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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

今の試練の時(No.35)

                          再三のメッセージ




そこでエステルはハタクを呼んで、モルデカイの元に遣わし、何事があったのか、何故このような事をするのかを知ろうとした。・・・・モルデカイは事の一部始終・・・・について詳しく語った。・・・・エステルの返事がモルデカイに伝えられると、モルデカイは・・・・「・・・・自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。・・・・この時の為にこそ、あなたは王妃の位に
まで達したのではないか。」エステルは、モルデカイに返事を送った。「早速・・・・私も・・・・断食いたします。・・・・この為に死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」・・・・

                                                     【エステル記4章5~17節】


ハタクの「働き」
 モルデカイは遂に、エステルに対する「訴え(促し)」を発した訳ですが、肝心のエステルの側では、彼の突然の異常行動の「真意」を、全く理解できませんでした。モルデカイが、エステルの「願い」を拒否して、緊急の「祈り」の行動を継続したことに、実は聖霊様の私たち(キリストの花嫁)に対する、様々な「働き」の予型が示されています。


 養父に拒否されたエステルは、遂に動き始めます。先ず宦官のハタクを呼び寄せ、モルデカイに「伝言」を託しました。このハタクという人物は、如何なる素性の者か、聖書には詳しく記されていませんが、恐らくクセルクセス王が信任する宦官の中で、王妃に相応しい内務官(侍従)として、外交処理能力(対応力)に秀でた、忠臣の一人ではなかったかと推測できます。特に彼に対する王の信任度は、「(王及び王妃から)命じられたことを忠実に果たし、しかもその命令に関わる、全ての情報等を他言しない」という、厳格な「守秘義務」を果たす点にありました。


 その忠臣ハタクが、モルデカイの元に訪問した時、彼は「あー、遂にエステルは私の真意を理解したくれた!」と瞬時に悟り、事の経緯の全てをハタクに証言しました。エステルからモルデカイに対する、「伝言(メッセージ)」は三回であるのに対し、モルデカイからエステルに対する、「伝言(メッセージ)」は二回だけでしたが、カウントされない最初の、モルデカイの彼女に対する「拒否」は、ある面「無言のメッセージ」ですので、三度目にして遂に、エステルが「事」の重大性に気付き、自らも「命」を懸ける行動に移ります。


再三の「メッセージ」
 人というのは、一度の「お願い(メッセージ)」では動きません。また二度目(再度のお願い)でも中々動きませんが、やはり「再三(三度目)」となると、遂に重い腰を上げて動くのではないでしょうか!人を動かす場合の「伝言(メッセージ)」は、何度まで投げかけるべきか?これが今回の記事から学ぶ、第一の重要ポイントです。特に緊急を要する「訴え(メッセージ)」の場合には、その回数も少なくしなければなりません。モルデカイは、そういう意味で「緊急事態」を、エステルに知らせる方法として、狂人の如き「振る舞い」と、「恰好(身なり)」を装ったのかも知れません。


 自分の厚意に対する、モルデカイの「拒否」の姿勢を知ったエステルは、養父の「真意」を知るべく遂に動きましたが、直接会いに行く事が、立場上出来ませんでしたので、自分の代理としてハタクを彼の元に遣わしました。その結果、エステルは初めて「緊急事態」を知ることになりましたが、彼女の返答は「でも・・・・(私の立場からは何も出来ません)」という、モルデカイの期待していた「応答(メッセージ)」でありませんでした。


 するとモルデカイは、エステルの二度目の「メッセージ」に対して、激しい怒りの態度を(ハタクの前で)表明しました。「ふざけるな!私たち民族の存亡がかかっている、今の危機の時に、お前は自分の命を心配するのか!・・・・今のこの時の為に、あなたの立場(王妃の位)があるのではないか。王妃が命を懸けないで、どうするのか?」と。これがモルデカイの三度目の「メッセージ」です。つまり彼女に対する、最後通告とも言うべきものです。人を動かす際のメッセージは、その必要となる基準回数はありませんが、緊急事態の時には尚更、三度目のメッセージが、「命」を賭ける程の伝え方(表現)となります。


