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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Thanksgiving(No.10)

                     贖われた最初の信仰者




ノアは主のために祭壇を築いた。そして全ての清い家畜と清い鳥の内から取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上に捧げた。主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。・・・・地の続く限り、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことは無い。」
                                                                                                          【創世記8章20~22節】


最初の一歩
 大洪水の後、大水が引き始めて、箱舟はアララト山上に漂着し、ようやく新しい大地に置かれた時、ノアが最初の一歩を踏み出した訳ですが、この時ノアは如何なる感情を抱いたのでしょうか?何故なら、見渡す限り大地には、何も緑色が無い、荒涼とした泥色の世界が拡がっていたからです。


 「この地は、二度と元に戻らないのでは・・・・。呪われた大地、呪われた水、呪われた空だけが拡がっている!」と思いながら、ノアとその家族は箱舟の中で一年以上の年月を過ごしました。


 今回のストーリ-で、私たちが覚えるべき第一のポイント、それは再び大地が現れ出た時、ノアはどのように感じ、どのように最初の一歩を踏み出したのか?という点です。恐らくノアは箱舟の中で、自分たちだけが助かったことを喜びましたが、それと同時に箱舟の外側で大勢の人々が死にゆく、その光景を想像しながら苦しんだはずです。


 ただ分かるのは、神による「滅びの時」が始まって、いよいよ呪われた大地を、神が全て洗い流して一掃している!ことです。しかしある時から、ピタッと大雨が止み、荒れ狂う波が次第に緩やかになります。そして静寂の後に、一年の三分の二を過ぎた頃から、何となく天空に明るさが増し、水流が次第に落ち着きを取り戻し、ノアはふと感じます。神による「滅びの時」が遂に終わり、次は新しい創造の御業が始まっている!と。


 そして遂に、箱舟が何かとぶつかり、座礁したのです。しかし箱舟は、何一つ破損すること無く、安定して大地(アララト山頂)に着座したのです。家族全員が「何が起きたのだろう?」と不安を抱く中、ノアだけが気付きました。「もはや箱舟は、水の上に浮いていない。神の回復が、この地に新しく始まった!」と。


 主なる神が、箱舟の扉の封印を解いた時、ノアは家族を前にして躊躇しました。「待て!慌てて降りてはならない。神が大地を、如何様に為さったのか、先ず私が一歩踏んで確かめるから、ちょっと待っていなさい。」と。そしてノアが、最初の一歩を踏み出した瞬間、彼は「あ!(大地は)安定している。」と感じ取り、続いて二歩、三歩と歩き進む中、彼は大地に思わず跪き、大地に接吻して涙ながらに、次のように祈りました。


 「主なる神よ、あなたの贖いの御業が、この大地に始まったことを感謝します。どうか私たちが、再び罪を犯し、私たちの為す愚かな行為によって、大地が呪われることが無きよう、私たちを正しい方向へと導き、常に助けて下さいますように!私たちは決して、あなた様から受け入れて下さる程の、聖い者ではありません。」


「新しい大地」に祭壇を築く
 祈り終えたノアは、家族を箱舟から呼び寄せ、一人一人が降り終えた後、自分が祈った場所に、家族全員で「祭壇」を築きました。これが今回のストーリ-で、私たちが覚えるべき第二のポイントです。すかさずノアは、長男に指示しました。「箱舟に居る一年間の、直近で産まれた最上の子羊、そして清い鳥の雛を選び、ここに持って来なさい!」と。


 父なる神の「贖い」の御業の数々、その中で最上の「贖い」の生贄、即ち御子イエス・キリストによる、「十字架」上の身代わりの死を、私たちが思い巡らす時、いたたまれなくなる程の、私たちの「罪」の業が、聖霊様の働きによって示されます。それは決して、一年に一度(復活祭の時)、或いは月に一度(聖餐式の時)の体験ではありません。聖霊様は、私たちの歩む、その一歩ごとに、神の「贖い」の御業を示されるのです。ところが私たちは、殆どの場合それを見ていません。何故なら、私たちは余り気付こうとしないからです。仮に見えたとしたら、それは私たちが失敗した時です。


