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Terminal Sound(No.22)

K・バルナバ

     「呻き」から「叫び」へ

 

 

 

私たちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを誰が望むでしょうか。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に、御霊も弱い私たちを助けて下さいます。私たちはどう祈るべきか知りませんが、御霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成して下さるからです。

          【ローマ書8章22~26節

 

「呻き」という肉の叫び

 私たちが肉体的に呻く(苦しみ叫ぶ)次元から、聖霊様によって導かれる、聖なる「呻き(信仰の叫び)」という、霊の次元に入るには、如何なる聖霊様の取扱いが、必要となるのでしょうか?ローマ書8章には、私たちの「肉の次元」における、霊的「弱点(弱さ)」が示されています。即ち「現実」に接して(見たり、聞いたり、触れたりする等)、すぐに反応(パニック、心配、恐れ等)する「弱さ」のことです。しかし覚えて下さい!見えざる「神の事実」にこそ、神の偉大なる「働き(救いの御業)」が用意されているのです。

 

 現実に対する「呻き(gloan)」とは、自分が耐えられないような、「ストレス」や「重荷」を抱えた時に発する、言葉に表せない肉体的「叫び」のことです。私たち被造物は、アダム(エバ)が犯した罪の故に、物理的及び精神的「苦痛」に、耐えられない「弱い」生き物です。「現実(善悪の木)」を見て、それ(その実)を食べた(選択した)結果、彼らは霊的な次元に用意されている、「神の事実」を霊の眼で見る、その素晴らしい「天の力」を失いました。

 

 被造物の全てが、「呻き」を伴うサウンドを必ず発します。聖霊様は、私たちが「呻き」を発する時に、決してせかしたり、強力なサウンド(叱咤等)を発することはありません。むしろ忍耐して、そっとその者の傍らにて、共にある「呻き」をもって、私たちの「弱さ」に働かれます。この聖霊様の「呻き」は、私たちが発する「呻き」の次元ではなく、聖なる「サウンド」をもって執り成す際の聖い「呻き」です。

 

二人の盲人の信仰の「叫び」

 聖霊様が、肉の次元に戦い続け、何も成し得ない程にまで砕かれた、「弱い」私たちに臨まれる時、果たして何が起きるのでしょうか?マタイ福音書20章29~34節には、名も無き二人の盲人が登場します。彼らの信仰の「叫び」が、イエス・キリストの「御心」を突き動かし、父なる神の「憐れみ(癒し)」を引き出したことで、彼らの視力が回復したことが、三次元的事実として読み取れます。

 

 しかしこの記事には、見えざる「神の事実」として、聖霊様の「呻き」を伴う働きが、実は見え隠れしています。覚えて戴きたいことは、この二人の盲人は、想像を絶する程の「暗闇」の世界に、長きに渡って視力が奪われるなど、彼らの人生の全てが、「虜(とりこ)」にされていたことです。彼らは、常に「救い(盲目の病いからの解放)の時」を待ち望んでいましたが、時々失望感に陥りながら、「我々は、もう駄目かも知れん!ヨハネとか言う預言者は、ヘロデによって殺されたらしい。我々の生きる時代には、メシヤは来られないかも。」と一人が呟くものの、あと一人が「いやいや、噂によると、新しいレビが現れたそうだ。その方は、昔居たモーセやエリシャのように、素晴らしい奇跡を数々されるそうだ。もしかしたら、その方がメシヤかも知れないぞ。」と、希望を込めて語ります。

 

 そして遂に「ある時(神の時が来た時)」、群衆の立てる喧騒サウンドの中に、いつもに無い「麗しい響き(声のサウンド)」が、彼ら二人の研ぎ澄まされた耳に、力強く飛び込んできました。 三次元的事実としては、彼らの存在を打ち消す程の、群衆サウンドが覆っていました。その喧騒の中で彼らの「叫び」は、メシヤとおぼしきイエス・キリストの耳に、果たして届くのでしょうか?常識(健常者の意識レベル)で考えれば、それは「不可能(有り得ない)!」と捉えます。

 

 しかし二人は、常軌を逸する信仰行動に移りました。今まで出した事の無い、大いなる「叫び」を何度も発したのです。「ダビデ王家の子孫である主なる方よ、我々にあなたの憐れみを下さい!」と。すると、彼ら二人の近くに居た群衆は、「おい、黙らないか!うるさくしたら、向こうに行ってもらうからな。」と、二人に対して脅します。それに対して二人は、更に大きな声をもって「叫んだ」(31節)のです。

