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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

正しい生き方(No.24)

     エルカナの三つの「問いかけ」




彼女(ハンナ)を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。毎年このようにして、ハンナが主の家に上る度に、彼女はペニナのことで苦しんだ。・・・・夫エルカナはハンナに言った。「ハンナよ、何故泣くのか。何故食べないのか。何故塞ぎ込んでいるのか。この私は、あなたにとって十人の息子に優るではないか。」
                                               【Ⅰサムエル記1章6~8節】


理由無き「憎悪」の根源
 何年も祈り続けて、主なる神に願い求めているのに、現実は一向に好転すること無く、むしろ逆境の如き、ネガティブな出来事や、理由無き(原因が分からない)「苦しみ」が続く時、人は大抵の場合、心が折れるなどして、不信仰の領域にまで後退することがあります。


 実は、そのような場合にも、助け主なる聖霊様が、霊的な「促し」と「助け」をもって臨まれ、私たちを様々に取扱いながら、日々守り導いておられます。今回ハンナは、夫エルカナの発した三つの「問いかけ」を通して、霊的に気付かされたことがありました。即ち、ペニナの度重なる「いじめ」を受けながらも、夫エルカナがハンナのことを、尚も「真実の愛」をもって、常に愛し支え続けていることを、この三つの「問いかけ」から、ハンナが知る(気付く)ことになるのです。


 今回の記事から、私たちが霊的に学ぶべき、第一の重要ポイントは、ペニナがハンナに対して、盛んに「苦しみ」を与え続ける、その理由無き「憎悪」の本質(根源)は、一体何処にあるのか?という点です。ハンナにとって、その「理由」が全く分からないのですが、夫エルカナの場合は分かっていました。つまりエルカナの持つ「真実の愛」が、ペニナにではなく、ハンナに対してのみ注がれていたからです。当然の如くに、ペニナは霊的な「妬み」を抱くことになり、その対象者ハンナに対して、「憎しみ」が益々膨れ上がった訳です。


 この霊的「妬み」の本質(根源)は、創造主(父なる神)が一番に愛した被造物、つまりアダム(エバ)に対して、サタンが盛んに誘惑し続け、遂には霊的に堕落させた「エデン事件」に由来します。夫エルカナの持つ「真実の愛」は、主なる神の持つ「神性」の中で、最高の「輝き」を放つ、「永遠の愛」の雛形です。


 ペニナは毎年、ハンナが主の家に上る度に、「妬み」と「憎悪」を具体的に現わすべく、彼女の「信仰」を「挫かせる(へこます)」行動に出ました。何故ならハナンが主の家に上り、「毎年」連続的に信仰表明する、その純粋な「祈り(礼拝)」の行動に、ペニナは我慢ならなかったからです。


 以上の点から分かる、サタンが忌み嫌う(我慢ならない)、キリスト者の信仰行動に関して、サタンの側に二つの「理由」があります。第一の理由は、花嫁の持つ霊的飢え渇きを、サタンは干からびさせ、「命の水」を枯渇させたい、つまり花婿との「交わり」を、完全に諦めさせる次元へと、霊的に貶めることです。第二の理由は、主なる神ご自身の持つ、素晴らしい「永遠の愛」にではなく、この「世」に存在する、見せかけの素晴らしさに跪かせる、つまり偽りの夫である、「世の君」の三次元的麗しさに、身を屈めて拝するように仕向けたいからです。


エルカナの三つの「問いかけ」
 このようにハンナにとっては、理解し難いペニナの「憎悪(いじめ)」に遭いながらも、彼女は毎年「主の宮」に上り、「祈り」の生贄を捧げ続けました。それでも次第に心が折れて、遂には食事も断つ程に、精神的かつ霊的に塞ぎ込むに至る訳ですが、「その時」にも夫エルカナが、三つの「問いかけ」をもって、彼女の「信仰」を回復することになります。これが今回の記事から学ぶべき、第二の重要ポイントです。


 エルカナは三つの「問いかけ」を、彼女の霊の只中に発信することで、霊的に大事なことを、その都度確認していました。この三つの「問いかけ」が、如何なる内容であるのか、これを私たちが正しく知ることで、聖霊様が同様の「問いかけ」をもって、私たちの信仰を更に回復させるべく、様々に取扱っていて下さることを、私たちも再確認することになります。


