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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.24)

                他の九人は何処にいるのか?




                                    ただ一人。驚くべき大きな御業を
                                              行う方に感謝せよ。
                                            慈しみはとこしえに。
                                                                         【詩篇136篇4節】


否定的な「言葉」を語る弱さ
 私たちの語る「口の言葉」の殆ど(九割)は、「感謝」の言葉よりも、恐らく「不平(不満、呟き)」等の、否定的言い回しではないでしょうか!人は「良きこと」が起こりますと、自然と「感謝」と「喜び」の言葉が出て来るのですが、それでも事の大半は、肯定的に捉えるよりも、簡単に否定的言葉を吐く傾向にあります。


 仮に私たちが、アシジのフランチェスコの如くに、「清貧」の生き方に身を投じるのであれば、否定的な「言葉」を吐く生活よりも、逆に金銭が無くとも、神の「恵み」によって、常に生かされている!ことに気付かされる訳ですが、中々「現実」としては、そのような生き方が出来ません。


 しかし主なる神は、私たちがどうであれ、不思議な御業を為して下さいます。それ故に、私たちは絶えず「感謝」すべきである!ことを、詩篇の作者は訴えているのではないでしょうか。如何なる状況下にあっても、父なる神のみが私たちの人生を、責任をもって守り導いて下さる故に、私たちは当然(幼子の如くに)感謝するのです。


 だからと言って私たちは、「しるし」と「御業」を求めるよりも、「命の言葉」をもって私たちを創造し、常に守り導いて下さる、主なる神を信頼し、神ご自身を更に求めていく、この「信仰行動」の方が重要となります。


唯一人のサマリヤ人だけが・・・・


イエスは・・・・サマリヤとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が・・・・声を張り上げて、「イエス様、先生、どうか、私たちを憐れんで下さい」と言った。イエスは・・・・「祭司たちの所に行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分が癒されたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。この人はサマリヤ人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。他の九人は何処にいるのか。この外国人の他に、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。・・・・立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを救った。」
                                                                                     【ルカ福音書17章11~18節】


 今回の記事に登場する十人の病人は、いわゆるハンセン氏病(重度の皮膚病)ではないかと思われます。その彼らが、突然にイエス・キリストの御前に伏して、「どうか私たちを憐れんで下さい!」と、必死に泣きすがったのです。するとイエス・キリストは、普通でしたら「神の御名により癒されよ!」と命じるところですが、今回は違いました。


 彼らの中にサマリヤ人(異邦人)が存在することを、イエス・キリストが知っていたかは分かりませんが、聖霊によって啓示を受けながら、「祭司たちのところに赴き、自分の体を見せなさい!」という、突拍子もない言葉を語りました。しかし彼ら全員が、イエス・キリストの「言葉」を信じて、祭司たちのところに出かけたのです。


 すると全員が、行く途中で皮膚がクリ-ンな状態、つまり赤子の如き皮膚へと癒されたのです。帰りしな九人は、それぞれの住処へと向かった訳ですが、一人(サマリヤ人)だけが元来た道を戻りました。さて、何が彼の行動を変えたのでしょうか?答え(解決の糸口)は全て、イエス・キリストの言葉にあります。


 癒されることよりも、彼は「(祭司に)見せなさい!」という、イエス・キリストの「言葉」の真髄(真意)を、ずっと探り求めていました。つまり彼は「今までの私は、確かに自分の不遇な人生だけを見て、呪いと不平だけらけの、悪しき言葉を吐く生活だった。しかしイエス様は、ただ一言命じられた。これは重要なご命令だ!見せなさい!と言った以上、見せることで必ず何かが起きる。」と、見せる前から信じ始めたのです。


 そして彼は「これは(見せたら癒されて)終わりではない。私が求めて止まない次元は、今まで謎だらけの(盲目の如き)人生を、一瞬にして明瞭な(見える)ものへと、変えて下さったイエス様である。この方こそが私の全て、私の人生の救い主である!」という、上よりの「信仰」が注がれました。


 そうです!彼は「事(神の御業)」の真相(源)を求めて、イエス・キリストの御許へとUタ-ンしたのです。彼はイエス・キリストを見るや否や、急いで走り寄り(恐らく弟子たちは、感染を恐れるあまりに、さっと身を引いたことでしょうが・・・・)、その足元に跪きながら「イエス様-、感謝します!あなた様が言われたことは、確かにその通りでした。まさしくあなた様は神の御子、私の救い主です。だから感謝します。」と、高らかに御名を讃えました。


他の九人は何処にいるのか?
 イエス・キリストは、彼の純粋な「信仰」に感嘆しつつ、「聖められた者は、確か十人だったはずなのに、他の九人は何処にいるのか?主なる神を賛美するために戻って来た者は、サマリヤ人の彼の他に誰もいないのか!」と語るや否や、その者の両手を強く握り締めて「あなたの信仰が、あなたを救った。安心して行きなさい!」と、祝福の宣言も同時に添えたのです。


 イエス・キリストが問われた、「他の九人は何処にいるのか?」の言葉は、実は私たちに対しても語られています。何故なら、私たちの語る言葉の「九割」近くは、神に対する「感謝」の言葉よりも、「不平」「不満」等の、悪しき否定的な言葉、つまりイエス・キリストの存在を、全く忘れている次元に生きているからです。


 「信仰行動」とは、決して「しるし」と「業」を求めて、熱心に行動していくことではありません。それは、私たちが如何なる状況下にあっても、神ご自身が私たちを創造した以上、責任をもって私たちの人生を、神の御心のままに司って下さることを、純粋に信じて「主よ、あなたは私を愛して下さる以上、私は尚もあなたを求めて、私の願いの全てを告白します!あなたの憐みは常に私と共にありますから、私は心からの感謝と賛美を捧げます。」と告白しながら前進することです。


 「信仰」こそが、私(あなた)の「救い」の源(基本)です!そしてイエス・キリストだけが、あなたの人生の全ての、明確な「答え」です!「感謝」と「賛美」の麗しい次元へと、更に引き上げて下さる聖霊様を通して、あなたの人生の九割以上が、主なる神のみを讃える生き方へと、日々造り変えられますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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