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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

神のご計画(No.22)

  「御名」をもって呼ばれている者




あなたの御言葉が見出された時、私はそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、私のものとなり、私の心は喜び踊りました。万軍の神、主よ。私はあなたの御名をもって呼ばれている者です。・・・・主はこう言われた。「あなたが帰ろうとするなら、私の元に帰らせ、私の前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず、熟慮して語るなら、私はあなたを、私の口とする。・・・・私があなたと共に居て助け、あなたを救い出す、と主は言われる。私はあなたを悪人の手から救い出し、強暴な者の手から解き放つ。」
                                             【エレミヤ書15章16~21節】


神の「御言葉」を食べる(欲する)
 「御名」をもって呼ばれている者、本当に素晴らしい名称です。麗しい主なる神の御名、またイエス・キリストの御名をもって、あなた(私)は呼ばれているのです!「呼ばれる」とは英語で「calling」と言い、召し出されていることを意味します。この「御名をもって」という部分が非常に重要となりますが、私たちが「別のもの」によって呼ばれているなら、その人の「命令」に対して、躊躇無く従うことが出来ないでしょう。


 しかし「麗しの君」、イエス・キリストの御名をもって、直接に呼ばれるのであれば、私たちは喜んで聞き従うことが出来ます。何故ならイエス・キリストの場合は、私たちのことを決して「孤児」とせずに、常に私たちの傍に居て下さり、命を懸けて私たちの為に「事」を果たす方だからです。イエス・キリストは、今も尚私たちの為に、ご自身の御名をもって、私たちを召し出して下さいます。


 そうです!真の牧者なるイエス・キリストは、その麗しい御声をもって、私たちを「正しい道」へと導いて下さいますから、私たちはこれからも、真の羊飼いなる方の「御声」を求めて参りましょう!「あなたの御言葉が見出された時、私はそれをむさぼり食べました。」(16節)の御言葉は、生まれたばかりの乳飲み子が、お母さんの「乳」を、必死に欲しがる(むさぼり求める)様に似通っています。


 私たちの食欲は、お腹がすいたから「何か食べたい!」などの欲求が生じて、食物を求めようとしますが、「美味しい物を食べたい!」という別の欲求が、たまに突き動かしているのも事実です。「美味しい食べ物」を摂取することで、非常に力が湧いてくることを、体験的に知っているからです。16節には、とにかく人目を気にせずに、非常に「喜ばしいもの」、即ち主なる神の「御言葉」を求めることが、私たちにとって必要な「霊の糧」である!と表明しています。


 今回の記事から、私たちが覚えるべき第一の重要ポイントは、「言葉」を精神的に食べる習慣が、実は私たち日本民族の歴史には、伝統的にあるという点です。例えば正月の「おせち料理」、これは一つ一つの料理に、祝福となる「言葉」を付随して、実際にその料理を食べることで、この一年の「祝福」を食べる(取り入れる)習わしです。つまり食べた料理に対して、祝福となる「言葉」のイメージを、今年一年の日々の「暮らし」の中に、ある種の「願(祈り)」をかける文化の一つです。


 実は「日本語」には、「言霊(ことだま)」思想(哲学)があります。これは不思議な思想ですが、一つ一つの言葉の中には、必ず「魂(霊)」が宿っている!という考え方です。即ち「魂」が宿る以上は、言葉が「命あるもの」として働くから、尚更「言葉」を語る者は、「命」となって流れ出た、一つ一つの言葉に対して、大切に扱いながら語ることが必要である!という概念です。


 しかし私たちキリスト者の場合は、主なる神の「御言葉」を、生まれたばかりの「乳飲み子」の如くに、生きた命あるものとして渇き求め、そして実際に戴きます。聖書の中にある神の「命の言葉」は、あなたの「霊」を生かし、あなたの人生を「祝福」の領域へと導く、確かなる「霊的な糧(食材)」です。それ故に、私たちは「日々の糧」として、神の「御言葉」を求めるのです。私たちが聖書を読む場合は、初詣の際に「おみくじ」を引くなど、決して「占いごと」として、聖書を開く訳ではありません。


 私たちの「耳」に入る言葉、また「唇(口)」から出す言葉にしても、私たち自身が神の「御言葉」を、自分の「命」に優るものとして、本当に「麗しい(最高に美味しい)もの!」と戴くのであれば、それは何にも代え難き「命の糧」として、私たちの霊的成長につながります。


二つの「方向転換」
 イスラエルの民が愚かにも、主なる神の「御言葉」に従わずに、悪しき次元へと陥った理由は、他の神々の提供する「世の糧」の方が、あたかも「美味しい!」ものである!と、霊的に餌付けされたからです。実は主なる神は、霊的イスラエルの民である、私たちキリスト者に対しても、ある重要な二つの「方向転換」を示して下さいます。覚えて戴きたい点は、神の「救い」にあずかった「あなた」は、神がイエス・キリストの「御名」をもって、直々に呼ばれている(召し出している)、「特別な器」であって、悪魔サタンの家畜(罪の奴隷)では無い!ということです。


