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命と心の健やかなる成長のために!
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言葉の革命(No.4)

                     第3章 三つの方向性



 言葉には、必ず使用する意味付け、即ち目的があります。そして、その言葉の用い方如何によって、方向性が定まってくることを知らなければなりません。


 例えばその目的を、良き目的の為に使用するならば、必ず正しい方向へと動き出します。肯定的な言葉を生み出す環境においては、必ず肯定的な言葉を語る指導者(親、教師、上司など)によって、肯定的イメージをもって仕事(勉学)に励む人々が存在し、そのような環境においては、必ず肯定的な方向に全体が一致して動き始めます。


 ですから言葉を使用する際には、必ず何らかの目的が伴います。そして、使用する者が用いる意味付けを肯定的に把握し、良い目的の為に使用するのであれば、必ず良い方向へと動き出します。しかし、悪い目的をもって使用するのであれば、必ず悪しき実(結果)をもたらし、ある時には中途半端な、何の目的も無いままで使用した言葉が、次第に全ての物事を虚無(無力感)に終わらせることも、私たちは様々な経験から知っています。中途半端な状態とは、良き方向に動くのでもなく、悪い方向へも進まないこと、つまり動きそのものが無くなるという状態を現します。その結果、最終的には無力感へと至らせ、何かを産み出すということは決してありません。返ってマイナスの方向へと傾いていく危険性があります。


 例えば、今日の日本社会全体を覆っている、不景気(マイナス)観の状態に、正しい情報ではなく、風評やデマなどの偽りの情報を、ある人が意図的に使用するならば、その偽情報も次々と伝達されていく中で、いつの間にか真実味を帯び、最終的にある種の破綻(例えば金融破綻)をもたらす実例がありました。


イエスは答えて言われた。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水を下さい。」・・・・・・・・イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなた方が、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなた方は知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。何故なら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせて下さいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話しているこのわたしである。」
                                                                                             【ヨハネ福音書4章13〜26節】
新しい水への渇き
  私たちが聖書の御言葉を読む際には、その文章の中で語りかけられる神からの言葉や、イエス・キリストが福音書で語られてきた様々なセリフを、私たちが普段何気なく使用している、単なる会話レベルの言葉として把握するのではなく、一つ一つの御言葉が天上から発せられている、大いなる「目的(神のご計画)」をもった言葉として受け留める必要があります。


 スカルの女性に語られたイエス・キリストの御言葉も、彼女にとっては当時のサマリヤ地方で使用されていた言葉の一つでしたが、イエス・キリストが語られる言葉の一つ一つが、実は天上から来る神の新鮮な言葉だったのです。


 それに対し、彼女が普段使用している言葉というものは、彼女の生活全般に渡って、彼女と共に生きる言葉でした。しかし彼女に対する、地元住民からの差別的扱いが、とりわけ言葉によるものであったことを考えるならば、いつ枯れ果ててしまうか分らない「古い水」を飲みながら、生き続けなければならない状態の中で、サマリヤ人としての礼拝に甘んじながらも、彼女は本当の真理の言葉、即ち「新しい水」に、常に飢え渇いていたのではないでしょうか!


 「古い水」とは、当時のサマリヤ人たちの生活習慣や礼拝形式などの伝統、そして使用していた方言を意味します。彼女は「古い水」を飲みながらも、「いや違う!こんな生活では満足できない!こんな礼拝では駄目だ!私は、新しい真理の言葉が欲しい!本当の命の水が飲みたい!」などと、常に飢え渇いていました。


 彼女は地元住民、特に女性たちからの差別的扱いと蔑視を受けながら、又悪評が絶え間なく流れるという、言わば「腐り切った古井戸」の状態に耐えながら、「古い水」ではなく新しい真理の言葉を、悪評やデマなどの間接的に聞くようなものではなく、直接自分の耳で聞くことのできる、「その時」を待ち望んでいました。彼女は「古い水」に飽き飽きして、もう我慢できないほど「新しい水」に飢え渇いていたのです。


 求め渇く彼女の元を、神の大いなる「目的」を携えて、わざわざ訪問されたイエス・キリストは、「永遠の命」に至る新しい「命の水」を、彼女の枯れかかった「霊の井戸」の中に、天上からの言葉をもって注ぎ込むことになります。彼女は、いつ枯れ果ててしまうか分らない古びた井戸から、「古い水」を汲み上げる度に、いつでも好きな時間に自由に汲み上げることができ、しかも決して枯れることの無い、本当の「命の水」が欲しい!と強く願っていました。そしてその求めが、飽くことの無い飢え渇きになりました。


 ですからヨハネ福音書4章14節で語られている、イエス・キリストの重要な御言葉を、私たちもスカルの女性同様に激しく飢え渇き、私たちの「霊」の只中に注ぎ込まれるよう、常に祈り求めて下さい!決して単なる用語として記憶(把握)するのではなく、今この瞬間にも聖霊様が、天上の窓を豊かに開いて下さり、私たちの「霊」の只中にもスカルの女性が求めたものと同じ、永遠の「命の水」が「新しい言葉」となって流れ出るようになる、このことを信仰で受け留めて下さい!


 このように聖書の御言葉一つ一つを、単なる「言葉(用語)」としてではなく、新しい「真理の言葉」として受け留める時、私たちの「霊」の只中から新しい「命の水」が、尽きることなく溢れ流れ出るようになる!これがイエス・キリストの言われた、御言葉に伴う約束の成就です。


第一の方向性(目的)
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
 イエス・キリストが与える「新しい水」を飲む者は、決して渇くことがない!このことを先ず覚えて下さい。「新しい水」とは何でしょうか?この「水」を「新しい言葉」として把握するならば、イエス・キリストが約束として与える、上からの賜物「新しい言葉」を受け取る者は全て、決して渇くことが無い、つまり常に充たされた、満足の状態に導かれることを意味します。つまり「新しい水」とは、新しい「神との交わり」を約束する言葉である・・・・これが「新しい言葉」の持つ第一の方向性です。


 アダムとエバに本来与えられていた「言葉」は、いつでも自由に神と親しく交わることができる言語であり、相互に意思疎通ができる、言わばツー・カーの関係を保障する「天上(神)の言葉」であったのではないでしょうか!つまり彼らの語っていた言葉は、父なる神が語っていた言葉と同じもので、その言葉をもって彼らは神と対話していました。しかし彼らは罪を犯し、「エデンの園」だけでなく、「天上の言葉」をも失うことになります。園を追放された時から、以前のように神と自由に交わることができない、つまり「人」と「人」の間しか通じない、「古い言葉(人の言葉)」がスタートすることになります。


 しかしその「古い言葉」ではなく、彼らに本来与えられていた「命の言葉」が、聖霊様を通して信じる全ての者に、「新しい言葉」として賦与されていく時、「エデンの園」において為されていた、神との「親密な交わり(関係)」が回復し、神の国から流れ出る「命の水」は、決して尽きること無く「新しい水」として流れ、その人の全てを満たし続けること、これが第一の目的です。トミー・テニーは、次のように述べています。「神の最終的な目的はいつも、神の最高の創造物である人間と再び結ばれて親密な交わりを持つこと」(注1)である。


 この方向性は、最終的には御国の再建(再興)につながります。つまり「主の祈り」にある如く、この地上においても神の国の「力」と「栄光」が現されていく、その鍵となるものが「新しい言葉」です。


