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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Good-Shepherd(No.13)

            「過越し」のゲート




その血を取って、小羊を食べる家の入口の二本の柱と鴨居に塗る。・・・・あなた達の居る家に塗った血は、あなた達のしるしとなる。血を見たならば、私はあなた達を過ぎ越す。私がエジプトの国を撃つ時、滅ぼす者の災いはあなた達に及ばない。この日は、あなた達にとって記念すべき日となる。あなた達はこの日を主の祭りとして祝い、代々に渡って守るべき不変の定めとして祝わねばならない。
                                         【出エジプト記12章7節,13~14節】


神の定める「契約」
 今回の記事にある、その記述の中身は、一言で表現するなら、「契約」を交わす際の、様々な規定が書かれたものです。「契約」という本来の概念は、私たち日本人には理解し難いものですが、この世の「商談(取引き)」には付き物のルールです。つまり売り手(甲)と買い手(乙)との間における、取り引き上の「約束」を交わし合うルール、それが「契約」です。


 商談において「契約」を交わす際には、実は双方に「信頼関係(credit)」が必要となります。そして「契約」の信頼性を、双方に確認し残すべきものとして、「契約証明書」を作成し、甲乙の「割印」を押印します。しかし商談上の「契約証明書」には、大抵の場合「〇〇年□月△日までの適用とする」などの文言が、必ず記入されていますので、ある面それは、「限定的な契約」と言えます。


 ところが聖書に記述されている、神の「契約」の場合は、神(甲)と人(乙)との間に交わされる、霊的次元にある「契約」となりますので、この世の「信頼関係」に基づくものではなく、それは神の側から交わされる、一方的な神の「永遠の愛」に基づくものです。それ故に、その中身となる様々な規定は、受け手である人が、その規定を忠実に遵守しさえすれば、「永遠に神の祝福を、無代価で受け取ることが出来る!」という、とんでもない「無限の契約」となります。


 但し、無条件ではありません!神の「契約」には、必ず既定の中身として、二つの条件を定めています。第一の条件が、「これを守り行えば、必ず祝福を受け続ける。」という、祝福を受け取る際の、具体的要件が示されています。そして第二の条件が、「これを守り行わない場合には、必ず悪しき災いを被る。」という、言わば交通標識のルールと同様の、自らが「事故(災い)」を買い取る!ことを、前もって警告する規定となっています。


「過越し」の契約
 今回の神の「契約」は、「過越し」の契約と言いますが、実はこの中身には、二つ目の条件に相当する、「罪」の支配下にある、弱き私たちのために、再び神が「永遠の愛」をもって介入為されて、「災い」で滅び行く私たちのことを、超法規的な措置をもって、第一の条件へと回帰させて下さる!という、素晴らしい方法(手順)が示されています。


 その方法が「小羊の命を絶ち、その流された血をもって、各家の入口にある、二本の柱と鴨居に塗る!」という、非常に残酷な儀式でありますが、手順としては簡単な作業です。小羊の貴い「犠牲(贖い)のサイン」を、家の前面に提示するだけで、「災い」が過ぎ越す、つまり「神は私たちの罪を見ずに、私たちの霊的従順(悔いた砕かれた魂)をご覧になる」ことで、再び神の「契約」を、私たちと交わすことを、教え示しています。


 「過越し」の契約には、神の側から提示した、ある重要な二つの「ルール」が、キーワードとして規定されています。第一の規定が「この日(過越された日)を、主の祭りとして祝うこと」、次に第二の規定が「過越祭を代々守り行うべき、不変の定めとして祝うこと」、この二点です。


 それに対して人の側が、神に信頼して受け取る規定が、①小羊の「血」は、自分たちの救いの「しるし」となる。②如何なる災いも、小羊の「血」により必ず過ぎ越される(通過する、及ばない)。③災いによる如何なる「呪い」も、家族には及ばない。④過越祭は救いの記念日となること、この四つの点を信頼して、信仰で受け留めることです。と言うことは、私たちキリスト者は、この四つの規定を、必ず覚えて提示し続ける必要があります。その結果、子羊(イエス・キリスト)の「血」のサイン(しるし)を、私たちが信仰をもって受け取る時に、主なる神は子羊の「血」のサインを見て、「災い」や「呪い」ではなく、神の豊かな「祝福」をもって、必ず救い出される!ことを約束しています。


