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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.33)

                    失敗から何を学ぶのか?




                             低くされた私たちを、御心に留めた方に感謝せよ。
                             慈しみはとこしえに。

                                                                                       【詩篇136篇23節】


イスラエルの「失敗」
 イスラエル民族の「歴史」の中において、彼らは何故「国家」を失うという、言い難き「苦難」の歩みを、幾度も経験したのでしょうか?その理由は「単純」です。主なる神の「ご命令」が、非常に単純なものであったが故に、そこに盲点(油断や軽視する部分)があったのです。


 イスラエル民族の「失敗」の歴史は、喩えて言うなら「浮気性」です。自分の霊的伴侶(真の花婿)との正しい関係から外れ、すぐに他の異性(異邦人の神々)に心を奪われるなど、あってはならない関係を求めたのです。


 民族の「繁栄」と「勝利」の歩み自体は、神の「恵み」の賜物ですから、何ら悪しきものではありません。しかし、その「後の歩み」を、彼らは謙虚かつ忠実に歩むべきでした。「本道(神との正しい関係)から逸れることなかれ!」と。


 さて私たちも、イスラエルの「失敗」から、何を学ぶべきでしょうか?それが「後の歩み」を、より正しい方向へと修正する、霊的「分岐点」となります。ご存知のように、私たちは「失敗(ミス)」多き存在です。失敗した時(その後も含む)に、私たちは如何なる行動をするのか、それが重要となります。


 その時に私たちは大抵、罪を犯したアダム(エバ)の如くに、自分の「ミス」の原因を、他者(或いは他の理由)に帰結しようとします。しかし一番大事なことは、全ての者が事の「本質」を見抜き、心静めて「反省」することが肝心です。そして「失敗」したとは言え、これを良き「恵み」の機会(チャンスの時)として捉えることで、再度神の御前に頭(こうべ)を垂れるべきです。


 再度強調しますが、イスラエルの民の「失敗」は、毎回同じパタ-ンを繰り返した、即ち大事なことを忘れたことです。大抵の場合「人」は、自分が経験した失敗の「痛み」を反省することで、次回は繰り返さないよう「知恵」を働かせます。しかし、不思議なことにイスラエルの霊的病いは、過去の失敗を暫くは反省するのですが、次第に回復し調子に乗ってきますと、再びその教訓(戒め)を忘れて、ついつい誘惑の罠にかかるという、愚かな歩みの連続でした。


「失敗」から学んだこと
 そうです!私たちを含めて、「人」の持つ霊的病いの最大の特徴は、大事なこと(神の戒め)を「忘れる」という点です。しかし、彼らは全て(土地、財産等)を失いましたが、一番大事なものが残りました。それは「神の戒めの一つでも遵守していれば、このような愚かな経験をしなくてもよかったのに・・・・」という、霊的な「学びの時」です。そして更に「その様な時にも、主なる神は私たちのことを忘れずに、常に御目に留めて見守っていて下さる!」ことを改めて知ることで、神に対する「感謝」がほとばしる訳です。


 では、彼らは「失敗」から学んだことで、如何なる信仰(行動)へと変革されたのでしょうか?彼ら(男子のみ)は幼少の頃から、神の「律法(ト-ラ)」を忘れないよう、(額の上に)身に着ける程に記憶し、かつ唱える習慣付けをしました。その中で第一の教訓が、「神のことを第一とせよ!そうすれば神の恵みが、常に自分たちと共にある」こと、第二の教訓が「神の御心から離れたら、自分たちは滅ぼされる」ことを、決して忘れない!よう(現在も)努めています。


 私たちキリスト者の場合は、彼らの歩んだ歴史は経ていませんが、霊的には同様の「病い」があります!私たちが「世」に浸かり続ける時、それは霊的「病死」につながります。そういう意味で、私たちが絶対忘れてならない点は、たとえ「世」に生きていも、「世」は仮宿に過ぎない!ということです。「世」に浸かり続けることは、主なる神の「恵み」から離れ、いずれは神の「戒め」自体も捨てて、滅びの道に至ることになります。


 確かにイスラエルの民は、一番大事なことを忘れて、多くのものを失いました。だからと言って、それは「世」に原因があったからではなく、自分が神の「御心」から離れたからです。このことを学んだ彼らは、常に神の「御言葉」を体全体に取り込み、「世」に惑わされることが無きよう、互いにブレ-キ役となったのです。


 仮に自分の「心」の中に、十戒の一つでも守っていない、或いは守りにくい、また忘れている部分があるのであれば、謙虚にその「弱さ」を認めて、聖霊様に対して「どうしたら、この死(世)の領域から脱出たできるのか、主よ!教え導き助けて下さい。」と祈り求めることが大事です。


 私たちは、あまり自分の「失敗談」や、恥と思う「経験」を、他者に語ることをしません。しかし、その中に「大事なこと」があるのです。主なる神は、失敗だらけの私たちのことを、常に見守り、躓き易い私たちの歩みに、すぐに駆け付け助け起こすなど、良き「サマリヤ人」としての働きを、いつでも為して下さる方です。「その時」に学ばされるのです。「私たちが忘れても、主なる神は絶対に忘れる方ではない!」ということを。


・・・・主が私たちの味方でなかったなら、私たちに逆らう者が立った時、その時、私たちは生きながら、敵意の炎に飲み込まれていたであろう。・・・・主を讃えよ。主は私たちを敵の餌食になさらなかった。仕掛けられた網から逃れる鳥のように、私たちの魂は逃れ出た。網は破られ、私たちは逃れ出た。私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。
                                                                                                【詩篇124篇】


 私たちの三次元的「思い込み」や安易な「判断」は、すぐに「これは大丈夫!」という、驕り高ぶった「大波」に、結局は飲み込まれることになります。しかし「神の恵み無くして、私は何も出来ない!」という、聖なる「意識」に立ち返る者は、まさしく全ての「助け」を、主なる神の御名を呼び求めることに、全身全霊を捧げます。即ち、徹底した悔いた「砕かれた魂」をもって、神の「御心」に従うことが、何よりも重要となります。


 そうです!「主よ、あなたの霊的な乳がなければ、私は干からびて死ぬだけの、赤子に過ぎません!」と、私たちが素直に告白できるレベルにまで、聖霊様は今も尚働きかけておられます。


 どうぞ、あなたが一番大事なこと、つまり「①主なる神の御心から離れず、②神の恵みを決して忘れることが無いように。そして③神の御心の中に住み続けることを一番に欲する」、そのような霊的な「飢え渇き」が、あなたの霊の只中に、更に「神の宮」となって拡大して行きますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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