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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.15)

         「肉なる者」から「聖なる者」




その夜、ヤコブは起きて、・・・・ヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、・・・・ヤコブは独り後に残った。その時、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打った・・・・「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えて下さい」とヤコブが尋ねると、「どうして、私の名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
                                                                                                        【創世記32章23~31節】


ヤコブの臆病な一面
 ご存知のようにヤコブは、出生の時から兄(エサウ)の「かかと」を、強く掴んだまま同時に産まれ出るなど、非常に個性の強い性格でした。しかし母(リベカ)は、我が子(双子)を胎内に宿した時から、兄弟喧嘩を為していることを知っていました。そして二人が成長していく途中で、いずれ仲違いすることも。


 しかし今回の記事には、非常に「恐れ」と「不安」の中にいる、ヤコブの違った個性(弱さ)も描き出しています。普通でしたら、繁栄と祝福に満ちた姿をもって、堂々と故郷に凱旋したいところですが、今回の彼は「こっそりと(密かに)」、故郷の手前で身を隠している次第です。


 そしてヤボクの「渡し場」で、一団(家族を含む)と家畜を先に渡らせ、自分だけは(渡しの手前に)残る!という、非常に慎重な行動を取っています。夜中になり、暗闇の中からガサガサ!と、得体の知れない物音が聞こえます。するとヤコブは、思わず「ビク!」と驚き身構えました。兄の回した刺客でも来たのか?と思いつつ・・・・。


 ところがその不審者は、彼の前に堂々と姿を現し、何も言わずにヤボクの渡しを渡ろうとするものですから、彼は「待て!」と叫んで、行く手を遮るべく立ち塞がりました。するとその者は、負けじと「お前こそ、どけ!」と言わんばかりに、ヤコブと取っ組み合いを始めたのです。まるでそれは、レスリング(或いは大相撲)の如き格闘でした。


 その取っ組み合いは、普通でしたら「勝敗」が、いずれ付く!はずでした。しかし、いつまで経っても相手が「参った!」と言わず、自分も絶対に負けられない!ということで、徹夜の取っ組み合いになりました。


「肉なる者」の存在
 さて今回の記事から示される第一の奥義、それは私たちの霊の中に潜む、様々な悪しき罪の中に、人と競い合う「肉なる人」が存在することです。即ち「ヤコブ」とは、霊的には私たちの「肉なる者」の象徴です。私たちの霊には、聖なることを欲する者も存在します。つまり霊的な飢え渇きをもって、聖霊様に従いながら、純粋にへり下って生きる「聖なる者」の存在です。


 しかしそれとは逆に、この世に生きていく上で、様々な競争社会に飲み込まれ、純粋なものが次第に汚されていくなど、肉なる次元を欲する生き方に傾倒していくことがあります。とりわけ肉なる者と、肉なる者がぶつかる時には、互いのプライドが反目し合って、そこには霊なる次元が勝利する余地はありません。


 さて、その不審者(神の使い)と肉的に闘った結果、ヤコブは如何なる状態になったのでしょうか?これが第二の奥義です。普通一対一の格闘技でしたら、どちらかが次第に、力が弱まって行くのですが、その者が自分の腿つがいを外しても、どうもトドメを刺す(暗殺する)雰囲気では無い中で、ヤコブはあることに気付きました。それは「この者は、私に何かを気付かせようとしているのではないか!」と。


 そして遂にヤコブは、次のように告白しました。「あなた様が、私を祝福して下さらなければ、私はこの手を決して放しません!」と。すると神の使いは、「お前の名は何と言うのか?」と優しい口調で尋ねました。やっと、まともな会話ができる!と思ったヤコブは、思わず「ヤ、ヤコブでございます!」と即答しました。


「聖なる者(イスラエル)」の誕生
 その瞬間、神の使いは間を置かずに、「あなたは確かに、かつてヤコブという名前で、肉的に格闘する者であった。しかしこれからは、その名は必要ない。あなたは私と戦って、最後の最後まで格闘し続けた。それ故に、神の使いと戦った者、即ちイスラエル(常に神と相対し合う者)と呼ばれるであろう。」と言って祝福しました。


 当然ヤコブは驚きました。彼は「え!俺は卑しき名のヤコブであり、イスラエルと呼ばれるには相応しくない者だ。」と思いながらも、神の御前に跪きがら(まだ両手は掴んだまま)、「で、あなた様の御名は、何と呼べば宜しいのでしょうか?」と恭しく尋ねました。しかし神の使いは「何故私の名を、あえて問うのか?」と、逆に問い質します。その瞬間ヤコブは「全て」を悟りました。「はは-ん。確かに神の名は無かった。在りて在る者が、直接(自分と)相まみえて会話して下さる。それこそが神の臨在(証明)である!申し訳ありませんでした。」と答弁した後、彼は遂に相手の腰帯から両手を放し、跪いてひれ伏し礼拝したのです。


 その瞬間に神の使いは、ひれ伏すイスラエルの頭に手を置き、「イスラエルと名乗るあなたを、今も後も豊かに祝福する!今までの肉なる歩みの全てを、今この瞬間に聖める!」と宣言しました。その後イスラエルは、この貴重な体験を憶えるために、「ペヌエル(神の顔)」と名付け祭壇を築きました。即ち「あたな様は、この私と相まみえて下さいました。私の信仰の飢え渇きに対して、常に応えて下さいました。私は、主なる神と初めて、顔と顔を合したにも関わらず、生きることが出来ている、素晴らしく祝福された者である。神よ、感謝します!」という信仰告白(感謝)を添えて。


 神の御力に対して反抗する程の「肉の力」が、ヤコブ同様に私たちの中にあることを、私たちは片時も忘れてはなりません。しかし、聖霊様が私たちの「肉なる者」を、イエス・キリストの御血潮によって打ち滅ぼす(砕く)時に、肉の力で闘ってきた相手の顔が、それまでは「兄の顔」としか見えなかったのですが、倒された瞬間に聖なる(麗しい)「主の御顔」に見える次元、つまり聖なる者(イスラエル)へと、私たちも造り変えられるのです!


 そうです!私たちは決して「肉なる者」として、肉の次元で格闘するヤコブではなく、常に「聖なる者」として、霊の次元にある神の御顔を、常に慕い求めるイスラエルです。今!あなたは既に、イスラエルとして歩む「聖なる者」です。このことを信じて、ヤコブの生き方に後戻りすることが絶対にありませんように!また聖霊様の導きに対して、素直に聞き従うイスラエルでありますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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