Terminal Sound(No.11)
それでも「あなた」を呼び続ける!
捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように、主はあなたを呼ばれる。若い時の妻を見放せようかと、あなたの神は言われる。僅かの間、私はあなたを捨てたが、深い憐れみをもって私はあなたを引き寄せる。一時、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる。
【イザヤ書54章6~8節】
「神の時」から来るサウンド
今回の御言葉には、非常に重要なキーワードが、いくつか記されています。それは「僅かの間」と「一時」、そして「とこしえ」という、神の「御思い(御心)」に属する「時」の概念です。私たちは「神の時」を測り知ることが出来ません。しかし神から見れば、全ての時が涙一筋程度のもの、即ち「僅か」のスパンに過ぎませんが、あなた(私)を憐れみの念をもって、贖い続けることに関しては「とこしえ」、つまり永遠の働きです。
主なる神にとって、怒ったり、見捨てたり、罰を与えることが、重要な働きではありません!あなた(私)を永遠に贖い続け、愛し続け、慈しみをもって見守り続けることが、大事な務めなのです。この重要な神の贖いの働きを、私たちは忘れてしまったり、見逃してしまったり、人の時を優先してしまう為に、時の概念を悪しき判断で捉えてしまうなど、霊的な愚かさがあるのです。
覚えて戴きたい点は、「神の時」を「人の時」で測ること、これは全て罪に該当します。不思議なる「神の時」の流れ(リズム)を、私たちは信仰で正しく見据えていなければ、サタンの発する悪しきサウンドを聞いてしまい、直ぐに否定的な「思考の罠」に陥ります。そのような時に、「現実」という喧騒状態から、全てが静まった状態、即ち神の「安息の時」の中に、あえて自分を置く(現実を遮断する)ことが、非常に重要となります。
例えば私は、「その時」次のように告白します。「主よ、私はあなたの深い静寂の中に、全てを委ねて身を横たえます。私の内側から生じる肉の声を聞きません。あなたの御声だけが、またあなたの近付く足音のみが、私の霊の耳が捉えることが出来るようにして下さい!」と祈りながら。その結果、あるサウンドだけが聞こえてきます。主なる神の力強くも優しい御声、「私主は、いつもあなたを愛している。」の一言です。
ある者は、自分の「霊」の奥深い所から響く、静寂のサウンドが聞こえます。「私に全てを委ねて(有りのままを)捧げなさい!」と。またある者は「その時」、暖かいベールに覆われるように、何とも言えない「平安(聖なる佇まい)」に浸される故に、思わず両手を挙げて、降参する(肉の力を放棄する)経験をします。このように、主なる神が一人一人に臨まれる時、それはワンパターンではなく、各々に相応しいサウンドをもって近付き、必ず奥深い領域にまで臨んで下さるなど、驚くべき(恵みに満ち溢れた)働きを為されます。
神の「永遠性」に生きる
今回の御言葉に示される第一の重要ポイントは、「人の時」が時間の長尺が計測できる、三次元的単位であるのに対して、「神の時」というものは、「からし種」の如くに、ほんの「僅か(一時)」の単位である故、測る必要もない、神の「永遠」に属するのものです。この「僅か」(7節)とは、別の言葉で「一瞬(またたく間)」であり、「一時」(8節)とは、詳訳で「一秒程度の時」のことです。人は「時」の長さを、三次元的に測り知ろうとするからこそ、この「神の時」のプロセスを、謙虚に待つことが中々出来ません。
しかし覚えて下さい!「神の時」の法則は、神が事を始められた以上、今「現実」として、何ら変化が無かったとしても、それは次に来る(必ずその通りになる)為の、ほんの「からし種」の期間に過ぎない!ということです。それ故に、私たちは神の「永遠性」の中に、自分自身の全てを置くこと、即ち「神の時」に委ね尽くしながら、信仰の大声をもって叫ぶのです。「主よ、今は・・・・であっても、あなたは必ず、私を贖い出して下さり、永遠の愛を与えて下る、唯一の主であることを、とこしえに感謝します!」と。
主なる神にとって重要なことは、「人の時」の長さよりも、ご自身の聖なる属性、即ちご自身の「永遠性」を確立することにあります。然り!永遠にあなたを見守り続け、力強い御腕をもって永遠に放さず、永遠に天上の糧をもって「祝福」を与えること、これが神の聖なる働きだからです。
真実の「叫び」は必ず「救い」に至る