第二の方向性(目的)
わたしが与える水はその人の内で泉となり
 「泉」とは、川の源を指し示す言葉です。例えば富士山麓には、万年雪によって常に尽きることの無い、こんこんと湧き出る有名な「湧水」、即ち「泉」が多く存在します。イエス・キリストが言われた「泉」のイメージとは、私たちが「古い言葉」によって描くイメージと異なります。私たちが描く「泉」のイメージは、恐らく鹿や小動物が近づいて飲める程度のもの、つまりこの「泉」は、山奥の谷間から流れ出て、岩清水となって溜まった小さな池程度の「泉」の概念だと思います。その「泉」は、たとえきれいな水であっても底が見えるもの、つまり30〜100㎝程度の深さの「泉」に過ぎません。


 ですから、私たちの「古い言葉」から思い浮かべる「泉」のイメージは、「底が見える程きれいな湧き水」程度のものであるのに対し、イエス・キリストが示される「新しい泉」は、スカルの女性が通っていた、「ヤコブの井戸」程度の概念でもありません。では、どれ位の規模の「泉」のイメージでしょうか?それは直接現地に赴き、その瀑音を聞くことのできる距離にあり、盛んに降り注ぐ水しぶき、溢れ流れ出る大量の滝水を、ほぼ真下から見た者にしか分らないイメージ、つまり「ナイアガラの瀑布(大滝)」に似通っています。あれは「泉」ではなく、「滝」ではないか!と思われる方もいらっしゃることでしょうが、「ナイアガラの滝」が逆流したイメージ、つまり「下」から「上」へと吹き上がる巨大な「泉」が、毎秒数千万トンもの水量(注2)となって、次から次へと溢れ流れ出る、まるで尽きることの無い底なしの「泉」のイメージ、これがイエス・キリストが彼女に語られた「新しい泉」です。


 即ち、イエス・キリストが示された、私たちの内側から流れ出す「命の泉」とは、底が見える程度の深さしかなく、湧き水がチョロチョロ流れ出る程度の「小さな泉」ではなく、「ナイアガラの滝」以上の莫大な水量が巨大な噴水となって、吹き上がり溢れ流れ出る「新しい泉」です。この「命の泉」が、私たちの「霊」の只中から必ず溢れ流れ出るようになる!と、聖霊様は約束して下さっています。「え?!そんな素晴らしい事が、この私の中に起こり得るのですか?」などと思われる方は、使徒行伝を再度注意深く調べて下さい!あの裏切り者や逃亡者たちの群れ、彼らはいつも軟弱で弱腰、引っ込み思案の弟子たちでしたが、「聖霊革命」以後の彼らは、師イエス・キリスト以上に力ある「御国の働き人」として、至る所において神の御業を、聖霊の導きによって推し進めていることが、はっきりと記述されています。


 この「泉」の持つ特徴から、「新しい言葉」の持つ第二の方向性は、神の奥深い御心(聖域)を知る、変革(革命)の武具(賜物)になることです。「異言の賜物」の方向性に関し、ボブ・ゴードンは次のように導いています。「異言の賜物は、他の賜物を開く手段ともなりえます。例えば、私たちが霊の内で異言で祈るのであれば、神の御心が捉えやすくなり、神の御心に従って働き、正しい方向性を得ていくことができるからです。」(注3)


 神の奥深い「御心」を知ることが無ければ、本来私たちは何もできません。私たちが血肉の努力によって何かを為す、即ち自分の手に「賜物」を掴むならば、必ずそれは人間的な面で成功することはあっても、決して霊的な面で成功することは無く、殆どが失敗に帰します。しかし、神の奥深い「御心」を知った者にとって、天から与えられる霊的な「洞察」や、「知恵の言葉」をもって始めていく時、聖霊様が必ずその人に対して、天上の実を結んで下さいます。その結果、神から戴く「新しい言葉」が、社会を揺り動かし、本当に人々を造り変えることのできる、「変革の武具」となっていくのです。


 ラリィ・クリスティンソンが、「異言を語るとき、神への礼拝は新しい次元へと開かれていく。・・・・異言を語る者は、たとい知性では言っていることを理解しないとしても、神との親密な交わりを持っているということを、鋭く認識するのである。」(注4)と述べているように、「異言」を語っている時は、何を語っているのか殆ど分りませんが、その語られる「異言」が説き明かされ、ある時には「預言」や「知恵の言葉」となって、聞く者の人生を神の方向へと造り変えた「証言」は沢山あります。それ程、この「新しい言葉」の持つ変革の力というものは、神の奥深い「御心」を知ることが無ければ、絶対成就し得ないことを覚えて下さい。神の「御心」というものは、「ナイアガラの滝」以上に奥深い底なしの領域、つまり尽きることの無い永遠の「命の泉」です。ですから、神の「御心」を知れば知るほど、私たちはその奥深さを体験し、更に求めていくのです。又その霊的飢え渇きも、知った者にとって決して尽きることがありません。


第三の方向性(目的)
わたしが与える水は・・・・永遠の命に至る水が湧き出る。
 「泉」というものは、湧き水が出なくなり水が枯れてしまったら、もはや「泉」ではなくなります。それは只の「穴」です。同様に枯れてしまった井戸は、もはや井戸とは言わず、誰からも使用されない、只の「空洞」に過ぎません。ですからこの御言葉は、神の奥深い「御心」を知った者が、約束として与えられる第三の方向性につながります。それは、聖霊を通して与えられる「新しい水」を飲む者、即ち「新しい言葉」をもって、神との「親しい交わり」に入る者は、必ず「永遠の命」に至ることです。


 「永遠の命」とは何でしょうか?神の属性、即ち神ご自身が持っておられる「ご性質(品性)」の中に見られる共通のもの、それが「永遠性」です。神の「愛」、「平安」、「救い」、「贖い」、「喜び」など、様々な「ご性質(品性)」に「永遠性」が支配しています。とりわけ、私たちの「霊」が求める神との「親しい交わり」が、例えば「有限性」のものであるなら、決して「希望」は生まれません。その交わりが「永遠」に続くものである!と確信する時に、私たちの「霊」はその「永遠性」、つまり「永遠の交わり」を求めて止まなくなります。


 仮に「ナイアガラの滝」が、いずれ何十年か先に水源が砂漠化し、この滝の大きな流れが途絶えてしまうと分っていたら・・・・人々はこの「川」の周囲に住まなくなることでしょう。又、日本の近畿地区においても、巨大な水源である「琵琶湖」が、数年後に枯渇したとしたら・・・・この地域に住む人々はパニックに陥り、他の地区に移住せざるを得なくなるでしょう。しかし、この水が永遠に続くものだと分っていたら、人々は何の不安もなく、水域の周辺において生活し続けることが可能になります。ですから、「水」の在る所に「命」が湧き出て、「新しい命」が次々と誕生します。「水」在る所に、必ず「生命」が繁栄してくる!これが、自然界の「水の法則」です。「川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」(エゼキエル47・9)この御言葉の如くに、神の川が流れ満ち溢れる所に全ての「霊」が生きること、これが神による永遠の「命の水」の法則です。これは、「生きた霊」だけでなく「死んだ霊」に対しても、イエス・キリストの「復活の力」が約束された言葉です。


