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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.35)

                 「日々の糧」を得る恵み




                                                  全て肉なるものに
                                                  糧を与える方に感謝せよ。
                                                  慈しみはとこしえに。

                                                                             【詩篇136篇25節】


「日々」というサイクル
 今回の御言葉は、決して「人のために・・・・」とは記述されていません。「全て肉なるもの」とは、神が創造した被造物全体のことです。その全てに対して、主なる神が「日々の糧(命のエネルギ-)」を、漏れること無く供給して下さること、これは驚くべき事実です!


 御子イエス・キリストは、「日々の糧」に飢え渇く群衆に対して、大いなる「天の福音(命の糧)」を語られました(マタイ福音書6章25~34節参照)。その中でイエス・キリストは、私たちが明日の「糧」に気を取られるのではなく、「今日(日々)の糧」を必ず与えて下さる方、即ち創造主なる神に対して、「日々の感謝」を捧げて生きる重要性を、分かり易い「喩え」で語られています。


 そうです!今回の御言葉の一番重要となるキ-ワ-ド、それが「日々(daily)」です。「日々」とは文字通り、毎日欠かすことの無き時のサイクルで、常に続く時間概念です。この「日々」という、主なる神が定めた時のシステムは、ある面で「恵み」のサイクルと把握して下さい。


「日々の糧」から学ぶこと
 この「日々」という神の時を、私たちが物理的にも霊的にも、少しずつ体験してゆく時に、主なる神が「あなた(私)」のことを、常に(日々)覚えていて下さり、必ず「その日(時)」に必要なものを、惜しみなく与えて下さることを、益々知ることになります(出エジプト記16章参照)。


 覚えて戴きたいことは、「その時」彼ら(エジプトを脱出したイスラエルの民)は、確かに主なる神に対して、不平(不満)の言葉をもって、不信仰の態度を取ったにも関わらず、主なる神は全く怒ること無く、不思議な言い回しをされました。「あなた方が、私が与える日々の恵み(糧)を、言い付け通りに守り、また行動して感謝するかを、私は試そう!こうして、私があなたたちの神、主であることを知るようになる。」と。


 これは彼らが、神の「祝福の法則(方法)」を、へり下って学ぶかどうかの、信仰のテストでした。その方法の際立った特徴は、その日に必要な分を、計算すること無く集めたことです。最初彼らは、途中で空腹になったら、夕方まで残らない等の心配の余り、つい多く集め過ぎたのですが、結局多く集めても、逆に少なく集めても、その日に必要な糧を食することが出来た!という、満腹感を日々体験したことで、一切の「心配」がなくなりました。


 そして最終的な「学び」が、安息日に関する規定でした。ここで忘れてならないことは、真の牧者(羊飼い)なる神が、私たちの想像(三次元的計算)を超える霊の次元において、日々の祝福(永遠の配慮)を、既に用意して下さっている点です。


 とかく私たちは、「先(明日)の糧」を心配して、今の内から多く収穫(労働)しようと、肉の計算で勤しみます。しかしこの時主なる神は、安息日の分まで集めるべく、その前日の朝に「二倍分」を集めるように!とは、決して指示していません。むしろ、いつも通りに「安息日にはマナが降らないから、いつも通り(計算すること無く)、ただ神に感謝して集める(受け取る)」ことを、彼らが信仰的に学ぶため、それが安息日に関する規定でした。


 すると、安息日にどうなったのか?と言えば、前日に夕食を取った時、「あ!これでは明日、皆が食べるには足りないかも・・・・」と思って、心配しながら食したにも関わらず、翌日の安息日の朝には、何とマナを集めた坪の中には、前日の朝に確認したものと同じ量のマナが、既に満ちていたのです。


「安息日」の恵み(霊的糧)を食する
 さて、私たちの魂的な「弱さ」から生じる、「明日(将来)の糧」に備えて!という発想(不安)は、あたかも安息日の分も集めようとする、不信仰な行動と言えます。これは、必ず霊的な「腐れ」を生じるなど、最終的に「安息日」を貪る結果になります。


 「明日(来年、将来、次)の」という思いは、一見積極的な思考に思えますが、霊的には神に法則に反する、「貪り(貪欲)」の一つです!私たちが、月曜から土曜日までの六日間、日々賜る主なる神の「恵み」の、一つ一つに対して感謝を捧げる限り、その日に必要な天上の「マナ(日々の糧)」は、永遠に降り注がれ続ける訳ですが、「貪り(貪欲)」は逆に、せっかく与えられた「マナ」を、霊的に腐らせてしまうのです。


 「安息日」は、神の特別な「恵み」を戴く時です!逆に言えば、「安息日」に戴く神の「恵み」を疎かにしますと、それは最終的に腐る「世の糧」を、餓鬼の如くに食する結果となります。ですから、神が定めた「安息日」というシステム上の規定を、私たちが確実に守らないのであれば、それは明らかに「不信仰」であり、霊的に腐ったパンを食することになります。


 そうです!私たちが「安息日」に、出歩くことを信仰的にストップし、主なる神との「親しい交わり」を求めて、霊と真による「礼拝」を捧げるのであれば、そこには「感謝」と「喜び」をもたらす、天上の祝福が必ず満ち溢れるのです!


 イスラエルの民の失敗は、この「日々」という、主なる神が定めた素晴らしいシステムを、いつも体験していたにも関わらず、次から次へと「感謝」ではなく、「不平(不満)」の言葉を吐いたことで、「約束の地」に入れなかったことです。さて私たちは、どちらの側に就くのでしょうか?主なる神は今も尚、飢え渇く全ての者に対して、無代価で「天の糧」を与えて下さいます。その家長(イエス・キリスト)のもとに、私たちが感謝をもって従うのか、それとも「世の糧」を貪るべく、世の君(サタン)と妥協して行くのか・・・・。


 サタンが擁立する反キリストは、「その時」に偽りのパンを用意し、自らが確立したシステム(666のコ-ド)を、「認証印(獣の刻印)」として受け取る者に対し、次々と配分することでしょう。そうすると余りにも簡単な手続きということで、殆どの人が彼を「救世主」として、礼拝することになります。


 しかし、真の牧者なるイエス・キリストは、私たちに必要な「明日の糧」も、全てご存知の上で、無代価(無条件)で「日々の糧」を、確実に天上から降り注いで下さる方です!今の時の霊的「訓練(体験)」は、花婿なる方が来られる時のための「備え」です。


 そうです!真の「救い主」が来られる時に、私たちが為すべきことは、先ず主なる神の御前に跪き、「命のパン」を日々与えて下さる方、つまりイエス・キリストに期待し感謝することです。ですから「安息日」は、私たちにとって最大の「感謝祭」の時でもあります!「主なる神は一週間、私たちを日々生かし、上よりの恵みをもって養って下さった!決して不足は無かった!ならば新しく始まる、この一週間に対して、私たちは感謝をもって、神に期待しようではないか!」と称える、それが「主の日」の信仰告白です。


 私たちは「日々の糧」を、必ず与えて下さる神の「御恵み」に、信仰をもって大いに期待しましょう!あなたが信仰の大路を、「感謝」の祈りをもって日々前進出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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