 ノアの家族全員は、「何故私たちだけが(救われたのか)?」という問いかけが、頭から離れませんでした。聖霊様が働く時、不思議なことが始まります。そして全てが「明るみ」にされます。ある者は、確かに苦しむことでしょう。悪霊がその者の「罪」を責め立てるからです。「お前など、神の救いに相応しくない!」と。しかし聖霊様の場合は、「罪」を責め立てるのではなく、「だからこそ、あなたの一歩一歩を確かなものとするために、御子イエス・キリストが贖いの御業を、十字架上で常に為して下さる。そう!あなたのために。」と、逆に励まして下さるのです。


 ノアは、最初の一歩を大地に踏んだ時、自分たちが本来は、神が今回創造された、新しい大地を歩くことが出来ない、罪に汚れた者であるにも関わらず、主なる神が自分たちを選び、この新しい大地に、再び呼び戻されたということを、聖霊様に導かれ感じ取ったのです。そして思わず大地に膝を屈めて、涙ながらに祈り続けました。「主よ、私たちが二度と愚かなことを為さないよう、私たちを日々聖めて、御手をもって導いて下さい!」と。


 それに対して主なる神は、彼らの捧げた祭壇上の全焼の宥めの香りをかぎ、燃え盛る生贄を見て「良し!」とされたのです。しかし主なる神は、この時「一言」も、ノアに語った訳ではありません。21節以降に記述されている御言葉は、神が自分自身に語っている、言わば「独り言」です。


 覚えて戴きたい「神の事実」、それは神が今回、大水をもって全て洗い聖めた訳ですが、だからと言って古い大地に生きた、古い汚れに満ちた人類の全てを、地上から洗い消し去り、新しい人を創造したのではありません!あくまでノアとその家族を、神の一方的な「選び」により、「箱舟(救い)」をもって贖い、彼らを新しい大地に根付かせ始めたのです。


 即ち、彼らの捧げた「全焼の生贄」故に、たとえ彼らに「罪」が、僅かに残っていたとしても、贖いの生贄(子羊)の血潮を見て、「良し(彼らの罪を決して見ない)!」とされるのです。ここに福音の奥義が示されています。


 私たちは、御子イエス・キリストを信じたからと言って、瞬時に全てが聖められ、「完全な人」に造り変えられる訳ではありません。それでも聖霊様は、私たちのために「贖いの子羊」、即ちイエス・キリストを十字架上で屠り、その貴い御血潮をもって、「罪」の汚れに満ちた、不完全な私たちに注ぐことで、生きた聖なる生贄として、祭壇上にて焼き尽くして下さいます。


 ノアは父なる神の「独り言」を、聖霊様を通して知らされた時、明確に悟りました。「全ての人間は、誰一人として罪を犯したことが無い、完全な者はいない。だからこそ、全ての罪を正直に告白し、二度と大洪水によって滅びることが無い、神の偉大なる恵みを覚えながら、、常に感謝の生贄を捧げ、自分が常に聖められることを願いながら、神の救いに期待して、謙虚に生きていこう!」と。


 更に聖霊様は、ノアに念を押します。「時が続く限り、大地は以前と同様に、良き時もあれば悪い時もある。それ故あなた方は、時が良くても悪くても、主なる神のみを崇め、神の恵みを忘れることが無いように!自分の罪が示された場合には、直ちに祭壇を築いて、神の御前に出られる者でありなさい!このことを子々孫々に至るまで、語り伝え実践するように!」


 あなたが「今の時代」に、神によって形造られ、現に生かされている理由など、様々に聖霊様が教え示すことでしょう。「その時」に、どうかあなたが、ノアと同様に贖われた民(救いの初穂)として、更に信仰が練り聖められて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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