 私たち人間は生物学的に見るならば、その組成分の約七〜八割が、「水」によって構成されています。赤ちゃんが出産するまでに、母親の胎の中で生き長らえることができるのも、「羊水」という「命の水」に覆われているからです。赤ちゃんは遂に時満ちて、「破水」して母親の子宮から外界に押し流された後、新しい命の「産声」を上げます。そして、次に求め始める飢え渇きの対象は、「母乳」という新しい「命の水」です。このように人間は、母の胎に命を宿した時から「命の水」に覆われ、胎を出た後も「命の水」を求めるように創造されています。


 自然界にも「水の法則」に従って、生物が「水」を求めて生きるように、私たち人間は神の「永遠性」を求めるように創造されています。この神の「永遠性」という法則に生き始める時、人は本来の創造された時点、即ちアダムとエバが罪を犯す前に、「エデンの園」において賦与されていた、神との「親しい交わり」の時が、完全に回復されていくのです。


 「新しい言葉」の持つ第三の方向性とは、新しい創造を促す「変革の扉」になることです。「扉」は、開ける為に用意されるものです。「扉」が閉じた状態だと、いつまで経っても「扉」の向こう側にある世界は見えず、只の壁の一部です。「扉」を開けた時、果して何が見えてくるのでしょうか?それは、真っ先に飛び込んで見えてくるもの、「希望の空」が見えます。即ち「天上のもの」が見えてくるのです。天国の「扉」は信じる者全てにとって、いつでも開かれるようになっています。「新しい言葉」をもって、天国の窓の「扉」は開かれるのです。その時私たちは、「古い人」から「新しい人」へと造り変えられます。「古い」限りある命ではなく、新しい「永遠の命」に生きるキリスト者として、古い状態を支配しているこの世にあって、圧倒的な大勝利をもたらし、「新しい創造」をもたらすことができる、これが「新しい言葉」の持つ第三の方向性です。


 「新しい言葉」なくして、天国の「扉」を開くことはできません。「永遠の命」に至ることは、「唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17・3)と記述されてあるように、スカルの女性がその後飲み続けた永遠の「命の水」、即ち真の花婿イエス・キリストを、果てしなき飢え渇きをもって、求める(知る)ことに他なりません。


更なる飢え渇き
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人の所に行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなた方が聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」
                                                                                                        【ヨハネ14章23〜24節】


 イエス・キリストが言われる「わたしの言葉」とは、「神の掟」や「律法」を指しますが、今も尚天上から語られる、父なる神の「霊の言葉」として把握するならば、イエス・キリストが私たちに必ず与えると約束された、「新しい言葉」を信じて待ち望み、聖霊を通して「霊」が語らされるままに、「異言」を語り出す約束の実を得た者にとって、それは父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊が常に共にいて下さるという、言わば「永久契約保証書」に当たります。この「新しい言葉」は、神から戴く「約束の賜物」であり、この約束を信じ守り行う者には、「新しい言葉」の持つ、


・新しい神との交わりを約束すること、
・神の奥深い御心(聖域)を知る、変革(革命)の武具(賜物)になる、
・新しいい創造を促す「変革の扉」になる、


という三つの方向性(目的)をもって、イエス・キリストにある素晴らしい人生が、永遠に保障されます。しかし「聖霊の賜物は使徒行伝時代に終わったものであるから、今の時代は必要ない!」などの神学に立ったり、「異言は毎回、聖霊の力を受ける時にのみ必要な言葉であって、それ以上のものではないし、今以上は必要ない!」などのレベルに立つのであれば、まさしく霊的にそれ以上の進歩はあり得ません。ある面で、それは中途半端な解釈(聖書理解)ですから、必ず霊的無力感(何の渇きも無い状態)に陥ります。そのような人々は、天上からもたらされる、本当の力あるキリスト者には成り得ません。ラリィ・クリスティンソンが指摘する次の言葉に、私たちは謙虚に耳を傾けようではありませんか!「この賜物、異言を用いないために私たちが受け損じている更に大きな祝福と力が、他にもあるのではないだろうか。」(注5)


 「新しい言葉」の持つ、奥深い次元にある「神の力」は無限のもの、つまり「永遠性」のものです。ですから、私たちは「飢え渇き」を止めてはなりません。絶えず霊的に飢え渇き、早朝起床した時から「新しい言葉」をもって祈り、夜就寝する時に至るまで神との「親しい交わり」が、「命の水」となって溢れ流れ出るよう更に求め続けて下さい!



注1、トミー・テニー著『神を追い求める』(生ける水の川)108項から引用
注2、実際の水量としては、カナダ滝から毎分1億5千5百万㍑、アメリカ滝から毎分1千4百万㍑が流れ落ちている。
注3、ボブ・ゴードン著『聖霊』(マルコーシュ・パブリケーション)66項から引用
注4、ラリィ・クリスティンソン著『異言』(生ける水の川)128項から引用
注5、ラリィ・クリスティンソン著『異言』(生ける水の川)90項から引用


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言葉の革命(No.3)

                 第2章 霊的ゼロへの変革




・・・・また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなた方はこれらのことの証人となる。私は、父が約束されたものをあなた方に送る、高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
                                                                             【ルカ福音書24章47〜49節】


イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていた時、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父が約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなた方は間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直して下さるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなた方の知るところではない。あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。・・・・・・・・使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。・・・・彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリヤ、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。その頃、ペテロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。
                                                                       【使徒行伝1章3〜14節】




 イエス・キリストは昇天される直前に、「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」と、集まって来た弟子たちに命じられました。その時の弟子たちの総数は、約五百人ほどと言われています。しかし最終的に、イエス・キリストが命じられた通りに、最後まで残り続けたのは僅か百二十人程度であり、「数」が短期間で著しく減少していることが分ります。


 私たちが言語学的に考慮していく上で、実は「数」や「量」なども、一つの言語であることを知って下さい。即ち「数・量」という単位の言語は、実際目に見えてくるものであり、常に私たちの思考概念を、支配しているものであることを知らなければなりません。聖霊様は、この「数・量」という言語の論理に対しても、大いなる「言葉の革命」をもたらそうと計画しています。この章では、百二十人にまで減少した弟子たちが、革命の日となった聖霊降臨の時以前に、この「数・量」という言葉に関して、どのような思考概念に支配されていたのか?又、それがどのように変革されていったのか?この二点を中心に検証して参ります。


「数・量」概念の支配
 ところで、今日の日本社会全体を覆っている「否定的」、「悲観的」ムードは、「数・量」の概念から生じているものが、殆どではないでしょうか?実は私たちキリスト者も、必死に祈り求めている「救霊(伝動活動)」という分野において、この「数・量」という「言葉」の流れに、いつしか組み込まれていることを気付くべきです!特にカリスマ派などの、「第三の波」勢力の教会は、今から約三十数年前に、韓国のチョー・ヨンギ師によって提唱された『一千万人救霊運動』によって、具体的な「一千万人」という「数字」が、霊的課題として与えられました。


 しかし三十数年経た今日、数字として具体的に何が変わったのでしょうか?毎年発表される、クリスチャン人口・教会数の統計を見て分ることは、教会数は年々増加しながらも、一教会当たりの礼拝出席信徒数としては、むしろ減少しています。毎年海外から、有名な講師陣(リバイバルの器)を招いて大聖会を開催するものの、果してどれ程の「数」的効果をもたらしているのでしょうか?その中で、未だに多くの人が「数・量」的祈りをすることで、「数」の論理に縛られて、自分の置かれた霊的現状を正しく把握しないまま、もがき苦しんでいるのではないでしょうか!


