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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.13)

                            二種類の喜び




サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなく、主人も年老いているのに、と思ったのである。主はアブラハムに言われた。「何故サラは笑ったのか。何故年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今頃、わたしは ここに戻って来る。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」・・・・
                                                                                                        【創世記18章12~15節】


主は、約束通りサラを顧み、・・・・彼女は身ごもり、・・・・男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け・・・・。
                                                                                                            【創世記21章1~3節】


  「現実」を見る限りは・・・・
 アブラハムは、「現実(今の姿)」は百歳過ぎた老人です。そして年下のサラも、「現実」は老齢の婦人ですから、とても懐妊を望める状態ではありません。そういう訳で特にサラの場合は、「何がサラ(多くの国民の母)よ!サライのままで結構だわ。」などと考えていたかも知れません。


 私たちは「肉の眼」を与えられている以上、常に「見える事実」、即ち「現実」に左右されます。そして、この「見える事実」を見て、一喜一憂する弱さがあります。とりわけ年老いて来ますと、常に「あ-!年を重ねると、様々な器官が衰えるなどして、もうダメだな-。」などとボヤク傾向にあります。


 アブラハム夫婦の場合、「見える事実」としては、文字通り「不可能!」な体でした。するとそこに、神の使いが二回目の訪問を為され、「アブラハムよ、あなたの妻サラは、もうダメだ!と思っている。しかし、あなたに断言する。来年の今頃には、サラのお腹に約束の子が懐妊している。このことを信じるか?」と、とんでもない預言を語りました。


 すると、陰で聞いていたサラは「え?この老いた私の胎に、赤ちゃんを授かるですって!とんでもない。フフフ・・・・」と、聞こえぬよう笑いました。この時のサラの「笑い」は、滑稽に思ったり、面白がった時の類ではありません。この時サラは、確かに神の使いが語る「約束の言葉」を聞きました。しかし彼女は、神の言葉を霊で受け留める前に、ある事実を先に確認してしまったのです。


サラの見た「現実」
 神の言葉を打ち消した、サラが確認した事実とは、先ず①自分は年寄りである!、つまり年齢という数字(事実)でした。第二に②自分が「ボロ雑巾」の如き、使い古した身に過ぎない存在である!と判断したことです。第三に③自分たち夫婦の間には、性的興味を失った関係にあるから、妊娠という過程には至らない!と結論づけたことです。そして最後の事実は④自分の夫も、ただの老人である!と見ていたことです。


 覚えて戴きたいことは、本当の事実としては、アブラハムは、依然として①体力があり、②ハガル(側女)との間に子を設けるなど、子種(精子)が尽きてない!という点です。ですから彼女は、この時点でも依然として、自分のことを「サラ」ではなく、サライと自負しているのです。それ故にサラは、自分を肉の眼で見て、皮肉的に笑ったのです。


 自分の人生には、「喜び」や「感謝」は、何一つ見出せない!と受け留めていた、この時のサラに対して、神の使いは「主なる神にとって不可能なことがあろうか。来年の今頃サラには、男の子が生まれているであろう。」と、神の事実を前もって突きつけました。つまり神の使い(聖霊様)は、肉の事実を覆す程の「神の事実」を宣言することで、神の見えざる領域にある、偽り無き神の「約束の保証」を、先ずアブラハムの体力に強く注ぎ、続いてサラの不信仰に対しては、天上よりの「力」をもって、一方的に激しく臨んだのです。


 神の使いが語った、「主に不可能なことがあろうか。」という言葉の中には、サラが確認した肉の事実を打ち消す、神の事実として第一に①御目からは全てが常に新しい!者として写ること。第二に②御手をもって直接、新しいものを仕立てて(着せて)下さること。第三に③神の約束の言葉を受け留めたことで、サラの霊の中に神の事実が確立し、夫婦の愛(親しい交わり)が再び、若き頃のように始動したこと、この三点を意味します。


 その後サラは懐妊します。そしてその時から彼女は、神の偽らざる(畏れ多い)事実に対して、真実の感謝の祈りを捧げるようになりました。そして遂に神の約束通りに、彼らに待望の男子が産まれ、その子の名をイサク(真の喜び)と名付けます。


二種類の「喜び」
 以上のことから分かることは、私たちには二種類の「喜び」があるとい点です。第一の喜び、それは「現実」の良き面を見て、一時的に喜ぶのですが、逆に悪しき面が見えた時には、枯葉の如くに消失する、そんな肉の喜びです。しかし第二の喜びは、神が上(天)より与えて下さるもので、それは「真実」という神の事実を、必ず確認することになりますから、信じる者は決して失望には至りません!


 最初は「嘆き」と「失望」が付きまとう、そんな悲劇と思っていた自分の人生、神の事実を半信半疑とは言え、少しずつ受け留めたサラの人生に、神の真実の喜びが結実(イサク)し、まさしくサラ(多くの国民の母)の新しい人生が始まったのです。


 ですから私たちも、決して今の事実(現実)を見てはなりません!それは単なる過渡期に過ぎません。私たちを霊的に練り聖めるための、一つの通過点だからです。そうです!私たちは目の前を見るのではなく、目に見えざる先の(神の用意する)事実を見続け、未だ得てはいなくとも、それを得た時に、今よりも更なる「感謝」を捧げられる、そんな「あなた(私)」を、今から確認するのです。


 さ-、私たちも告白しましょう!「あなた(私)は、ボロ雑巾の如き存在ではなく、いつも神にあって新しく造られた者です!」と。今は何も見えなくとも、あなたの中に神のデザインと、新しい知恵が注がれることで、神の大いなる人生が、あなたの中に必ず実現(結実)することを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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