 

 この驚愕すべき二人の「叫び」が、イエス・キリストの耳に届きます。イエス・キリストは全ての行動を、聖霊様の「指示(導き)」の中で為されています。然り!聖霊様が「その時」、イエス・キリストの「霊の耳」を、二人の信仰に結び合わせたのです。二人の信仰が、三次元的な「呻き」から、霊的次元に至る「叫び」に変化したことを、聖霊様は聞き逃しませんでした。即ち、彼らの発する信仰の「求め(願い)」が、単なる「奇跡(癒し)」ではなく、全能なる主の「憐れみ(恵みに満ちた御心)」を乞い願っていることを。

 

「何」をして欲しいのか?

 するとイエス・キリストは、彼らの信仰の「叫び」を聞いた瞬間、直ちに彼らのもとに来て「何をして欲しいのか?」と問い質しました。二人は「私たちは、あなたの憐れみを求めて、ただ私たちの視力が回復することを望んでいます!」と即答しました。決して二人は、各々に「私に~して下さい!」とは返答していません。あくまで「私たちに・・・・」です。彼ら二人に共通する「私たちの現実」を、神の御心の聖なる「唯一の次元」へと、「今、正して下さい!」と訴えた言葉が、「私たちは、あなたの憐れみが戴きたいのです!」に繋がっているのです。 

 

 敵(サタンと悪霊)は、「現実」という巨大な障壁を、次々とあなたに見せて来るでしょう。現実の日本は今、様々な瀬戸際に立たされています。しかし私たちは、「現実」がどうであれ、目に見えざる「神の事実」の中に、イエス・キリストの「憐れみ」を求めて、激しく叫び続けるべきです。そうです!彼ら二人が、イエス・キリストの優しき「問いかけ」に対して、「あなたの麗しい御顔のみを、明確に見る(知る)ことの出来る、創造主なる神の御業を、私たちに現わして下さい!」と返答したように、私たちも信仰をもって叫ぶのです。

 

 彼ら二人は、イエス・キリストの御言葉を信じた瞬間に、視力が完全に回復し、そしてイエス・キリストに付き従いました。イエス・キリストが、「ホンモノ(真の救い主)」と分かったからです。「私たちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを誰が望むでしょうか。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ書8章24~25節)

 

 繰り返しになりますが日本の「現実」、つまり目に見える事実としては、そこに何の希望も見出せません。しかし目に見えざる「神の事実」の中において、日本民族をサタンから奪還すべく、「神の兵士」である花嫁たちが整えられ、聖霊様が「出陣の時」を、今か今かと進めています。あなたも「神の兵士」として、日々霊的訓練(鍛錬)の中にあり、「聖い手」を上げて、祈りの時に導かれていることを、彼ら二人の如くに、忍耐して待ち望んでいますか?

 

 あなたの「霊の唇」は、彼らの信仰告白通りに「私たちは見えるようになりたいのです!」と、霊的な「呻き(サウンド)」をもって、聖霊様と共に祈っているのです。「その時」には、ヨエル書の預言通りに、あなたは「神の啓示」を語り、あなたの「霊の眼」は、目に見えざる「神の事実」を説き明かすのです。そして、イエス・キリストを知らない人々に、「今、あなたが目に見ている現実は、いつか消え去るものです。天を見上げましょう。そこには、無尽蔵に蓄えられた、神の命の糧が用意されています。それを食べれば、あなたは永遠に贖われ続けるのです。」と、大胆に宣告するのです。

 

 聖霊様は日本人キリスト者たちに、大激励をもって臨んでいます。「日本のキリストの花嫁たちよ、信仰を働かせなさい!私の与える武具を身に着け、いよいよ出陣の時に向け、万事を整えなさい!」と。この指令は、私たちに対する、万軍の主の大号令(召集令状)です。これからの日本において、悪魔の軍団が焦る程の「神の事実」が、次々と起こって来ます。「その時」に、私たちは信仰を働かせて、ただ「行く(出陣する)」だけで、イエス・キリストの勝利の「御旗」を、その先に確認することになります。

 

 どうぞあなたの「唇」から、「霊の言葉」が命の水の如くに、尽きること無く溢れ流れ、この日本の全土を潤す程の、「癒し」の流れ、「回復」の流れ、「大いなる実り」をもたらす流れへと、聖霊様が拡大して下さいますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2025629日のメッセ-ジ)

 

次回は・・・・特別メッセージ(1/27掲載)です。

  

