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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.16)

                     黙々と仕え続ける喜び




・・・・訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。・・・・しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、・・・・獄中の人のすることは全てヨセフが取り仕切るようになった。・・・・主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計られたからである。
                                                                                                        【創世記39章19~23節】


「良き時」にも「悪しき時」にも
 今回のヨセフの経験した出来事は、私たちの人生には殆ど関係の無いものと、私たちは錯覚しがちですが、人生における「好転している時」、また「悪転している時」という、二次元的解釈で捉えてはなりません。


 即ち、私たちは如何なる時においても、ヨセフの如くに正しい信仰姿勢を貫き通すこと、これが肝心です。ヨセフが幼少の頃、如何なる育ちをしたのか、聖書には全く記述されていません。突然「少年(今の高校生くらいの年齢)」としてのヨセフが登場し、しかも年老いた父親(ヤコブ)から、常に溺愛される息子(御曹司)として描かれています。


 何故ヨセフだけが、父親から特別に愛されるのか?その理由は、彼が一番に愛した妻ラケルの息子だったこともありますが、実は幼少の頃よりヨセフは、同年齢の幼子よりも賢い、即ち語る言葉が洞察力に優れ、神の言葉を読み解くなど、奥深い「知恵」に満ちていたからではないでしょうか!


 今回の記事の前箇所において、ヨセフはエジプト高官(主人)に仕える、執事の長として「知恵」を発揮する、そんな「好転している時」の姿が描かれています。その頃の彼が、年齢的に何歳なのか定かではありませんが、明らかに見目麗しい「好青年」だったことが伺えます。


 しかしその高官の妻が、夫が留守の時に彼に近づき、色仕掛けを企てたのですが、ヨセフは丁寧に誘いを断りました。これに怒った夫人は、夫に対して偽りの「訴え」を報告します。即ちヨセフが、自分に色目を使うばかりか、実際に破廉恥な行為に踏み切り、危うく暴行されかかった!と。その結果彼は、事実としては「無罪」であるにも関わらず、「罪人」として牢獄に追いやられるという、最悪の「悪転の時」に置かれます。


黙々と仕え続ける喜び
 さて私たちは、若かりしヨセフの数々の体験(好転と悪転の連続した人生)から、如何なる奥義を学ぶべきでしょうか?私たちの場合は、今回のヨセフとは違って、不当な仕打ちや裁きを被った場合、決して黙ってはいられない存在です(理想としては、神の裁定に委ねて黙したいところですが・・・・)。


 本来私たちの唇は、聖霊様によって霊的な事柄のみを、語るように創造されているのですが、「罪」が故に肉的な事柄を語る、そんな弱さがあります。特に物事が「好転している時」には、公にペラペラと語る(誇る)傾向にあります。しかし今回のヨセフは、理由無き「妬み」と「憎悪」により、一方的に犯罪者として収監されるに当たり、何も語らず(弁明することなく)刑を受けます。これはイエス・キリストの裁判の時と同様です。


 ヨセフの場合、二度に渡る不当な仕打ちを、一方的に受けたにも関わらず、ひたすら黙し「今は、何となく最悪の時に見えますが、あなた様の御心に従い、あなた様のご計画に期待し、あなた様に仕えることを喜びとします!」と祈り続けました。その結果、その時は最悪の「悪転の時」と思われたのですが、今回は何年も経た後、以前の時以上の「好転の時」、即ち神の「ご計画」が芽吹く時を迎えることになります。


 ヨセフは常に、自分の「愚かさ」を戒め、第一に「ベラベラ話すと、必ず失敗する!」こと、そして第二に洞穴や牢獄の中で、「誰も話し相手が、ここ(孤独の場)にはない!」ことも学びました。しかし霊的には、ここ(孤独の場)だけが、神との交わりの場であることも、聖霊様を通して学ばされた(砕かれた)のです。ようやく聖霊様は、彼に命じました。「人ではなく、神に語りなさい。あなたに与えられた賜物は、人に簡単に語るものではない!あなたが為すべきことは、黙々と神に祈り続け、私との交わり(会話)のみを求めなさい!」と。


 そして彼は、常に黙して祈り続けることで、見えざる「神の道」が見えてきました。その結果、霊の次元を解釈する預言的賜物が与えられたのです。そうです!彼は常に「祈り」を、神に対して捧げました。「主なる神よ、今の時が悪転していても、好転したとしても、どちらも感謝します。人の前に黙したことで、今回も暗闇の如き環境に導かれましたが、あなた様と深い交わりが出来ることを、最上の喜びをもって感謝します。ここで何を為すべきか、どうぞ教え示して下さい!」と。


 私たちは今後、更なる試練を経て、後の雨の大収穫期において、私たちに与えられている、数々の預言的方向性が見えてくるでしょう。「その時」になって初めて、私たちは「主よ、遂に預言が成就したことを感謝します!」と告白することになります。ですから「今の時」が、たとえ「悪転」していたとしても、その中にある「神の道」を、聖霊様から教えて戴くべく、ひたすら黙して祈り続けましょう!


 あなたが「今の時」、たとえ暗闇にあったとしても、神の御業のみを期待して、絶えず「真実の感謝」を捧げることが出来る、ヨセフの如き「祈りの器」でありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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