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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Terminal Faith(No.1)

   「始まり」があり「終点」がある




神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け・・・・。
                                                   【創世記1章4節】


ステパノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら・・・・ステパノを目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。・・・・人々が石を投げつけている間、ステパノは主に呼びかけて、「主イエスよ、私の霊をお受け下さい」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と大声で叫んだ。ステパノはこう言って、眠りについた。
                                       【使徒行伝7章55~60節】


ステパノの「祈り」
 「終末の時代」にあって私たちは、最終的に如何なる状態へと、霊的に造り変えられて行くべきでしょうか?神の「御心」通りに、麗しい「キリストの花嫁」として、造り変えられて行く訳ですが、その過程には大いなる試練が待ち受けています。それは「信仰」の戦いです。


 しかし覚えて下さい!終末における「信仰」の戦いを通して、私たちキリスト者は①「神の愛」に強く根ざし、②神の「祝福」の次元に導かれ、③美しく整えられて行きます。ご存じのように使徒ステパノは、他の使徒以上に「聖い信仰」を持った、霊的に美しい「キリストの花嫁」の一人です。


 彼が(迫害による)死を目前にして、最後に告白した「祈り」の言葉は、イエス・キリストの十字架上の、最後の「言葉(執り成し)」と同じもので、これに優る「聖い言葉」はありません。それは真実の「神の愛」に触れた者のみが、純粋に捧げることの出来る、御国の次元を慕い求める「祈り」です。


 神の「栄光」を見た彼は、何者をも恐れませんでした。彼が見た神の「栄光」は、イエス・キリスト(真実の光)を覆う栄光です。イエス・キリストが真実の「救い主」として、待ちに待った「真実の花婿」として、自分の目の前に現れて下さった!という、紛れも無い「神の事実」を、彼は信仰で捉えることが出来たからこそ、この聖い「祈り」を捧げることが出来たのです。「彼らは私を罵り、石を投げつけながら、今にも打ち殺そうとしています。しかし主よ、私はあなたが十字架上で捧げ尽くした、美しい愛の生贄をもって、彼らをあなたの救いの次元へと、どうぞ導いて下さい!そして彼らの罪を赦して下さい!私の全てを、あなたの御手にお委ねします。」と。


「始まり」から繰り広げられる戦い
 私たちは今後、霊的に大きく振われる(選り分けられる)時代に入ろうとしています。「その時」に信仰が試されます。私たちの両足が、何に信仰の土台を置いて、しっかりと立っているか?が問われます。私たちの眼が、何を捉えて生きているか?これも問われます。


 「始め(始まりの時)」に、創造主なる神が天地を創造されたこと、この奥義を弟子ヨハネは第一書簡において、更に奥深く説明しています。「天地創造以前に、始め(始まりの時)から言葉があった!」と。この「言葉」とは、神の「命の言葉」です。神の「命の言葉」の次元には、真実の神の「栄光」が存在しています。この神の「栄光」を通して、神の「命の言葉」を実現ならしめる、聖霊の豊かな「臨在(働き)」があるのです。


 創造主(父なる神)は、被造物であるアダム(エバ)を、「エデンの園」の中央に導いた時、次のようにアドバイスしました。「ここ(園の中央)にこそ、私の命の源泉がある。ここには、あなた方が何も思い煩うことの無い程の、永遠の美が満ち溢れている。あなた方が求めれば求める程、豊かな大水の如くに、あなた方の霊を満たすであろう。それ故に渇き続けよ!慕い求めよ!園にある全ての産物を、味わい知れ!但し善悪の木の実だけは、近付いても食べてもならない!」と。


 今回のメッセージの第一の奥義は、今も尚豊かな神の「栄光」は、天地に満ちて拡大していることです。しかし同時に、サタンが支配する「空中(混沌とした暗闇)」は、今も尚創造主なる神の「栄光」、即ち御子イエス・キリストと、凄まじいバトルを繰り広げています。


 アダムとエバはサタンに唆されて、確かに「罪」を犯し、霊的には「死」のフィールドに、捕われる(束縛される)存在になりました。しかし父なる神は、彼らが「信仰」の戦いを、呪われた大地において展開できるよう、ある武器を与えて下さいました。それは私たちの捧げる礼拝においても、更に拡大する為に用いられています。サタンは、私たちが霊と真をもって、神を「礼拝」することを忌み嫌います。それ故にサタンは、キリスト者の多くを「偽りの光」へと巧みに誘導しながら、人間的な礼拝を捧げるように働きかけます。


 「偽りの光」とは、サタンが演出する自分の「栄光」のことで、「自分がもっと輝き(賞賛され)たい!」などと欲するなど、全てが「偽り」です。「神は光と闇を分け」(4節)にある「分ける」とは、英語で「separate」と言い、「定まりの無い混沌とした状態を、明確に安定した状態に分離すること」です。ですから真実の「光(イエス・キリスト)」が、暗闇のフィールドに出現した瞬間に、光のフィールドと闇(偽りの光)のフィールドが、壮絶な戦いを開始したことになります。覚えて戴きたいことは、万物のフィールドを統括している方は、霊(神の息)なる聖霊様です!


「終点」を巡る戦い
 第二の奥義は、使徒ステパノの殉教死という、悲惨極まる迫害事件は、私たちの「信仰(フェイス)」にとって希望の光となる!という点です。特に「終わりの時」に至っては、ステパノと同様の信仰、即ち如何なるものにも、決して屈する(膝を屈める)ことの無い、上(天)よりの「信仰」が必要となります。そうです!ターミナル・フェイス(終わりの時代の信仰の戦い)です。


 ターミナルとは「終点」を指します。私たちは「今の時代」に、何故生かされているのでしょうか?私たちを通して神の「栄光」が拡大して行く為です。私たちは霊的に、ある重要な方向性へと導かれています。それが「終わりの時」の信仰の戦場です。サタンは私たちの信仰を、「偽りの光」へと導くべく、様々に妨害したり、悪しき戦いを挑んできます。私たちの信仰を貶める過程で、自分が素晴らしい信仰者へと見せかけたり、私たちの魂(人情)的なものを興奮させようと、様々に誘惑して来ます。


 しかし私たちが、「偽りの光」ではなく、「真実の光」なるイエス・キリストを、しっかりと捉えながら、必死に「真実の光」だけを見つめ続ける限り、この信仰の戦いに勝利することが出来ます。どうぞこの一年が、主イエス・キリストの栄光に包まれ、「真実の光」が力強く、あなたを引っ張り続ける年月となりますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2023年1月1日のメッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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