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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.27)

                         昼夜見守られる主



                                       大きな光を造った方に感謝せよ。
                                       慈しみはとこしえに。
                                       昼を司る太陽を造った方に感謝せよ。
                                       慈しみはとこしえに。
                                       夜を司る月と星を造った方に感謝せよ。
                                       慈しみはとこしえに。

                                                                         【詩篇136篇7~9節】


「あまねく司る」光の働き
 創造主なる神が、「暗黒」に満ちた虚無の中に、真実の光(イエス・キリスト)を登場させた時から、天地創造の豊かな「働き」が始まりました。


 その後主なる神は、大地(地球)を創造する過程において、イエス・キリストとは別の光、即ち「太陽(昼を司る光)」と、「月星(夜を司る光)」という、二つの光源を産み出しました。


 今回の御言葉には、実は「あまねく司る(rule over)」という働きが、重要なキ-ワ-ドとして記述されています。普段の私たちは、この「太陽光」と「月星の光」に関して、「在り来たりのもの」として、余り感謝することはありません。


 しかし私たちは、主なる神の創造された、この二つの「光」に関して、ことわる度に学び直す(改めて知る)必要があります!その重要な「働き」が、「あまねく司る(rule over)」ことです。つまり「全てに渡って常に行き届くよう、ご自身の恵み(光の豊かさ)を覆う(管理する)」こと、これが「昼の光」、「夜の光」の目的です。


光が遮られる時
 このように考えて参りますと、神の「恵み」というものは、「光」を通して豊かに満ち溢れます。ところが私たちは、次の点も知っています。それは「雲」が立ち込めると、たちどころに「光」が遮られる!という点です。


 私たち「大人」の頭(固い思考)では、「雲が出たら、(その雲が)無くなるまでは、光が豊かに届かない!」などと、なかば「諦め」の如き考えに陥ります。しかし純粋無垢な幼子の頭(柔らかい思考)は、「たとえ今、光が届かなくても、太陽は雲の上にある!だから必ず、いつか再び光が指して来る!」という、非常に肯定的な発想をします。


 私たちは、「太陽」が存在することは分かっていても、この「昼」の恵みを忘れてしまう存在です。しかし、神の「光」としての働きを意識することで、神の偉大なる「恵み」に回帰することが可能になります。それが「あまねく司る(rule over)」という、主なる神の絶えざる働きです。即ち神の恵みは、私たちの側が「諦め」を覚えたとしても、決して遮断されることが無きもの、永遠に満ち溢れ流れ続けているのです!


 確かに私たちは、この神の「恵み」が見えない時があります。どうしても私たちの霊の眼が、「暗雲」ばかりに捕われる弱さがあるからです。しかし覚えて戴きたいことは、主なる神の「見守り」は、永遠の働きをもって、常に介入して下さることです。


 永遠に続くからこそ、神の「恵み」は有り難いものですが、逆にそれを忘れてしまうこともあります。例えばエジプトを脱出した、イスラエルの民が陥った、霊的「不平(不満)」の罪です。彼らは、毎朝降り注がれる「天のパン(マナ)」を食していたにも関わらず、エジプトの「糧(肉)」も食したい!と、神にブツブツこぼし始めたのです。


 主なる神の「恵み」が、常に「あまねく満ち溢れている(rule over)」ことを、私たちが忘れてしまったら、必ず「肉の次元」に囚われることになり、最終的には神の「見守り」に対して、一つ一つ感謝するのではなく、むしろ呪う(呟く)ようになるのです。


昼夜見守って下さる方(光)
 しかし私たちが、如何なる状況下にあっても、主なる神の「見守り」の恵みを、少しずつでも感謝するのであれば、神の「あまねく満ち溢れている(rule over)」様が、一つ一つ見えるようになります!


目を上げて、私は山々を仰ぐ。私の助けは何処から来るのか。私の助けは来る。天地を造られた主のもとから。・・・・見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方。あなたを覆う陰、あなたの右に居ます方。昼、太陽はあなたを撃つことが無く、夜、月もあなたを撃つことが無い。主が全ての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守って下さるように。あなたの出て立つのも帰るのも、主が見守って下さるように。今も、そしてとこしえに。
                                                                                                      【詩篇121篇】

 この言葉は、一見「祈り」の言葉に思われますが、実は作者の体験に基づく「詠唱歌」です。そしてこの「賛美」の言葉を聞く者が、様々な人生の旅路において、主なる神の祝福が注がれることを願う、「送辞(祝辞)」の如きものです。


 私たちの人生には、確かに「昼の時」もあれば、逆に何も見えない「夜の時」があります。しかし確実に言えることは、たとえ「夜の時」にあっても月星の光、即ち「足元」だけを照らす、薄暗い光であったとしても、常に見守り導いて下さる主なる神の、「あまねく満ち溢れている(rule over)」働きがあるのです!


 「真実の光」なる方が、常に私の前を行かれる限り、如何なる状況下にあっても、光としての「輝き」を放ち続けて下さいます。「私の魂から更に輝き続けて下さる方(真実の光)がおられる限り、私は如何なる者をも恐れない!」、これが私たちの日々の信仰告白です。


 主なる神が「眠ること無く、まどろむことの無い方」と、聖書が明言している以上、昼夜私たちのことを見守り続けて下さいます。そうです!主なる神は、私たちのことを「永遠の愛」をもって、常に見守り続けて下さる、それが「太陽の光」、そして「月星の光」の如き働きです。


 あなたが、永遠に続く主イエス・キリストの「恵み」を、素直に感謝して受け取る度に、「喜び」と「感謝」の生贄を、大胆に捧げることが出来ますように。そして常に「あまねく満ち溢れている(rule over)」、主なる神の「恵み」の中で、あなたの信仰が健やかに成長されて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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