 実は、イエス・キリストが処刑される前の弟子たちは、右記したような状況に置かれた私たちと、さほど変わりありませんでした。彼らはイエス・キリストの弟子として、歩み始めて行くにしたがって、イエス・キリストが為される、数々の奇跡を目の当たりにするようになり、そしてイエス・キリストが、バプテスマのヨハネ以上に、「偉大な預言者」という噂が至る所に広まり、ついにはヨハネの弟子たちまでが、イエス・キリストの弟子として合流するようになります。古参の弟子たちは、聖書の預言が成就することの素晴らしさよりも、集まって来る人々の「数」の増加に、次第に関心が移るようになっていくのです。


 この時の場面は、次のような時代劇シーンを思い浮かべて下さると分り易いでしょう。最初は、イエス・キリスト(お頭)を先頭にして歩み始めた、たった「十二人(イエスを中心にして左右六人ずつ)」の浪人(ならず者)の弱小集団、しかし次第に弟子入りする者が増加する中で、人々の「数」が横に広く拡大していき、ついには巨大集団へと膨らんでいく・・・・。イエス・キリストが行かれる、至る所で噂が噂を呼び、その大群衆の「数」を見た当時の人々ばかりでなく、直属の十二弟子までが「革命」の時を期待し始めます。魂の救いを純粋に求める者はごく僅かで、殆どの者がイエス・キリストに対して、イスラエル王国の再建、即ちローマ帝国からの独立という、「革命」を期待しました。


 そして、イエス・キリストがエルサレムに入城される時には、エルサレム市民がこぞって、栄光の革命の時をもたらすであろう、「新指導者」を出迎えたのです。彼らは、
「ホサナ!ホサナ!ついに王が来られた!」
と叫びながら、イエス・キリストと共に、エルサレム中心部へと突入していきます。十二弟子の中でとりわけ、かつて熱心党員だった者たちも、
「よし!ついに私たちの先生が、革命の号令を発せられる時が来たぞ!」
と決起寸前の事態に突入していくのです。特に、イエス・キリストがエルサレム神殿の境内で、商売人たちを追い出した際、今までにない怒りを表された時には、
「よし!先生はついに怒られたぞ。いよいよ火を点ける時だ。」
と悟り、たいまつを手に持った者、或いは武器を用意し、
「待ちに待った革命の嵐が、ついにこのエルサレムから吹き始めたぞ!我らは突進あるのみ!」
という、言わば軍隊的イメージ(士気)をもって、昂揚した者もいたはずです。


 ところが、彼らの期待通りに事態は進展せず、イエス・キリストは逮捕され連行されました。そして逮捕と同時に、「死刑」判決を受けたとたん、イエス・キリストに付いてきた新参者(にわか弟子)だけでなく直属の十一弟子たちも、蜘蛛の子を散らすように逃げ去りました。彼らの期待した「革命の時」は何一つ起こらず、ただ「裏切りの時」が用意されただけでした。


 イエス・キリストが逮捕されるまでに、弟子たちの思考概念を支配していたのは「数・量」でした。イエス・キリストに連なる群衆が、次第に増加していくその「数」は、「百」単位から「千」単位に移行していく中で、ある面で「イエス・キリスト教集団」という、新興宗教勢力に膨れ上がって、「必ずこれは、革命の原動力となる!」という確信に、弟子たちは至ります。歴史的に見て、どの民族においても「革命」が勃発する時、その原動力となる単位は、革命を起こす人々の「数」の規模の大きさです。弟子たちは、イエス・キリストのもとに集まって来る、人々の「数」が増加すればする程、「革命」に対する期待度が増しました。しかし、イエス・キリストの「死」によって、彼らの「数」の論理が、もろくも破壊されてしまったのです。


「御国」の概念
 復活後、イエス・キリストが「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」と語られた時、弟子たちの霊的フィールドは、未だ完全に回復していませんでした。使徒行伝一章を見ますと、イエス・キリストは弟子たちに、もう一度念を押すかのように、「神の国」について教えられる場面が出てきます。


 イエス・キリストは、
「私は去っていくが、神の国はあなた方の中に必ずもたらされる、即ち信じるあなた方の霊の只中から始まるのだ!」
と強く、具体的に教え諭すにも関わらず、弟子たちの殆どが、イエス・キリストのメッセージの真の意味を悟るのではなく、
「それは、いつ起こるのですか?」
「どのような形式で起こるのですか?」
「その時、先生はどこにおられるのですか?」
などと、愚かな質問を繰り返すばかりでした。神に対するこの種の質問は、私たちの祈りの中にも見られるのではないでしょうか?
「私は、確かに約束の聖霊のバプテスマを受けました。それなのに、いつ私の家族の中に、奇跡(救い)が起こるのでしょうか?」
「約束の預言は戴きましたが、どのような形で、それは現されて行くのでしょうか?」
などと。それが具体的にトマスのように、自分の肉眼で直接見て、確認できるまで問い質すのであればまだ良い方ですが、むしろ疑い(不信仰)から来る質問をする場合の方が、多いのではないでしょうか。これが、私たちの弱さでもあります。


 しかし、イエス・キリストはそれらの質問に対して、こまごまと方法論を述べるのではなく、ただ「必ず来る!約束として力を着せられる!だから祈りなさい!」の三点を命じられました。その後、イエス・キリストは昇天されていく訳ですが、この時実際にイエス・キリストが、昇天されるのを肉眼で見た弟子たちの総数は、「五百人」位だったと言われています。イエス・キリストが処刑された時点で、散り散りになった「逃亡者」の弟子たちが、何と「五百人」規模まで、再び集まって来たこと自体、人間的に見て素晴らしいことであったと思われます。「五百人の群れ」、素晴らしい言葉の響きです(皮肉ですが・・・・)。今日の日本のキリスト教の教勢からしても、「五百人の群れ」を容している教会は、ほんの僅かではないでしょうか!


 昇天後、弟子たちは先生が命じられた通りに、隠れ家にこもって祈り続けていくことになります。しかし日が経つに連れて、「約束の言葉」に疑いを持ち出した者、隠れ家にこもることに疲れ果て、忍耐できない者が続出し、祈りの集団から離れていきます。集団心理効果により、一人離れ二人離れ出すと、
「じゃー、私もおいとまさせて戴きます。」
などと、離脱者の「数」は増えていくばかりです。最初は「五百人」だった勢いも、「四百五十人」から「四百人」そして「三百人」、ついには「二百人」を切った頃になると、リーダー格のペテロも、次のように疑い出したのではないでしょうか?


 「先生の言われた通りに、ずっと祈り続けたら、必ず私たちのこの群れから、神の偉大な力によって、御国の再興(依然として革命のイメージのまま)を起こすことができるはずだ!・・・・それなのに、現実には離脱者が増えるばかりではないか!このままいったら、革命どころか元の木阿弥になるではないか!」最終的には、「百二十人」に減少します。余談になりますが、主に日本のペンテコステ派の教会において度々見られること、特にカリスマの恵みにあずかったが故に、教会内に信徒の分裂が起こり、教会員の大半が去っていくという現象が、まさに右記と同様の経過に当たるのではないでしょうか?


