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終末のエクレシア(No.21)

              健全なエクレシア




兄弟たち、あなた方に勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。全ての人に対して忍耐強く接しなさい。誰も、悪をもって悪に報いることの無いように気を付けなさい。お互いの間でも、全ての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。
                                     【Ⅰテサロニケ書5章14~15節】


健全な「エクレシア」とは?
 「怠けている(怠惰な)」(15節)という表現は、一見「仕事(務め)」等をさぼっているイメージを抱きます。しかしパウロのこの表現は、テサロニケ教会という「若き群れ」に対して、「しっかりし(本来の生き方に戻り)なさい!」と、親心から霊的に諭している言葉です。だからこそパウロは、この第一書簡において、健全な「エクレシア」のイメージを、彼らに教え示しました。


 「健全な・・・・」という表現は、如何なる事態(対象)にも対応できること、また真摯な姿勢(対応力)を意味しています。人体を構成する組織、例えば「血管組織」や「神経組織」等は、その働き(役割)が複雑に絡み合う構造です。実は「エクレシア」も、神が霊的に創造している生体組織と言えます。即ち「キリストの御体」と表現するもので、神が直々に呼び集めた「群れ」という集合組織です。


 イエス・キリストが私たちに望む、健全な「エクレシア」は、如何なる「リズム(神の生体法則)」で生きて行くべきでしょうか?人の「群れ」の場合、そこには必ず縦社会(ピラミッド型組織)が生じます。即ち「働き(役割)」の面において、最も能力が優れた者がトップに位置し、部下がその下の位置にあるなど、支配の法則が一般的です。


 しかし私たちの人体の場合、そこには各生体組織が、非常に緻密かつ複雑な「神の法則」により、支配の論理ではなく、相互に連動し(仕え)合うなど、神の「健全性」が垣間見えます。パウロの表現を借りるなら、「手」が「足」に向かって、自分の方が優れている!とは自慢しません。


「分断」ではなく「連携する(仕え合う)」為に
 今日の世界において、明らかに「不健全な事態(世相)」が、多くの人々の魂(精神)を支配していると言えます。「夢」と「幻」が無い人々が増加しつつある中、私たちキリストの花嫁である「エクレシア」は、「この世」と同じ流れ(分断の嵐)に、決して呑み込まれてはなりません!


 実はテサロニケ教会の人々の中にも、「携挙」を巡る分断が起きていました。その結果、自分の仕事を放棄したり、世を離れて教会奉仕に明け暮れるなど、常軌を逸した不健全な現象が、次々と発生し始めたのです。


 ところで、私たちの「人体」を構成する主成分は「水」、即ち「血液」が殆どです。この血液を体全体に循環させる「血管」は、全長が約10万km(地球2周半)に及ぶそうです。続いて「人体」にとって重要となる器官(組織)は「神経」で、全長が約100万km(地球と月の距離の2.6倍)になります。これ程に複雑で、完璧な「神のリズム」が、私たちの「人体」の全てを①守り、②調和し、③生き永らえさせているのです。キリストの「御体」も同様に、創造主なる神の「リズム」によって、健全性が保たれています。


 キリストの「御体」であるエクレシアは、今後如何なる「体」へと成長し、最終的に如何なる「栄光」を現わすのでしょうか?パウロは今回の書簡の中において、エクレシアの健全な成長に必要となる、主軸とも言える四本柱(原則)を記しています。先ず第一の柱は、怠けている者たちを戒め」ることです。


 これはイエス・キリストの中にある、素晴らしい霊的品性が、世的な流れによって、少しずつ汚れ始めた時に、必ず霊的「怠惰」となって現れ出るからです。霊的「怠惰」とは、「これでいいのだ!」という、人間的解釈(判断)に陥ることです。ですから「戒めなさい」、即ち彼らに対して常に、霊的な注意喚起を発することです。例えば「たとえ世の流れがどうであれ、聖書の教えに反する解釈(神学)に、決して組することが無きように!」などと。


 次に第二の柱は、気落ちしている者たちを励ま」すことでです。何故、励ますのでしょうか?イエス・キリストという、正しい「神の軸」へと回帰すべく、彼らを霊的に軌道修正するためです。第三の柱は、弱い者たちを助け」ることです。たとえ「弱い者たち」が、如何なる世代の者であっても、聖霊様が「弱い者」を助けて下さるのと同様に、互いにイエス・キリストの「謙遜な心」をもって仕え合う、これがエクレシアにとって、第三の主軸となります。


 そして最後の第四の柱は、全ての人に対して忍耐強く接」することです。パウロは強調しながら命じます。論争していがみ合うことではなく、互いに忍耐し合って仕え合うことが、何よりも重要ではないか!と。キリスト者が互いに連携し合って、密接に繋がり合うことで、エクレシアとして最大の力を、引き出したり制御(加減)しているのは、イエス・キリストご自身です!イエス・キリストこそが、エクレシアという「御体」の隅々に至るまで、全ての者を「重要な器(大事な器官)」として、何一つ欠ける所の無い「貴い器(宝石)」として、常に保っていて下さるのです。


互いに「善」を行う群れとして
 イエス・キリストの「血潮」が、私たちの霊的体の全てに渡って流れ、イエス・キリストの麗しい「平和(調和)」が、体全体をバランス良く保持しているのです。私たちは、エクレシアとしてイエス・キリストを①意識し、イエス・キリストにあって②結び合わされているのです。例えばエクレシアの若い世代は、動脈の如き力強い流れ(働き)を持っています。それに対してエクレシアのシニア世代は、神経組織や内分泌系の如き、熟練し調和の取れた力を持っています。そしてエクレシアのミドル世代は、心臓や肺などの各臓器の如き、重要なパーツとして大きな働きを担います。


 とかく私たちは、イエス・キリストの「使徒(証人)」は、熟練した職人の如き、優れた「働き人」をイメージしますが、イエス・キリストが望んでおられる「働き人」は、決して本人に無理をさせること無く、本人が望んでいる「働き」に見合った、天の「賜物」を付与して下さいます。その結果エクレシアは、賜物によって自然と仕え合う、大きな「働き(イエス・キリストの栄光)」を現わすのです。


 私たちが「確信」と、希望に満ちた「誇り」とを持ち続けるなら、私たちが「神の宮」、即ちエクレシアです。聖霊様は「あなた」という、一つのエクレシアから必ず、「ここしかない!」という、リバイバルの「流れ(働きと収穫)」を用意しています。イエス・キリストが豊かに「あなた」に臨まれ、「あなた」を見たら必ず、イエス・キリストがいらっしゃる!ことが分かる、それが本当のリバイバルです。


 イエス・キリストの「福音」は、三次元の限界を超えて、麗しい霊的次元を切り開くものです。一人一人を「死」から「命」へと移し、病にある者に「イエス・キリストの御名で健やかになれ!」と命じることで、結果(癒し)を必ず残します。


 あなたが「今の時代」に相応しい、キリストの「貴い器」として磨かれ、終わりの時代にあっても、イエス・キリストの「光」を帯びた生き様を、力強く現わすエクレシアに、聖霊様があなたを整えて下さることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2022年6月26日メッセージ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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