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特別メッセージ

K・バルナバ

     「復活」の力の源泉

 

 

 

夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉(a word)で悪霊を追い出し、病人を皆癒された。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現する為であった。「彼は私たちの患いを負い、私たちの病いを担った。」
          【マタイ福音書816~17節

 

肩の「荷」を全て担う方

 今日のメッセージのキーワードは、肩にかかる「荷」です。それが「重い」のか、それとも「軽い」かによって、私たちの生活全般や、人生の歩みにおける「考え方(希望、判断等)」が、様々に変わって来るのではないでしょうか。それは①肩に載せる物理的負担(重量)、或いは②精神的に被る「重圧」など、やはり何となく肩に関わるものです。

 

 例えば、私たちが精神的に敬遠する、「苦しみ」や「患い」等は、実際には見えないものですが、その度合を「重い」か、「軽い」か等と選別します。この私たちが持つ(抱く)、様々な肩の「荷」の全てを、救い主イエス・キリストは、「私が全て引き受ける(重荷を担う)!」と、力強い言葉で確約して下さいます。そしてあなた(私)の「重荷」の全てを、完全に降ろして下さった場が、贖いのフィールドである「十字架」上です!

 

 「闇」から「光」へ、神の永遠の「救い」に導かれた私たちは、「不安」と「恐怖」という、霊的な重荷から完全に解放され、将来に対する「生きやすさ」を、日々覚えるようになりました。何故なら主イエス・キリストが、私たちの「重荷」を、日々担って下さる!という確信があり、私たちはイエス・キリストに、全てを委ねる(担いで戴く)ことが出来るからです。

 

 イエス・キリストの「復活」の御業は、私たちの「人生」、そして「命(生命)」の源動力となっています。特に「死」及び「病い」などが、イエス・キリストの十字架の死を通して、既に過去のものとなったが故に、私たちの人生の歩みを阻むものは、もはや何一つありません!私たちが、イエス・キリストの「復活」の事実を、正しく知り(受け入れ)さえすれば、私たちの人生の「重荷」の全てが、文字通り「軽く」なるのです。私たちが、仮に「重荷」を背負ったままでいたら、その行き着く先は「地獄(永遠の滅び)」です。

 

十字架上で完済する!

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病いを知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私たちの病い、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きの為であり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎の為であった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された。私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪を全て、主は彼に負わせられた。イザヤ書533~6節

 

このイザヤの預言の言葉にある「彼」とは、イエス・キリストのことです。そしてイエス・キリストが担われた、私たちの「病い」や「痛み」から、全ての「咎(罪)」に至るまで、それを全て引き受ける(代わりに重荷を負う)こと、これは主なる神の「ご計画」であること、この神の事実を知って下さい!あなた(私)の「重荷」の全てを、担われる方(イエス・キリスト)が遣わされていて、この「良き知らせ(福音)」は、今も尚効力を発揮しているのです!

 

 「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病いを知っている。」(3節)と記述されていますが、実際にイエス・キリストは、私たちが罹患する、数々の「病気」の全てを患った訳ではありません。しかしイエス・キリストの場合は、患者としてではなく、真の「癒し主」として、あらゆる人々の「痛み」を知り、直接その御手をもって、創造主なる神の「救い」の御業を現わし、実際に癒されたのです。

 

 そして最終的にイエス・キリストは、屠り場に引かれ行く「小羊」として、最後の仕上げ場(十字架上)に行きました。私たちの人生にまとわり付く、「罪咎」という最大の重荷を、身代わりに背負って地獄に行かれ、そこに重荷を完全に放り投げたのです。これら全てが、父なる神の「ご意思(救いの計画)」でした。イエス・キリストは、まさに死ぬ直前に、次のような大宣言の言葉をもって、ご自身の「贖い」の歩みを完成されたのです。「事(人が負うべき重荷)の全ては、今完済した(贖いの代価として支払い終えた)!」と。

 

 「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆癒された。(マタイ福音書8章16節)にある、イエス・キリストの素晴らしい御業から、私たちがうかがい知る「事実」は、多くの人々が抱える「重荷」の全てを、イエス・キリストは、必ず取り外した(肩から別の場へと移した)ことです。その時に、イエス・キリストが用いた御言葉(一つの言葉)が、「悪霊よ、父の御言葉によって命じる。この者から直ちに去れ(私が重荷を担うからだ)!」です。

 

