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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.34)

            敵の前で食事を整えて下さる方




                               敵から私たちを奪い返した方に感謝せよ。
                               慈しみはとこしえに。

                                                                                 【詩篇136篇24節】


イスラエルの「知恵」に学ぶ
 敵を前にして(八方塞がりの状態の中にあって)も、「恐れ」や「不安」を持ち込むなどの、霊的「敗北」ではなく、結果が「勝利」という、食事(平安の糧)が用意されること、これは常識では考えられないことです。


 私たちは大抵、「敵」を前にしたら必ず防備するなど、食事(宴)を用意して食べる「余裕」はありません。しかし主なる神は「その時」、私たちに対して必ず「宴」を用意して下さいます。


 余談になりますが、今のイスラエルは国土面積が、四国と九州を合わせた位ということで、物理的に見ても大国とは言えません。しかし驚くべきことですが、陸・海・空全体の軍事力としては、世界で十五位にランク付けされる規模を有しています。ちなみに日本は九位です(2017年デ-タ)。


 では日本とイスラエルの、明らかな「違い」は何でしょうか?ご存知のように日本は、四方を海に囲まれるなどして、歴史的には「敵」に侵略されることが、殆ど皆無でしたから、「敵」に対する危機感が薄いです。しかしイスラエルの場合、地理的にも陸続きですから、常に「敵」に蹂躙されるなど、「敵」に対する危機意識が強い傾向にあります。


 ですからイスラエルの人は、「平和」に対する考え方が、明らかに私たち日本人とは異なります。彼らは「平和」イコ-ル、それは「勝ち取るもの」として捉えます。つまり「平和」を維持する為には、常に国境に兵を常駐させ臨戦態勢を敷くなど、24時間休まる時が無い、これが「平和」を維持する基本行動と考えます。故に彼らの基本的意識には、「国家」イコ-ル、それは「国民」や「国土」を敵から守る!という概念として捉えます。


 しかし私たち日本人の場合は、兵力である自衛隊の概念を、国防の最前線に就く職業人として捉えるよりも、どちらかと言えば「災害」や、「復旧」に派遣される公務員の方!とイメ-ジしがちです。ですから日本人の考える「平和」、それは「与えられる(外国に与える)もの」として、漠然と捉えているのではないでしょうか。


 例えば、イスラエルは軍事力として、「何」に力(重き)を置いてるかと言えば、優先的に陸軍(地上戦力)です。日本は当然国土が狭いということで、空軍(航空戦力)に重きを置いています。参考まで戦闘機の保有数が、イスラエルは僅か243機であるのに対し、日本は1594機です。地上軍の場合、イスラエルが2620台の戦車を保有しているのに対し、日本は僅か700台と、明らかな「違い」がここにもあります(2017年デ-タ)。


 しかし、不思議なことにイスラエル空軍は、戦闘機が保有数としては少ないにもかかわらず、その戦闘能力及び展開力が、米・露を超える世界トップレベルにあります。何故でしょうか?答えは簡単です。彼らは常に戦闘状態にあるからです。スクランブル発進が、突発的な訓練ではなく、常時戦闘(軍事衝突や不意の軍事侵略)態勢として整っている為に、発進したら「敵」と闘う、それが当たり前の行動になっています。


 日本が、いつでも「自然災害」等に備えるのと同様に、イスラエルは「敵国」からの侵略及びテロリズムに、常時「臨戦」体勢で防備しています。そのような中にあって、彼らが交わす合言葉は「第三神殿を守れ!」という言葉です。これは「国家非常事態」を意味するもので、全国民が「臨戦」体勢に参加し、国全体で「敵」と相対する、言わば「第三神殿」イコ-ル、イスラエル国家そのものを防御せよ!という戦時宣言です。


「敵」とは何か?
 聖書の如何なる部分(各書)においても、如実に示されている言葉、それが「敵」という言葉です。つまり「敵」とは如何なるものか?それを彼らは常に提示します。神の示す「敵」とは、神の地に踏み込み(攻め込んで来て)、それを奪おうとする者のことです。そしてイスラエル人の「霊」の領域にも入り込んで、世俗の悪しき慣例(偶像崇拝)をもって誘惑するなど、多岐に渡る侵略者です。ですから彼らは、自民族が犯した数々の「失敗」の歴史の教訓から、「敵」に対する敏感さが、私たち日本人とかなり異なります。


 例えば、私たち日本人キリスト者が抱く「敵」のイメージは、即「それは悪魔サタンや悪霊でしょう!」と答えるなど、見えない(漠然とした)次元の存在です。しかし覚えて下さい!サタンと悪霊たちは、隙あらば私たちの「霊」の中に侵入し、神の住まう至聖所(神の宮)の領域を、ずたずたに汚し破壊していることに、私たち日本人キリスト者は、全く気付きもしませんし、予想(防備)だにしていません。


 「奪い返した方に感謝せよ」(24節)とは、具体的には「敵」からの解放(free)を意味するものです。私たちは実際には、「敵」によって虜にされたりとか、大事な領域が占領されているにも関わらず、主なる神は必ず私たちを、そのような「敵」の束縛から解き放ち、全き自由を与えて下さいます。


「敵」の前で感謝しよう!
 現在のイスラエル兵の如くに、私たちキリストの兵も、「敵」を前にしても主なる神は、素晴らしい「宴」を必ず用意して下さいます。「敵」の目前で食事をすること、これは非常に勇気の要る行動です。食事をしている間に、「敵」が襲撃して来るかも知れない!という、「不安」や「恐れ」が生じるからです。


 しかし覚えて下さい!だからこそ「敵」を前にして、あえて神と食事をする、即ち主なる神との親しい「交わり」の時を持つことは、神に対する全幅の信頼ということで、逆に「敵」は怯むことになります。ですから、私たちは「その時」こそ、大いに感謝しようではありませんか!


 私たちは「この世」にあって、様々な「敵」に囲まれて生きています。そして「世」の君主たちは、私たちキリスト者に対して、様々に経済的な「脅し」をかけ、霊的に束縛しようと試みてきます。しかし、私たちはイエス・キリストが宣言された、あの十字架上の言葉を思い起こして下さい!「私は既に(世に)打ち勝った!」と。ご自身の「はん祭(子羊の贖い)」による勝利です!この神の「事実」に対する、私たちの「捧げ物」は、「感謝」と「喜び」の叫びでなくて何でしょう!


 イエス・キリストの流された、貴い「血潮」により、私たちは永遠の「滅び」から解き放たれ、子羊の贖いの「御業」を信じることで、神との親しい「交わり」が再開されました!イエス・キリストの「血潮」によって、私たちが守られる限り、「敵」は決して害することはありません。そうです!イエス・キリスト(真理)が私たちを、如何なる「敵」からも自由にし、「その時」から「敵」は、勝利という言葉を失ったのです。


 私たちのために、常に闘って下さる聖霊様が、あなたの「霊」の只中で、陣頭指揮を取って下さり、イエス・キリストという、麗しい花婿(王の王)との再会の時に、あなたをキリストの「忠実な兵」として、また美しく整えられた「花嫁(プリンセス)」として、豊かに仕立て整えてさいますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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