正しい生き方(No.23)
「神の門」が開かれるために・・・・
エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった。エルカナは毎年・・・・万軍の主に礼拝し、生贄を献げていた。・・・・生贄を献げる日には、エルカナは妻ペニナとその息子たち、娘たちにそれぞれの分け前を与え、ハンナには一人分を与えた。彼はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。
【Ⅰサムエル記1章2~5節】
「神の門」が開かれる理由
私たちが「信仰の鍵」をもって、「神の門」を開く際に、私たちの側から開ける「(私的な)理由」がある訳ですが、逆に神の側にもその門を、開閉する「正しい理由」があることを、今回の記事から詳しく学んで参りましょう。
私たちは、あたかも自分の「意思」の働きから、「神の門」を信仰で開けているかのように見えて、実は主なる神が「御心」に応じて、①神の時を計り、②神の動作を始めることで、ようやく聖霊様が共に働かれた結果、「神の門」が開かれている!この一連の霊的動きの流れ(プロセス)を、私たちは常に霊的イメージとして捉える必要があります。
つまり、「神の門」の先にある神の領域から、主なる神は聖霊様と共に、神の御国の次元を解き放っていて下さること、これが非常に重要な奥義となります。そういう意味で、主なる神は私たちが「神の門」を開ける以前から、私たちの信仰状態を注意深く御覧になり、開けるタイミングを見計らいながら、様々に私たちを霊的に取扱い、遂に「神の時」が来た!と受け留め、私たちが「信仰の鍵」を、「神の門」の錠穴に入れた、まさに「その時」に、聖霊様が「神の御国よ、この者に解き放て!」と号令するや否や、「神の門」が開かれるのです!
そうです!「神の門」が開かれるためには、私たちの「肉(努力)」に拠らず、それは神の霊(聖霊様)に拠ること、この原則を是非覚えておいて下さい。故に私たちが為すべきこと、それは激しく祈り求め、かつ淡々と「神の時」を待つことです。将来、偉大なる神の働き人となる、預言者サムエルを出産し、三歳頃まで育てた一人の母親、今回の記事から登場するハンナは、主なる神の様々な「取扱い」を通して、ねんごろに聖められた訳ですが、このハンナに対する神の「働き(取扱い)」を、私たちも同様に受けて行く必要があります。
エルカナの二つの「立ち位置」
今回の記事から学ぶ第一の重要ポイント、それは夫エルカナの「立ち位置」には、二つの側面があったという点です。先ず第一の側面が、①ペニナとの間に多くの子供を持つ、肉なる夫(肉の関係)としての「立ち位置」であること。続いて第二の側面が、未だハンナとの間に子が授からなくとも、真実の愛をもって愛し支え続ける②霊なる夫(霊的な関係)としての「立ち位置」、この二つの側面です。
彼は肉の「立ち位置」として、彼自身がエフライム族の末裔でしたから、一族の使命として、とにかく「子孫繁栄」に尽力した訳です。しかし先祖アブラハムや、ヤコブの霊的失敗に立たぬよう、神の「知恵」に拠り頼むことを優先しました。アブラハムの「肉の選択」の結果、イシュマエルの誕生により、後々サラとハガルの対立を生み、彼はなくなくハガル親子を追放します。またヤコブは、余りにも「肉の意思」が強かったため、一番に愛していたラケルとの間ではなく、レアとの間に子宝が恵まれるという、彼の「意思(望み)」を打ち砕く結果となります。
そういう意味で、エルカナは常に②霊的な「立ち位置」に立つよう、ハンナに対して忠実に、かつ様々な配慮をもって、接していたことが伺えます。この霊的な「立ち位置」は、ボアズのルツに対する関係にも見られます。エルカナの持つ、この二つの「立ち位置」の側面は、私たちの持つ「信仰」の賜物においても、それを用いる際の「立ち位置」に、必ず①肉なる動機から、或いは②霊なる動機から生じているのか?に現れ出ます。
このように、エルカナの「霊」の只中において、常に①肉なるものと、②霊なるものとの、霊的葛藤(格闘)がありましたが、彼は信仰的に次のような確信がありました。「主なる神は必ず、私の最愛の妻ハンナに対して、神のご計画を現わして下さる。それ故に神は御心を開かれるその時に、正当な神の約束の賜物である胎の実を、ハンナの信仰に応える形で、必ず胎を開いて与えて下さる!」と。
「even though~」の信仰
今回の記事から学ぶ第二の重要ポイントは、肉なる動機から生まれる、「人の理(理屈、理由付け)」を超えて働かれる、「神の理(正しい意味付け)」に従った、エルカナの信仰とは、如何なるものであったのか?という点です。彼の信仰の際立った特徴が、実は「彼はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。」(5節)の表現の中に見られます。この「~していたが」の部分は、英語では「even though~」と言い、「~であるにも関わらず」という、強い「人の理(理由付け)」を表現(説明)しています。
つまり5節を私訳しますと、「彼(エルカナ)がハンナを、常に愛し続けるという夫としての責務(人の理)を、忠実に果たしていたにも関わらず、主なる神の御心(理由付け)としては、未だハンナの胎を開かれなかった。」になります。つまり彼は、自分の行動の「理(意味付け)」よりも、「神の理(義)」が優っていることを、信仰的に正しく受け留めていたことが伺えます。そして彼は、「今」は閉ざされていても、神の「時」と神の「理」が、正しく働き始める時に、一機にハンナの胎が開かれる、つまり「約束の賜物」を授かる!ことを、霊的に強く確信していました。
このように「even though~」の持つ、言葉の優れた霊的概念は、「たとえ現状が~であっとしても、必ず・・・・なる!」など、物事を「現実(三次元的事実)」として捉えるよりも、その先で必ず開けて下さる、見えざる「神の事実」に期待する、非常に優れた「信仰」の賜物をもって、エルカナは常にハンナを愛し、支え続けたのではないでしょうか!
肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれた子供が、子孫と見なされるのです。
【ローマ書9章8節】
エルカナにはペニナとの間に、確かに多くの子供たちを授かりました。しかし彼らはイシュマエルと同様に、肉なる子孫に過ぎませんでした。それ故、アブラハムの正当な子孫が、霊の子孫イサクであったように、エルカナの霊の子孫は、この後ハンナが出産する、サムエルが継承することになります。
「神の門」が開かれるために、私たちが為すべきことは、エルカナの信仰行動と同様に、先ず①霊的な「立ち位置」に立ち続け、②神の「時」と「動き」に準ずることの出来る、霊的感性(忍耐と機敏さ)が養われることです。
エルカナの立ち続けた霊的「立ち位置」に、どうぞあなたが、常に立ち続けることが出来ますように。自分の中にある「人の理」が、聖霊様の霊的取扱いを通して、更に聖められて行く中で、「神の理」のみを優先する信仰者、また信仰の鍵をもって、神が与えて下さる約束の賜物を受け継ぐ、「有用な器」として用いられて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!
☆バルナバ・ブログ福音薬局
英語版(エステル処方)は以下から!