 「百二十人」にまで減少した時、彼らはもはや人間的「革命」を起こすことが不可能になり、天からの「革命の時」を迎えることになります。使徒行伝二章には、この天からの「革命の轟き」が鳴り始めるや否や、誰一人漏れることなく「百二十人」全員に、分け隔てることなく「聖霊の炎」が降ったと、正確に記述されています。この「聖霊の炎」は、誰かにだけ突出した、「リーダーの炎」として与えられるものではなく、全員が聖霊によって与えられる、等価分与された「新しい力」として着せられました。


 ですから、イエス・キリストが言われた「天的概念」、即ち天上から与えられる神の賜物は、例えば集まって来た「五千人」に対して給食を配分する時にも、誰か少数の特別な人々に対してのみ、奇跡の賜物を分与するといったものではなく、全ての人々に「同じ価値ある賜物として分与されるものである」ことが分ります。イエス・キリストが為される御業は、人間が考える「数・量」の発想から生まれるものではなく、信じる全ての者に天からの良き賜物が与えられる、「聖さ(神の御心)」から生まれ出るものであることを覚えて下さい。そしてこの「百二十人」全員が、「聖霊様」という新しい天の賜物によって、大きく変革されていくのです。


賢い乙女たちの備え
  イエス・キリストが、喩え話で用いられた「賢い乙女と愚かな乙女」、この二つの群れの違いは何でしょうか?即ち賢い乙女たちは、何に一番関心をもって、花婿が帰って来るのを待ち望んでいたのか?この点に注目して下さい。彼女たちは、花婿がいつ帰ってきても良い状態で、皆が「一致」して同じことを繰り返していました。何故なら、花婿が帰ってきた時に、共に交わり合うことのみ、これを何よりも大事な事として求めていましたから、普段と変わらぬ「日々の務め」ができていたことが分ります。彼女たちは、祈り続けるというへりくだった心をもって、花婿が帰って来るのを待つ、この一点だけを楽しみにすること、これが彼女たちの唯一の関心事項でした。


 それに対して愚かな乙女たちは、
「あれ?今回は大分、ご主人様が帰って来るのが遅いわね!もう半年も経つことだし・・・・今回は多分、長引きそうね!」
などと、語り合ったことでしょう。この種の思い(推測)は、「数・量」的憶測から導き出されたものです。ですから人間的な憶測で、油が尽きた時には「これ位の量さえあれば、何とかなるだろう。」と考えます。そして、いつまで経っても帰って来ない現状から、逆に「数・量」を自分たちの考え(憶測)に基づいて、帰って来る予定日までの日数から算出した、「準備量」を用意するだけでした。そうこうしている内に、彼女たちの群れから「不一致」が生じます。
「あなたはこの前、これ位の量で足りるから、と言った割には、未だ帰って来ないじゃない!あなたの計算では当てにならないわね!今度は私がやるわ!」
「それもそうね!みんなそれぞれ、自分で用意した方が良さそうね!」
などと口論する始末。賢い乙女たちが、
「皆さん!ご主人様が、いつ帰って来ても良いように、常に備えておきましょう!帰って来る日が楽しみですからね。油が、もうそろそろ無くなりそうね。じゃー、いっしょに買いに参りましょう!」
と励まし合いながら、「一致」して待ち続けるのに対し、愚かな乙女たちは、責任のなすりつけ合いにまで陥っていくのです。


霊的ゼロへの変革
  「百二十人」にまで減少した弟子たちの心境は、殆どの者が、
「もう駄目だ!これで何もかも終わった。何も起こらない!もはや、我らの力で立つことはできない!」
などと、絶望寸前の状態に追い詰められていたのではないでしょうか!
私たちが聖霊のバプテスマを受けた時にも、
「もう私の力では、何も為しえません!あなたにのみ、完全に依りすがるだけです!」
などと告白する所にまで、私たちの「霊」が砕かれたプロセスが必ずあります。そのように、彼ら「百二十人」の「霊」の状態は、数字で表すなら殆ど「ゼロ」に近い数字ではなかったかと思われます。あたかも、自動車(神のご計画)を自分の力量で運転し始めた彼らは、この時点で燃料が「(空に近い量)」、即ち燃料切れになり、ついに固く握っていたハンドルから、自分の手を離さざるを得ない状態にまで砕かれました。


 主イエス・キリストが言われた、約束の御言葉を信じ切った婦人たちが、率先して男性の弟子たちに、
「主が言われた言葉の中に、不可能や不誠実、又不信頼などの否定的概念がありましたか?あなた方の中に、未だ支配している否定的概念を捨てなさい!いと高き所から力を着せられるまで、ここに留まりましょう!離れて行った者の数に目を向けるのではなく、主が語られた約束の言葉を、残った私たちメンバーが一致して、信じて待ち望みましょう!」
などの励ましを、賢い乙女たちのように宣言したことでしょう。


 ・・・・そして、霊的に「ゼロ」になった「百二十人」の弟子たち全員に、「聖霊の炎」が降ったのです。使徒パウロは、「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」(ガラテヤ書2章20節)と述べていますが、彼の神学にもこの霊的「ゼロ」概念が基礎となっています。使徒パウロほど、霊的に「ゼロ」に変革された人物はいません。この「ゼロ」という値は、ある面で「無」の概念に似通っています。神の「数」に対する概念は、常に「永遠性」です。それに対し、私たちが抱く「数」概念は、全て人間的な三次元思考から生まれます。パウロは、自分が「ゼロ」の存在に過ぎないことを悟って初めて、イエス・キリストが自分にとって、何よりも変え難い「プラス」の存在であり、この方が遣わされた聖霊様によって、自分の「ゼロ(零)」に過ぎない「霊」が、イエスと共に生きるようになったという確信に至ります。


 今から約一世紀前、イギリス出身のある一人の女性が、ヒンズー教の支配するインド・スラム街に赴いて、自分の生涯を神に捧げ、スラム社会に生きる幼子を始めとする弱者に対して、キリストの愛をもって献身し仕えた人物がいました。彼女の名前は、エミー・カーマイケルと言い、彼女は当時のインド全体を支配していた、ヒンズー教によるカースト制度に、イエス・キリストの愛をもって対抗していく中で、自分がいかに無力な者であるかを、様々な迫害の中で体験し、霊的に「ゼロ」のレベルにまで砕かれていった時、次のような真理を発見しました。「時折襲ってくる無力感と恐れに耐えることができたのは、自分たちはゼロの行列であるが、頭にキリストがいて下されば、自分たちはどんなに大きな数になるであろうか・・・・」(注)


 イエス・キリストは、ある時弟子たちに、「私を信じる者は、私が行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」(ヨハネ福音書14章12節)と語られました。この約束の御言葉通り、私たちは信仰をもって聖霊のバプテスマを受けますが、その後必ず一人一人が、次のような「思い」へと傾きます。即ち、「聖霊のバプテスマを授けられた目的は、あくまで私に足らないもの(力量)を補うためです。自分は10%ありますから、聖霊様は不足分の90%の力をプラスして下さい!」などの思い。しかし、このような思考概念が支配している限り、私たちの「霊」は完全に砕かれることはありません。


 それ故に、このような頑なな「霊」に対して、聖霊様は働きかけることができません。聖霊様は私たち一人一人を、使徒パウロのように霊的「ゼロ」にまで砕くこと、これが主要な働きです。その働きにより、私たちは「ゼロ」というレベルにまで砕かれ、その時から初めて「助け主」聖霊様が、私たち「ゼロ」という存在を、永遠に無限なる「1」の方、イエス・キリストの足元に導いて下さるのです。その時に私たちは、今まで考えても見なかったような、天からの「新しい力」を着せられたことに気付きます。そして、「あなたはいつも、ゼロで良いのだ!何故なら、あなたがゼロの時私の力が、あなたのゼロに現れるからである。あなたの権勢、あなたの能力(力量)によらず、ただ天からの新しい力によって、それが百(100)にも千(1000)にも、また更に万(10000)の力になって、この国の民を新しく創り変るために、あなたを召し出したのだ!」などと、聖霊様が強く励まして下さる、私たちはその力強い御声に聞き従うようになるのです。