 この時に語ったイエス・キリストの「一つの言葉」が、まさしくイザヤ書53章の預言にある、「彼が(人が被る患い、病い、痛み等の重荷を)の全てを(代わりに)担った」ことです。然り「担う」という、偉大なるイエス・キリストの「贖い」を現わす一語、これこそが神の御国を完成する、重要な「復活」の力となったのです!そして十字架上で、力強く宣言した「完済した!」という、一つの御言葉をもって、遂に「復活」の福音が、今に至るまで継続しながら、多くの人々の抱える「重荷」の全てを、完全に解き放つ「源泉」となっているのです。

 

 ですから、私たちが大事に抱えるべきもの、それは世の次元にある「重荷」ではなく、復活の御業を十字架上で見事に完成された、イエス・キリストの「福音」です。イエス・キリストが、あなたの「重荷」の全てを、既に身代わりとして担われた以上、あなたは負う(担ぐ)必要はありません。そうです!重荷が何一つ無い、新しい人生の歩みが、あなたに用意されているのです。

 

  あなたが信じるイエス・キリストは、「死んだ神」ではなく、「死」から復活した、今も尚生きて働かれ、あなたと共に「常にいらっしゃる神」です!あなたは今までの、「重荷」を担いだ人生に終止符を打ち、新しい「復活の人生」を完成して下さる、主イエス・キリストと共に、御国へと凱旋するゴールが待っています。

 

 「復活」の力の源泉は、イエス・キリストにあります!それ故、あなたは唯一の「救い主」、イエス・キリストに全てを委ねて(担いで戴き)、「新しい人生」の一歩一歩を、力強く前進することが出来ますようイエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2025420日のメッセ-ジ)

 

次回は・・・・Terminal Sound(1/17掲載)です。

 

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Terminal Sound(No.21)

K・バルナバ

     大喜んで声を上げよ!

 

 

 

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。大いに喜んで、声を上げよ。・・・・人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなた達の神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなた達を救われる。」その時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。・・・・主ご自身がその民に先立って歩まれ・・・・解き放たれた人々がそこを進み、主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。

          【イザヤ書35


 

Shout for joy」とは?

 私たちは信仰の「叫び声」を、如何なる方向に向けて、発し続けるべきでしょうか?しかもその「叫び声」には、「喜び」を伴って叫ぶよう、主なる神は命じておられます。しかしその「喜び」は、人間的な感情から出て来る、一時的な「歓声」ではありません。神が与えて下さる、大いなる「歓喜(raptuer)」を携えて、如何なる方向(次元)に叫ぶべきか?それが「今の時」に、私たちに問われているのです。

 

 「喜び」を伴う叫びのことを、英語では三つの単語(shout for joy)に分けられます。先ず①shoutは大きく叫ぶことです。次の前置詞②forは方向性を指し、最後の③joyが「喜び」を意味しています。この三つの言葉が重なって来る時に、実は主なる神が私たちに対して、大いなる信仰のチャレンジを、盛んに促していることが分かります。

 

 今回の「Shout for joy!」という命令形は、それに似た熟語である「Shout with joy!」と、意味合いが全く異なります。この「Shout with joy!」が、まさしく「喜び」をもって(喜びと共に、喜びを携えて)叫ぶことです。しかし「Shout for joy!」の場合は、実は二つの重要な意味があります。それは「喜ぶこと」の中心軸(言葉の真髄)として、第一に①方向性、第二に②理由付け(目的)を指し示しています。

 

「喜び」の方向性

 先ず12節において、①主なる神は、私たちが見る「現実」の次元が、たとえ「不毛」の如き荒地であっても、「大いに喜ぶ」ことを、信仰の行動として促しています。そうすることで、「砂漠(荒野)」が一気に変わらずとも、信仰の次元から「大いに喜ぶこと」が、まさしく求められているからです。然り!私たちが進むべき、正しい信仰行動の方角が、まさしく「joy(喜ぶこと)」にあるのです。

 

 何故、私たちは「叫び声」を、常に発しなければならなのでしょうか?即ち、「叫ぶこと(shout)」の目的地は何処にあるのか?という点です。それは目に見える「人の事実」にではなく、たとえ「現実」がどうであれ、見えざる「神の事実」を、私たちの信仰行動の、唯一かつ正しい「目的地」とすべきです。その為に私たちは、「joy(喜ぶ)」という方向性を定めて、信仰の「叫び声」を捧げるのです。何故ならば、私たちが到達するべきフィールド(住まい)が、「荒野(古い地)」ではなく、新しい「天」と「地」に用意されているからです。

 