 ところで母親が、生まれたばかりの我が子(乳飲み子)に、即座に母乳も与えますが、同時に「声かけ」を提供する理由は何でしょうか?それは「我が子」の存在が、愛おしくてたまらなく、「美味しいもの」を食べさせるべく、「自分の声」で特別に発したいからです。それと同様に主なる神が、私たちを「御名」をもって、特別に呼ばわるには理由があります。あなたが「特別な器」だからです。「特別」とは、そこらにある「石ころ」ではなく、貴重な価値ある「宝石」の如きものを意味します。


 その価値あるイスラエルを、「御名」をもって、直々に呼んで下さったにも関わらず、彼らが愚かな方向に傾倒した理由は、やはり「別のもの」を求めたからです。そうです!私たちキリスト者にも、アダム(エバ)の負の霊的遺伝(罪の因子)によって、「命の木」の実ではなく、他の木々の実を求めるところがあります。しかし、私たちがが求めるべき「糧(実)」は、主なる神が与えて下さる「命の言葉」のみです。


 では如何にしたら、主なる神の「御言葉」だけを、常に渇き求める「特別な器」になるのでしょうか?それが主なる神が今回、エレミヤに対して語られた、二つの「方向転換」です。第一の「方向転換」は、「あなたが帰ろうとするなら」にある「帰る(return)」、つまり今までの間違った方向を改めて、主なる神が示す「正しい方向」、そして神の「御心」に立ち返ることです。


 次に第二の「方向転換」は、「あなたが軽率に言葉を吐かず、熟慮して語る」ことです。この方向転換は簡単に言えば、主なる神にとって「愚か」と思われる、「不平」「不信仰な言動」、他人に対する「中傷」「誹謗」などの、「罪」に至らせる悪しき言葉や、「ネガティブ思考」の罠に陥るなど、三次元的言葉に囚われるのではなく、私たちが一番に必要とする、神の「命の言葉」を語ることです。そうです!神の「命の言葉」は、最高に価値ある宝石、「ダイヤモンド」の如きものです。「熟慮して語る」とは、大いなる思いをもって、自分の唇で「高らかに宣言する」ことです。「宣言する」とは、思ってもいないことを、むやみやたら(適当)に語ることではなく、疑わずに信じて、潔く言葉を発することです。


「エクレシア」としして呼ばれる時
 「今の時」は、悪魔サタンが発する、偽りの「言葉」によって、多くの人々が騙され(惑わされ)、「恐怖」や「不安」におののく、そんな「暗闇の時」です。しかし真実の神の「御言葉」が、私たちにとって如何に「最高に美麗しいもの」であるか、私たちが摂取すべき「言葉(情報)」は、神によって守られるべきです。そして、私たちが求めるべきものは、最高に麗しい方、かつ一番価値ある主イエス・キリストの、口から出る一つ一つの言葉です。


 イエス・キリストの「御言葉」に、最高の「御力」があり、完全なる「救い」と、「癒し」の力があります!私たちは神の「御言葉」を、大胆に語る者として召し出されている以上、私たちが戻るべき(立ち返る)場所は、イエス・キリストであり、聖霊様が私たちに対して、上(天)からの力を注ぎ、「御名」をもって呼ばわる時には、私たちが「御言葉」を語るだけで、麗しい「神の国」が必ず現れ出ます。


 「私(主なる神)があなたと共に居て助け、あなたを救い出す」(20節)時には、これから「悪しきこと」が、次々と起きたとしても、主なる神の「ご計画」が進んだ時には、私たちが驚く程の神の次元を体験します。それが「あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたの元に帰る」(19節)出来事です。そうです!「あなた」とは、神の「御名」をもって呼ばれている者、即ちエクレシアです。


 勿論来るべきリバイバルの時には、使徒行伝時代の神の「御業」が再現されます。多くの人々が「その時」、使徒たちに尋ねました。「私たちが救われるためには、一体何をすべきでしょうか?」と。使徒たちは即答します。「イエス・キリストの御名によって洗礼を受けなさい!」と。その結果、彼らはイエス・キリストを信じて洗礼を受けます。すると彼らは、真心から信仰の「叫び声」を上げました。「私は遂に、神の御名によって呼ばれた者である!」と。


 このように私たちキリスト者、即ち「エクレシア」が為すべきことは、只信じて海(湖)の中に網を投じるだけです。神の元に立ち返る「メッセージ」を、私たちが大胆に語るだけで、彼らは「網(神の救い)」の中に入って来ます。今後「恐れ」をもって予言したり、「詐欺まがい」の教えを語る、偽預言者(偽教師)が次々と台頭することでしょう。しかし私たちキリストが、聖なる「キリストの花嫁」として、霊的に整えられつつある中、聖霊様も私たちに激しく臨み、「祈り」の訓練を与えます。


 そうです!私たち「エクレシア」は、聖なる「祈りの油」を絶やすこと無く、熱心に祈り続けましょう!「主よ、私も網を投じるべく、直ちに準備します。どうぞ訓練して下さい!私が命の言葉だけを、生まれたばかりの乳飲み子の如くに、絶えず求め続けることが出来ますように!様々な悪しき偽りの言葉(情報)に騙されたり、流されたりすることが決して無きよう、更に聖めて下さい!」と。


 あなたが いよいよ神の「御名」によって、更に「霊」が呼び起こされ、霊的に目覚めることで、聖霊様を通して、常に聖く整えられた、神の麗しい乙女たち、デボラやエステルの如くに、偉大なる「神の戦士」に仕立てられますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!(2021年6月27日のメッセ-ジ)


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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