 「五旬節」の時に百二十人の弟子たちは、一斉に聖霊を通して、天から「新しい力」を着せられました。この素晴らしい「聖霊革命」の後、彼らはどのように創り変られていったのでしょうか?以前の彼らでしたら、自分こそはイエス・キリストの「一番」弟子だと競い合ったり、自分が「一番」実力ある者であるなどと、「数・量」の概念に支配され、決して霊的に「ゼロ」に砕かれていない、烏合の群れでしたが、「聖霊革命」の後には、誰一人「自分の力量」を主張する者はなく、むしろ天からもたらされたしるし、「新しい言葉」を語ることによって「ゼロ」の弟子、即ちイエス・キリストの「しもべ」として、神の国の宣教や愛の奉仕に、共に一致し助け合って前進して行ったことが、大きな変化(変革)として見受けられます。勿論この変化が、変わりなく聖い流れとして持続すれば良かったのでしょうが、彼らの子弟たちから派生した群れの中には、例えば「パウロ派」や「ケパ派」、そして「アポロ派」などのように、人間中心主義による党派が、再び登場してきたことも事実です。


 しかし百二十人の弟子たちは、一人一人が聖霊による「新しい変革」を受けたことで、イエス・キリストが為された宣教よりも、更にスケール・アップしたリバイバルを、派遣された至る所において展開していくことになります。彼らは自分の「力量」によって、何かを為した訳ではありません。ただ単純に、イエス・キリストが約束として言われた、「新しい言葉」を大胆に語り、御言葉に伴う約束の御業を、聖霊によって推し進めて行っただけです。彼らの言葉は、もはや「古い言葉」の概念で支配されていませんでした。イエス・キリストが彼らの先頭に立ち、内側からは聖霊が「ゼロ」になった彼らの「霊」を、常に支配するほどにまで変革されました。


 ですから、聖霊様からもたらされる「新しい言葉」は、私たち人間の三次元的「数・量」思考概念を根底から破壊し、天的レベルにまで私たちの思考概念を創り変ることができる!ということを覚えて下さい。そして、今後聖霊様が訓練しようとしている人々、即ち聖霊様が必要となさる働き人は、百二十人の弟子たちと同様に、限りなく「ゼロ」にまで霊的に砕かれた精鋭部隊として、花婿なるイエス・キリストを、賢い乙女のように霊と真をもって追い求め、「助け主」聖霊様の導きの中で、主なる神の「御顔」を慕い求める人々の群れのことです。彼らは使徒行伝時代の時以上に、「後の雨」が降り注がれる時、遂に「聖霊の大収穫」にあずかっていくのです。その大収穫を通して救われていく人々の「数」は、今に生きる私たちの「数・量」概念から、到底算出(計算)できないほどの、まるで数学の教科書に出てくる計算方式、二乗、三乗、四乗・・・・という倍加の恵みの中で、神の御国が再興されていくのです。


注、『ドノヴァーの碧い空』(いのちのことば社)38項から引用


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言葉の革命(No.2)


           第1章 古いものから新しいものへ




   私たちは聖霊様が与えて下さっている、新しい「霊の言葉」即ち「異言」について、もっと深い次元で探り極めていく必要があります。そして、神から与えられたこの「異言」を更に用いることで、神との「親しい交わり」がより深められ、又この地に神の国の栄光が、より鮮明に輝き出ますように。又、父なる神が用意しているキリストの花嫁(エクレシア)が、花婿なるイエス・キリストが来られた時に、本当にふさわしい新しい霊的エクレシアとして、「新しい皮袋」を用意し「新しい酒」にも満ち溢れますように。そして、私たちの唇から新しい「神の国の言葉」が、永遠の命に至る「生ける水」となって、絶え間なく溢れ流れ出ることができるよう、常に祈り求めて下さい。


 「新しい言葉」というテーマを考察する時に、私たちは言語学的に見て、「言葉」が不思議な魅力を伴って働き始めること、又「言葉」が時代毎に歴史を変え、社会を変革しながら支配してきたという事実を、何よりも知らなければなりません。言葉の持つ「力」は、先ず父なる神が天地創造を為さる過程において現されました。この時「無」から「有」を産み出した「力」の源が、実は「言葉(ロゴス)」にあったことに注目して下さい。言葉の中に神は「霊(息吹)」を吹き込まれ、「光の言葉」として「出よ!」と語られた時に、まさしく虚無(無秩序)の中に、生命(神の秩序)が誕生しました。神がたった一言「光よ、出よ!」と言葉を発せられた時から、神の歴史(His story→History)がスタートした訳です。


「初めにことばがあった。ことばは神であった。このことばは、初めに神と共にあった。」
                                                                                                     【ヨハネ福音書1章1節】


 この御言葉の持つ大いなる契約は、実は「後の雨」に伴う聖霊の大収穫に至った時にも、「新しい言葉」が伴っていなければならないことを訴えています。即ち、私たちが神と共に生きる時、「私たちが生まれる時にも死ぬ時にも、また生きている時にも、言葉が常に共にあった。そしてその言葉は私たちの中に宿り、その言葉の中に神が共におられた。」という証しがなされていくべきです。


 例えば私たち日本人には、「日本語」という伝統的な国語があり、この言語をもって人々に福音を宣べ伝えていく訳ですが、使徒行伝時代と同じリバイバルが起きることを、私たちが信じるのであれば、神は必ず「新しい言葉」を創造し、用意されることをも信じる必要があります。父なる神が「無」から「有」を創造し、ご自身が存在しておられることを証明されたように、神の国から「新しい言葉」が用意され与えられる時に、私たちは何を証明しなければならないのでしょうか?それは、父なる神と御子イエス・キリスト、そして聖霊様が私と共にいて下さること、そして私の生涯全般を支配し、私の歴史(一生)を神の祝福に満ちた、新しいものとして準備して下さることを証明していくことです。そうすれば「新しい言葉」が霊的な力に満ち溢れ、何よりも神との「親しい交わり」の言葉として、必ず「生きた言葉」になっていきます。


 ところで、今日の日本に生活しながら、私たちにひしひしと迫り来る、言葉のイメージが浮かび上がって来ます。それは「混沌」や「暗闇」などの言葉です。「混沌」とは、何が定まっていくのか分からない状況、安定ではなく不安と無秩序が入り混じった状態のことです。又、明るい兆し(光)も遠のき、段々と暗雲が立ち込めて、今にも夕闇から「暗闇」に差しかかるような社会不安が支配し、希望の光無き、まさに崩壊寸前の社会構造が、今の日本の現実の姿ではないでしょうか!