 その為に私たちは、常に信仰の次元に立ち帰り、創造主なる神の麗しい霊的次元を、正しく見る(捉える)「霊の眼」を、聖霊様を通して磨かれる必要があります。目の前にある「現実」に捉われるのではなく、私たちが向かうべき唯一の方向性は、神が与えて下さる「joy(喜び)」をもって、主イエス・キリストに対して「叫ぶ」ことにあります!そうすることで、尽きることの無い、朽ちることの無い、麗しいカナンの地が、あなたの「霊の眼」に、必ず広がって来るからです。

 

 私たちが、現実(三次元的世界)を支配する、悪魔サタンに膝を屈めない(物乞いしない)、その理由は何でしょうか?それは尽きることの無い、朽ちることの無い、永遠の命に至る「命の水」と、「命のパン(生ける神の御言葉)」を、主イエス・キリストご自身が、惜しみなく豊かに与えて下さるからです。

 

「真の礼拝」は神を喜ぶこと

 続いて第二に、私たちが喜びをもって叫ぶ、その正しい②理由付け(目的)は何でしょうか?それは簡単に言えば、創造主なる神を祭る(礼拝する)こと自体が、「喜び」を捧げながら、素直に叫ぶことに他ならないからです。敵の要塞「エリコ城」を、信仰のサウンドをもって破壊した、神の大いなる奇跡、即ち「神の事実」は、果たして日本において、同様に起きるのでしょうか?答えは「然り!」、今回のイザヤの預言は、全ての民に必ず起こり得る「神の事実」です。

 

 私たちが信仰の「叫び(サウンド)」を、神に対して高らかに発する時、日本にも必ずリバイバルの炎が、噴き上がるマグマのように起きます。それと同時に、ある現象も起こってきます。その霊的スピード感が、余りにも三次元を超えている為、次第に足の膝がよろめいたり、手の力が弱まるなど、一時的に勢いがダウンしますが、その時も聖霊様が、力強く臨んで下さいます。「あなたが立っている、その聖なるフィールドは、揺るがされることの無い堅固なる岩、イエス・キリスト(信仰の土台)です。あなたは神が一番に必要とする、聖なる神の宮の建材です!だからこそ、弱った手を強くしなさい!あなたは弱い者では無く、強い勇士です。貧しき者ではなく、常に富める者です。」と励ましながら。

 

 あなたに与えられている、霊的な武器の一つである唇は、三次元の「縛り」を解き放ち、「永遠の贖いのシンボルである、イエス・キリストの十字架の救いを、信仰をもって見上げよ!そうすれば必ず救われる!」と大胆に宣言することで、大いなる神の「救い(解放)」を、この日本にもたらすのです。全てが万軍の主の御霊、聖霊様による天の御力によって。

 

 だからこそ「今の時」、私たち日本人キリスト者は、主なる神が賜る信仰の「叫び(shout)」を携えて、喜び称えようではありませんか!然り!聖霊様が導いて下さる、天上の「喜び」の次元に向かって、私たちは高らかに賛美を捧げる時です。そうすることで「主に贖われた人々」が、イエス・キリストの御許に、次々と帰って来るのです。

 

 日本においても、サタンが引導する「反キリスト勢力」が、いよいよ表舞台に出て来ました。今は目立ちませんが、いずれ彼らは本当の正体を現わし、「キリスト狩り」のキャンペーンを展開して行くでしょう。しかし聖霊様は、これを「良し!」とはされません。キリストの花嫁(賢い乙女)が、自分の「命」を懸けて、真実の礼拝を捧げれば捧げる程、迫害キャンペーンも激化しますかが、同時に「敵」の中から、キリストに膝を屈めて回心する者が、日増しに続出することになります。

 

 いよいよイエス・キリストの最終局面が、私たちの住む日本において、始まろうとしています。イエス・キリストが間もなくしたら、戻って来られるからです。その時には、今まで被ってきた「嘆き」と「悲しみ」は、瞬時に拭い去られ、真の「喜び」が訪れます。「その時」に向けて私たちは、常にShout with joy!」を捧げましょう。

 

 あなたが、創造主なる神が日々与えて下さる、天のマナ(命のパン)によって養われ、感謝しながら主イエス・キリストと共に進み行き、聖霊様が豊かに注いで下さる、真の「喜び」に満たされながら、一歩一歩と勝利の行軍を継続できますよう、イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2025622日のメッセ-ジ)

 

次回は・・・・特別メッセージ(1/7掲載)です。

 

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