 ハンナに対する第一の「問いかけ」、それは「あなたは何を泣いているのか?」です。この「問いかけ」に対して、私たちは「当り前じゃないですか!敵(ペニナ)が苦しめるからです。」と即答するでしょう。ところがハンナの場合は、夫エルカナの発した、第一の「問いかけ」に対して、霊的に気付くことになります。私たちは、とかく苦しみの「現実」を見て悲観的、或いは否定的になるなどして、塞ぎ込むことが多々ある訳ですが、ハンナの場合は「如何なる場合にも、自分が神に対して真剣に向き合っているか否か、それが大事なことであり、仮に向き合っていないのであれば、そのことの方が泣き悲しむべきである!」と、聖霊様からの「気付き(促し)」を、第一の「問いかけ」から得たのです。


 続いて第二の「問いかけ」は、「あなたは何を食べるべきで、また何を食べるべきでないか?」です。この「問いかけ」から分かることですが、エルカナが食事を取らないハンナに対して、強く助言している次元が「あなたが地上にある、腐った悲しみのパンを食べている限り、やせ細った惨めな自分が見えるだけ。しかしあなたが、霊的な命の源である、神が天より与えて下さる、命のパンを食べ続ける限り、あなたは常に満ち足りた、神の祝福の中で喜びを得る!」ということです。


 そして最後の第三の「問いかけ」が、「あなたはいつまで、悲しみの隠れ家に住み続けるのか?」です。これは「如何なる悲しみの淵の中で、あなたは溺れ続け、信仰を見失ったままでよいのか?」という、霊的に「厳しい勧告」で、夫エルカナの妻に対する「叫び」の訴えです。聖霊様は、不信仰に陥った私たちにも、「あなたはいつまで、自己憐憫に陥っているのか?神の偉大なる御業に期待する、信仰の回復を、あなたは求めるべき時である。今は悲しみ続ける時ではなく、上よりの力を受けて、霊的に立ち上がる時である!」と、何度も叱咤激励して下さいます。


 この三つの「問いかけ」から分かることは、私たちが如何なる状況にあろうとも、神の偉大なる「ご計画」の中に、私たちの信仰が回復されるべく、聖霊様の働きを通して、真実の神は真剣に取扱って下さることです。そうです!聖霊様は必ず私たちに対して、ハンナ同様に三つの「問いかけ」をもって、真実の 神の「永遠の愛」に回帰させるべく、霊的「気付き」を与えて下さいます。


十人の息子に優る「真実の愛」
 エルカナが発した、締めくくりの言葉「この私は、あなたにとって十人の息子に優るではないか。」(8節)という表現は、実に不思議な言い回しです。夫エルカナの持つ「真実の愛」は、何年経っても変わらざるもの、かつ偽らざるものであることを、この言い回しをもって表明したのではないでしょうか!エルカナの言いたい事は、「私のあなたに対する愛以上に、他に何か重要なことでもあるのか?」という、真摯な「問いかけ」です。


 エルカナには、ハンナの信仰回復の「きっかけ」が、ペニナからの理由無き「妬み」と「憎悪」が終わることではなく、ハンナ自身が真実の神に対して、再び信仰をもって、霊的な生贄である「祈り」を捧げること、これ以外に無いことを確信していました。それ故に「十人の息子に優る」、神の「真実の愛」に立ち返るよう、この言葉をもって締めくくったのです。


 神の「真実の愛」とは、まさしくエルカナの持つ、霊的特性に見られるもので、「あなた以外のものは、私の愛の対象ではなく、一途にあなただけを、かつ純粋にあなたに対して、私は変わることなく愛し続ける!」ことです。ですから聖霊様が、私たちキリストの花嫁に対して、常に霊的「気付き」を与えるべく、三つの「問いかけ」を発信するのは、インマヌエルなる麗しの君、真実の花婿なるイエス・キリストに、霊的ハンナである私たちが、「はい、はしためはここにおります。どうぞ私に相応しい神の豊かな領域へと、この私を導き連れ上って下さい!」という、信仰の「応答」の言葉(祈り)を、常に捧げてほしいからです。


 「真実の愛」は、唯一イエス・キリストの中にあります。イエス・キリストの「真実の愛」の中に、私たちが真の「命」と、真の「生きる力」を見出す時、たとえ現実が理由無き「苦難」と、言い難き「悲しみ」の中にあっても、イエス・キリストは尚も「真実の愛」をもって、私たちを愛し続けて下さっている、この豊かな「唯一の真理」に立ち続け、上よりの「信仰」を働かせながら、私たちは日々前進しようではありませんか!


 あなたが、真実の神の豊かな「祝福」の領域へと、更に召し出されて、イエス・キリストの「花嫁」として、麗しい信仰回復の時が与えられますように!そして「偽りの愛」によって傷ついた、多くの人々を霊的に癒すことの出来る、神の偉大なる「解放」の働きに、益々携わることが出来る程、更なる成長の時が用意されることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


☆バルナバ・ブログ福音薬局 

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