 社会全体が「暗闇」に包まれ、崩壊寸前の最中にある私たちは、小さな幼子から老若男女に至るまで、各世代が一生懸命に生きております。その中で、十数年程前に流行していた、若い世代が好きな「言葉」として使用した言葉があります。特に当時の20代前半の若者たち(学生も含む)が好んで使用した言葉で、「リボリューション(Revolution)」という英語です。直訳すると「革命」という意味ですが、彼らはこの言葉を、革命的イメージとして捉えるのではなく、「使命」という概念で把握しています。つまり彼らにとってこの言葉は、「変革(革命)」する使命を持つことで一種の連帯感を保ち、その使命に人生の意義を見出そうとしていたのかも知れません。


 
恐れに支配された霊
「その後、十一人が食事をしている時、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をお咎めになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を浮ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んで決して害を受けず、病人に手を置けば治る。』


                                                                                                        【マルコ16章14〜18節】


「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真中に立ち、『あなた方に平和があるように』と言われた。・・・・・・・・そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」


                                                                                                        【ヨハネ20章19〜22節】


 この二箇所の御言葉から先ず分かることは、十一人の弟子たちは、突然彼らの前に現れた方が、誰であるか分かりませんでしたが、全員復活されたイエス・キリストを、自分の肉眼で「見た」という事実です。復活されたイエス・キリストを見た弟子たちは、この時どのような霊的状態にあったのでしょうか?即ち、彼らの霊的フィールドを支配していたものは、何であったのかを知る必要があります。


 ヨハネは明確に記述しています。彼らは「ユダヤ人を恐れ」ていた、即ち彼らの霊的フィールドには、「恐れ」という暗闇と混沌が支配していたのです。もしかしたら十一人の弟子たち全員が、仲間から裏切り者(ユダ)が出た訳ですから、他のユダヤ人たちにだけでなく、仲間から再び裏切り者が出て、隠れ家(アジト)を暴露するかもしれないなど、疑心(恐れの一つ)があったものと推測できます。つまり、自分以外の誰をも仲間として信じることができない、「不信」に満ちていたのです。マルコはその時の状況を、「その不信仰とかたくなな心をお咎めになった。」と記述しています。


 彼らはイエス・キリストが現れて下さり、十字架上で処刑される以前の時と同様に、「平安があなた方と共にありますように」と、何度もお言葉をかけられたにも関わらず、全員「恐れ」一色の顔つきであり、又「この人は、いったい誰なのだろう?」という「不信」の目つきでした。ある者は「もしかしたら、密告者を通じてやって来たスパイではなかろうか?」、「私たちの隠れ家を知っているこやつは、いったい何者なんだ!」と思ったことでしょう。


 ですから、彼らの「不信仰」と「かたくなな心」に対して、イエス・キリストは咎められたのです。彼らは何故「不信仰」に陥ったのでしょうか?例えば私たちも、頼って(依存して)いたものが、大黒柱が崩れ落ちるが如くに無くなった時に、この「不信仰」に陥る可能性があります。彼らはいったい、イエス・キリストに対して何を拠り所として生き、又何を期待していたのでしょうか?彼らは同胞である「ユダヤ人」を恐れていたという事実から、何をイエス・キリストに対して期待していたか?それが見えて来ます。


 彼らはイエス・キリストに対して、「人間的」な期待を寄せていました。イエス・キリストが十字架上で死んだ時から、集団の中心的役割を担っていた大黒柱を失ったことで、仲間意識(フェロシップ)がもろくも崩れました。そして、イエス・キリストと過ごした約三年の共同生活の中で語られた、イエス・キリストの一つ一つ言葉が、この時には何一つ彼らから無くなっていたのです。


 つまり彼らの霊的フィールドには、イエス・キリストが三年にわたって、「神の国」の福音(種)を蒔き続けたにも関わらず、何一つ成長してはおらず、イエス・キリストが語られる言葉を、彼らは父なる神ご自身が語られる言葉として受け留めていませんでした。神の国の「言葉」が、彼らの「霊」の中で生きた言葉になっておらず、彼らはイエス・キリストの言葉を、神が語られる「言葉」としてではなく、自分たちの肉の次元(考え)で分析し、自分の「言葉」に擦り換えていたのです。彼らはペテロを初めとして自分の「言葉」、例えばビジョン(野心・出世)にしか関心がありませんでした。


 ところで前述した若い世代が、「リボリューション」という言葉を好んで使っていたのに対し、バブル崩壊以前の日本経済の高度成長を支え、活躍していた当時の若い世代・中堅層が好んで用いていた言葉が、実は「ビジョン」や「ホープ」、「ドリーム」などです。「夢」と「幻」を描ける時代は、さほど「苦しい時代」ではありません。殆どの人が、生活レベルにおいて中流意識を持ち、その意識に立ちながらもっと上のビジョンを描けば、更に生活レベルが上がっていくなどの概念で生きられる、ある面「楽な時代」と言えましょう。しかし「リボリューション」という言葉は、どん底の生活環境の中で、社会が引っくり返されない限り、これ以上生きることができないという、「苦しみの時代」から生まれる概念です。


 イスカリオテのユダが期待したもの、それは「リボリューション(革命)」だったのかも知れません。ローマ帝国の圧政を排除し、イスラエル王国の再建に立ち上がるため、人間的に期待した人物(将来の主君)がイエス・キリストであり、彼らはその王国における重要政権ポスト(大臣職)に就くことを念願していたのです。ですから彼らの思考概念には、常に人間中心的な「言葉」が支配していました。


 私たちの「霊」は、私たちの「肉の心」から生まれる、三次元の「言葉」によって生きることができないことを知って下さい!イエス・キリストは、「人は、この世から受けるパン(肉の生み出すもの)によって生きるのではなく、神の国から与えられる命のパン(イエス・キリストご自身)によってのみ生きることができる。」と語られています。この御言葉は、神の国からもたらされる「命の言葉」をもって、この世に対して切り開いて行くという、言わば「世の君」サタンに対する霊的挑戦状です。


 イエス・キリストが語られたこの言葉は、人間中心主義(エゴイズム)に満ちた「古い言葉」による支配ではなく、神の国から与えられる命のパン、即ち永遠の命に至る神の国の「命の言葉」によって、必ず「この世」を変革していくこと、しかもご自分が十字架上で「はん祭」として捧げられることによって、失われた羊を再び奪い返していくという、霊的宣戦布告を意味します。


 アダムとエバは、サタン(蛇)の「言葉」に騙されました。サタンの言葉こそ、「エゴイズム」に他なりません。それに対して、「エデンの園」を支配していた中心的言葉は神の国の「命の言葉」、即ち「神との愛の交わり」でした。神の「御心」をいつでもキャッチできる程、彼らは常に「霊の言葉」で交わっていました。しかし今日の私たちが、ストレートに神と交わることができない、つまり神との「親しい交わり」を阻害するもの、つまり「自己中心」という罪があるからです。そして、私たちが不信仰に陥るそもそもの原因が、この「自己中心」という罪にあるのです。


 神の国の「命の言葉」が、私たちの「霊」の只中に蒔かれ成長して実を結ぶ時、「信仰」と「希望」と「愛」が豊かに育まれ、確信と希望に満ちた言葉へと造り変えられていきます。しかしアダムとエバは、永遠の命に至る神の国の「命の言葉」が与えられていたにも関わらず、サタンの策略によって見事に失いました。この時から「人」は不信仰が生じ、更に恐れによって「霊」が支配されることになったのです。



