常に安定した状態の中に守って下さるもの、それが神の平安である!」と。その為には「感謝」という信仰のスイッチを、常に働かせ続けなさい!と、彼は結論として述べているのです。


 ところが私たちは、次のように神に訴え出ることでしょう。「今、現に苦しい(不足している、悲しみにある)から、神に訴え祈り続けているのでしょ!何をもって感謝したらいいのか、全く分かりません。」と。


 その時に聖霊様は「主よ、今の(良し悪しに関わらず)全てを感謝します!今生きていることを感謝します!今の不足(苦しみ、悲しみ)を超えて余りある、主なる神の満たしが、私を常に支配していますから、私は感謝の思いをもって、あなたの働きに期待します。今後も必ず生き長らえることが出来ることを、主イエス・キリストの御名で感謝します!」と、私たちが信仰の宣言(祈り)を告白するよう促します。


 覚えて戴きたいことは、私たちが神に「不平(不満)」等の、否定的言葉を吐いている間は、目に見えざる「神の事実」の次元から来る、奇跡は起こりません。しかし聖霊様の霊的促しに従い、「主よ、全てを感謝します!」と告白した時から、目に見えざる「神の事実」が始動するのです。


 私たちは現に、様々な「心配事」に囲まれて生きています。先に対する「思い煩い」も沢山あります。しかし私たちは、そういった目に見える事実に捉われるのではなく、主なる神との「平和」の中に、主イエス・キリストとの「親しい交わり」の中に、私たちの「心」と「思い」の全てを置き、常に「感謝」の心をもって、神を待ち望むことが出来る、聖なるキリストの花嫁でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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