自分の「命」を賭ける信仰
 ではエステルは、モルデカイの三度目のメッセージ(最後通告)に対して、如何なる応答(態度)を示したのでしょうか?これが今回の記事から学ぶ、第二の重要ポイントです。彼女はモルデカイの発した、三度目の真摯な言葉「この時の為にこそ・・・・」を聞いて、愕然としながら身を震わせ、思わず両手で顔を覆い、激しく泣き始めました。


 今の「この時」は、全世界規模で「コロナ禍」という、見えない「災い」の試練の最中にあります。しかし覚えて下さい!神が示す「試練」というものは、真(まとこ)の希望を与えるべく、「永遠の命」に至る、唯一の「贖い(脱出)の道」を整えるものです。そういう意味で「コロナ禍」は、現実としては「災い」にしか見えませんが、霊的に新しく目覚めた者にとっては、その先にある「贖い(脱出)の道」が、イエス・キリストを通して見えるのではないでしょうか!


 そうです!私たちキリスト者は、モルデカイに叱咤されたエステル同様に、今の「この時」の為に存在しているのです。ハッ!と目覚めた彼女は、「この時」に何をしたのか、つまり如何なる行動にシフトしたのでしょうか?彼女は三日三晩、断食をしながら「祈る」という、自分の「命」を賭けた戦闘態勢に入りました。


 彼女の三日間の断食方法は、「水分」を全く取らない方法なので、場合によっては脱水症状で死ぬ可能性があります。その覚悟で、つまり自分の「命」の全てを捧げる覚悟で、神に対してユダヤ民族の「救い」を懇願しました。私たちは弱き存在ですから、「(災いに負けないで)生きる!」ことを切望します。しかし霊的次元において、聖霊様は促しています。たとえ世界的「災い」の中にあっても、私たちがイエス・キリストと共に「生き」、キリストのために「死ぬ」ことを願うように!と。


 そうです!聖霊様は常に、私たちがイエス・キリストの「贖い」のレベルにまで、昼も夜も絶えず導いて下さっています。それ故に私たちは、エステルと同様の「祈り」の戦いに出陣しましょう。そうです!自分の「命」を引き換えにしてまで、ユダヤ民族の「救い」を願い出たエステルの信仰こそ、私たち「キリストの花嫁」が持つべき、真実の「信仰」ではないでしょうか!


 三日間の断食の後、エステルは「内庭」に入る覚悟を決めますが、この王宮内にある「内庭」とは、霊的には「至聖所」を現わしています。ユダヤ民族にとって、この「至聖所」に入ることは、「死」を意味します。イエス・キリストが、「何」のために死なれたのか?それは私たちの「罪」の贖いだけではなく、今の世界的「災い」に苦しむ、全ての民を救うために、十字架上にて「命」を捧げられたのです。そうです!「キリストの花嫁」である、私たちキリスト者の群れ、即ち「エクレシア」は、「今」のこの時の為に、エステルの如くに膝を屈め、「万民の救い」の為に、真剣に祈り求めて行こうではありませんか!


あなた方は、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めの頃のことを、思い出して下さい。・・・・だから、自分の確信を捨ててはいけません。・・・・神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要です。「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。・・・・私の正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者は私の心に適わない。」しかし、私たちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。
                                                      【ヘブル書10章32~39節】


 確かに「コロナ禍」を含めて、「災い」は怖いものです。出来れば「災い」に、遭遇したくはありません。しかし「災い」の中にあっても、イエス・キリストが私たちに与えて下さる、キリストと共にある「永遠の命」という、この真実の「希望の光」に照らされて、私たちは日々前進することが出来るのです。そして来るべき方が、遂に来臨された時に、私たちは大胆に自分の「命」を捧げて、多くの「魂」を敵の手より奪還する、勝利の「祈りの戦士」として出陣するのです。


 そういう意味で、あなたも一人の「エステル」として、「敵」を恐れてひるむ者ではなく、「命」を賭けて(捧げて)、新しい「永遠の命」を抱く者として、最後の「闘い」に馳せ参じることが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2020年10月4日のメッセ-ジ)


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