かたくなな霊
 更にイエス・キリストは、弟子たちの「かたくなな心」を咎められました。彼らは、イエス・キリストが突然現れる以前から、復活の証言を聞いていたのですが、殆どの者が、依然としてその証言に猜疑心を持ち、かたくなに心を閉ざしていたのです。特に証言者のメインが女性たちだったこともあり、誰一人としてイエス・キリストが復活され、「親しい交わり」を再開されたということが信じられませんでした。そしてまさに今、イエス・キリストが肉眼で見ることのできる、至近距離に現れ語られているにも関わらず、イエス・キリストがご自身をお示しにならない限り、誰であるか分らなかったのです。


 ところで、復活されたイエス・キリストが、最初にご自分の「新しい言葉」をもって語りかけた人物は、マグダラヤのマリヤという「一女性」でした。復活されたイエス・キリストの、唇からほとばしり出る「神の国」の生ける水、即ち永遠の命に至る「新しい言葉」を受け留めることができたのは、弟子たちの大半を占める「男性」ではなく、「女性」だったのです。


 そしてイエス・キリストは、弟子たちとの交わりを再開する際に、「平安があなた方と共にありますように!」と、「新しい言葉」をもって何度も語りかけて下さいました。しかし弟子たちは未だに気付きません。イエス・キリストがパンとぶどう酒を配られた時に、ようやく「先生」だと悟ることができたのです。イエス・キリストご自身が、復活以前の「姿」とは判別できない程、栄光ある「姿(フォーム)」に変えられていたこともありますが、その語りかける「新しい言葉」が、恐れおののくほど神の国の「力」と「権威」に満ち溢れていたからです。


 イエス・キリストは次に、彼らとの親しい「愛の交わり」を更に深めるために、不思議な行動をとられます。彼は弟子たちに「息を吹きかけ」ながら、素晴らしいご命令を下されました。「聖霊を受けなさい!」この言葉こそ、イエス・キリストが復活された後、最初に弟子たちに下された命令です。その後語られた言葉の数々は、弟子たちの召命の方向性を示す預言的な言葉であったのに対し、この最初の命令は弟子たちに全員に(誰一人漏れることなく)、直接下された神の国の「勅令」でした。彼らは未だ聖霊を受けていませんでしたから、約束として必ず与えられる保証をこの時点で、イエス・キリストから直々戴いたことになります。


信じる者に伴うしるし
 「しるし」とは何でしょうか?私たちの五感に明確に訴え、かつ知る(認識する)ことができるものが「しるし」です。イエス・キリストは、私たちが聖霊を受けた時に、必ず伴うものが「しるし」だと明言されました。聖霊を受けていない弟子たちは、ようやくイエス・キリストを、自分の五感で再び認識できるようになりましたが、イエス・キリストの語られた約束の「しるし」を理解できません。それ故、彼らは再び自分の肉なるビジョンを描き出し、当然イエス・キリストに更なる「人間的」期待を寄せました。「一度処刑され死んだ体が甦ったのだから、今後如何なる者も先生を害することはできない!」と。


 聖霊を受けていない彼らの信仰状態は、依然として「不信仰」のままでした。しかし「信仰の行動」の変革が、聖霊の訪れによってなされる時、弟子たちが今まで経験したことがない程の、ダイナミックな神の国の「力」の流れが、自分の「肉の力」に依らず、只聖霊の上からの働きかけにより成就していくという現象を、あなた方は天の「しるし」として、必ず受け取るようになる!と、イエス・キリストは約束の言葉を預言されました。「今のあなた方は、不信仰とかたくなな心の状態にあり、やっと『私』だと分り、希望の光が差し込み始めた程度の喜びにあるかもしれない。しかし、聖霊を受けた後には、必ず新しい『しるし』が伴う。それはあなた方が今まで経験したことがないほど、驚くべき神の御業が聖霊によって始められ、聖霊によって必ず実を結んでいくのを見ることでしょう!」


 私はイエス・キリストが語られた新しい「しるし」の中で、今までになく真新しい特徴ある変化に富んだ「しるし」は、「新しい言葉」を語り出すことではなかったかと推測します。何故なら、弟子たちの霊的フィールドを覆っていた暗闇、即ち「古い言葉」による支配に対して、イエス・キリストは、「新しい言葉」による革命を宣言され、約束の賜物として必ず与えると明言しているからです。アダムとエバが罪を犯した時以来、私たちの「霊」を支配し続けている「古い言葉」の変革こそ、「新しい言葉」を語ることに他なりません。


 弟子たちの語る古い言葉には、「力」がありませんでした。ただ「恐れ」と「弱さ(無力感)」が心を支配し、そして何よりも「失望感」が漂っていたのです。イエス・キリストが目の前に現れ、再び「新しい言葉」をもって励ましたにも関わらず、「古い言葉」の次元に支配されていたのです。彼らは依然として自己中心的で、「野心」が再び甦るほど本当に無力な存在であり、彼らの言葉は「エゴイズム」という罪に染まり切っていました。しかし、そのような弟子たちにイエス・キリストは、はっきりと宣言されたのです。「あなた方は全世界に出て行って宣教する時に、言葉という面においても、今までにない程の大胆さを伴う、新しい言葉を必ず語り出すと約束します!そして語り始める時に、様々なしるしが大胆な信仰の結果として現れるのを見るであろう!」と。


 ですから、聖霊のバプテスマを受けた後、彼らの一番際立った行動の特徴は、信仰のダイナミックな行動の根底にある、「言葉の革命」であったことです。それは、彼らが常用語として使用していた、「アラム語」による変革ではなく、神の国から流れ出る「新しい言葉」によって、彼らの霊的フィールドは新しく支配され、その中から溢れ流れ出る「しるし」によって、変革(革命)が始まったことです。それ故彼らは、この「新しい言葉」を語るという「信仰の変革」によって、神の国の約束が次々と実現していくことを、自分の目で「見る」ようになります。


新しいものへの変革
 最後に、「古い」ものから「新しい」ものへの変化(変革)は、何が原因となって為されているのでしょうか?例えば「古着」から「真新しい着物」へ買い換える時、私たちは何が動機付けとなっているのでしょうか?「古い」着物ではボロボロになり、見た目も悪いということで、「着られなくなったから」かも知れません。しかし殆どの場合、「新しい」着物を「着たい!」という、「新しい」ものを欲する思いから、行動が始まっていることが分ります。つまり「古い」状態ではとても満足できない、又今の古い状態にあり続けたら、もう限界であるなどの動機付けが発生してくる訳です。


 「革命」も同様に、古い概念や古い体制のままでいたら、これ以上進歩が無いばかりか益々後退し、言わば「古着」を着たままボロボロに果てていくだけだ!という危機感から発生してくるのです。今日の日本、このままの状態で進行したら、手が付けられなくなる程、先行き不安定な状況に陥って行くのではないでしょうか!


 「古い」ものから「新しい」ものへと変化していく時に、何が「新しい」ものを生み出し、「新しい」ものを与えられた人々が、どのように新しく変革されていくかが重要な視点です。そして①変革される前の状態、②革命の「火(炎)」が発生して燃え広がっていく過程、③革命の「火」がある程度鎮静化した時に、どのような社会構造に生き、彼らが(私たちを含めて)どのように新しく変革されたのか?この三点についても検証すべきポイントです。


 私たちは何よりも、「言葉」の持つ「力」について探り極めていく時、使徒行伝の時代に為された神の素晴らしい御業が、今に生きる私たちにも、神からの大いなる「変革」の時として、必ず用意されることを信じて下さい。そして、「新しい言葉」を語ることによって私たちの言葉が、神の国の「霊的次元」を語るレベルにまで変革されるよう、聖霊様に期待して進んで参りましょう!


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