今回の御言葉に示される第二の重要ポイントは、真実の叫び(信仰のサウンド)に対して、イエス・キリストは必ず、真実の御声をもって応答して下さる!という点です。「一行はエリコの町に着いた。イエスが・・・・エリコを出て行こうとされた時・・・・バルテマイという盲人の物乞いが・・・・叫んで、『ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい』と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます・・・・叫び続けた。イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた。人々(弟子たち)は盲人を呼んだ言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ』・・・・盲人は、『・・・・目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり・・・・イエスに従った。」(マルコ福音書10章46~52節)
彼にとって一番、取得したかった「情報」は、人の語るサウンド(噂話や時事話)ではなく、本物の「生きた(真実の)証し」、つまり「神の言葉」を語るメシヤの到来でした。然り!彼の「霊」の中にある飢え渇きは、唯一の救い主イエス・キリストが、自分の元にも訪れて下さり、永遠の御力をもって「必ず癒して下さる!」こと、この一点でした。
それ故に彼は、ひたすら救い主を待ち続けて、いつも通り大声で呼ばわったのです。「主イエス・キリストよ、私のもとに来て下さい!」と。するとある時、エリコの町にイエス・キリストが、わざわざ来防されるという噂を聞きつけ、ここぞ!とばかりに、信仰の「戦い」に出陣したのです。サタンは即座に、彼の潔い信仰行動に反応し、彼の魂に否定的なサウンドを発しました。「イエス・キリストは、お前のような乞食の元には、見向きもしないし、来ることなんて有り得ないね!」と。
しかし彼は、自分の「戦い」の戦場が、いよいよ間近に迫っている!ことを確信して、「本物の救い主だったら、必ず私の叫び声を聞いて下さる!」と確信し、「戦い」の角笛(自分の喉)を上げて、今まで出しことの無い大声をもって、信仰のサウンド(雄叫び)を発したのです。「ダビデの子孫たる、主イエス・キリストよ、私をあなたの憐れみをもって、今すぐに癒して下さい!」と。
するとイエス・キリストは、前もって弟子を通じて、彼にある言葉を伝えました。「あなたの叫び声は、私の耳に届いたから、私が呼ぶまで待っていなさい!」と。そこで弟子は、急いで彼のもとに帰って、次のような不思議な言葉を伝えました。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」(49節)と。このイエス・キリストの言葉にある「お呼びだ。」とは、物事の流れの「(進行)状態」を表していて、原語としては、「彼(イエス・キリスト)は今も尚、あなたを呼び続けている!」となります。
「今も呼び続けている」こと、これ自体が神の永遠性を現わし、神の働きには「終わり(終止符)」が無い!ことを意味しています。然り!イエス・キリストにとって、彼を盲目の病いから癒すことが目的ではなく、①彼を呼び続けて、②ご自分の「愛する者」として、③神との永遠の関係(交わり)に回復すること、これがイエス・キリストの「救い」の目的です。その証拠に、彼は癒された瞬間から、イエス・キリストに付き従ったのです。イエス・キリストの弟子となることが、彼の永遠に渡る「生きる目標」になったからです。
神との「永遠の関係」には、三次元的な「不安」や「恐れ」を、完全に締め出す程の御力が、信じる者に必ず注がれます。然り!永遠にあなたの名を呼んで、永遠に関り続けて下さる方、贖いを保証して下さる方、それが唯一の「救い主」、真の羊飼いイエス・キリストです。真の羊飼いは、真実の御声をもって羊を守り導き、真実の平安を与えるべく、緑の牧草地へと誘って下さり、「命の水」のほとりに導いて下さいます。
盲人バルテマイが、激しく叫び続けた唯一の理由は、「メシヤは必ず、自分のもとを訪れて下さり、自分の叫びに対して、永遠の愛をもって応答して下さる!」ことを、単純に信じ続けたからです。「とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむ」真の羊飼い、主イエス・キリストは、あなた(私)に対して必ず、ご自身の「慈しみ」と、永遠に続く「深い愛」をもって、とこしえに守り導いて下さいます。
たとえあなたが、「主よ、いつまでですか?」などと悲嘆に暮れる、そんな悪しき状況下にあったとしても、主なる神は必ずあなたに対して、次のステージ(高き聖なるポジション)を用意して下さり、神の永遠の愛の中に立ち返って行く霊の次元へと、聖霊様を通して導いて下さいます。
どうぞあなたの唇が、バルテマイの如くに「大きい声(叫び)」をもって、「イエス・キリストよ、来て下さい!」と呼ばわる時に、主イエス・キリストが確実に訪れて下さり、真実の御声をもって応答して下さいますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2025年3月16日のメッセ-ジ)
☆バルナバ・ブログ福音薬局
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