 「主の祭り」という表現は、文字通り「人の祭り」、つまり人が執り行う人間的なイベント(行事)ではありません!即ち主なる神ご自身が、人に対して永遠に定めた、素晴らしい記念すべき「礼拝」の日、神にとっては「愛してやまない人」との回復の時であるが故に、ご自身が計画して設立(用意)し、最大の「喜び」を現わす、一大霊的イベントの時です。


 ご存じのように、この「過越し」の契約は、イエス・キリストが「十字架」にて処刑される前に、弟子たち全員を前にして、神の新しい「契約」を示された、聖餐の規定と同様のものです。「パン(御体)」と「ぶどう酒(血)」を、彼らに分かち合うことで、イエス・キリストは「これを覚えて記念とせよ!」と命じました。つまり十字架上に現わされる、ご自身の裂かれた「御体」と、流される貴い「血潮」のしるしを、弟子たち(私たち)は決して忘れずに、その「贖い(救い)」の奥義を、代々に渡って告げ知らせる(語り伝える)、最も重要な「契約規定」が示されているのです。


 そうです!最初の人(アダム・エバ)がそうであったように、私たちが代々為すべき、不変的かつ一大イベントは、「主の祭り」に馳せ参じ、「主の祭り」を共に喜び祝うことです!「主の祭り」こそが、私たちの人生の「喜び」の原点(基本)だからです。


「過越し」のゲート
 ではこの「過越し」のゲートは、具体的に如何なる神の「祝福」を開くのでしょうか?この場合にも、開けるための「信仰の鍵」が必要となりますが、それは「家族の命を生き永らえさせる」ために、私たちが為すべき、ある重要な信仰行動を促しています。それは第一に①小羊の「命」の証しである、その貴い犠牲の「血」を、主なる神に提示することです。これは絶対命令です。つまり小羊の「血」が、家族全員の「命」を、贖うための「しるし」として、家の入口のゲート(二本の柱と鴨居)に塗ること、つまり「血潮」のゲートが、家族の「救い」につながる役目を果たすのです。


 ここで、ある疑問が浮かびます。それは「血潮のサインは、一度限りの提示で良いのか?」という点です。私たちは御子イエス・キリストによる、十字架の「救い」を確かに信じました。しかしだからと言って、それは一度限りの「救い」の経験ではありません!実はイエス・キリストによる、この霊的な「過越祭」は、主なる神の「ご計画」として、今も尚継続している、非常に重要なイベントです。つまり永遠に為すべき「不変の定め」として、霊的に確立している以上、私たちは何度でも「血潮のサイン」を、信仰行動として提示すべきです。


 つまり第二の信仰行動として、私たちは「血潮のサイン」を②(代々に渡って)提示し続け、(その奥義を)教え続け、血潮を受け取った者として、大胆に「贖いのサイン」を使用していくという、素晴らしい霊的な「務め(ミッション)」につながります。と言うことは、この第二の信仰行動に移らない者は、神の永遠の「祝福」にあずかれない!ことを意味します。


 私たちが、永遠に変わることの無い、この「主の祭り」を、霊と真をもって祝う(礼拝する)時に、イエス・キリストによる、十字架の「贖い」からもたらされる、偉大なる「救い」の特典を、多くの失われゆく魂に提示したり、霊的な「病」と「抑圧」そのものに、イエス・キリストの血潮を使用する(注ぐ)ことで、偉大なる神の御業が、天の「祝福」となって現われ出るのです。


 世界的災いが、波状攻撃の如くに押し寄せる中、小羊イエス・キリストの「死」は、一度限りの歴史的「事実」ではありましたが、それを使用する信仰者にとっては、「過越し」のゲートを開けるチャンスが、小羊の「再臨の時」まで継続する、即ち①開いて提示し続け、②門を叩き続け、③御力を信じて使用し続けるなど、何度でも為すべき「不変の定め」です。


 そういう意味で私たちは、まさに「今の時」に、大いなる神のチャレンジを受けています。世界的災いの中で、多くの人々が「恐怖」におののき、「暗闇」の圧政下にあるからです。しかし唯一の「救い」が、この「過越し」のゲートにあります。私たちキリスト者が、率先して「過越し」のゲートを開け、小羊(イエス・キリスト)の犠牲による、貴い「血潮のサイン」を提示して行く時に、彼らは必ず(十字架の身許に)還って来ます!私たちは「贖われた民」として、いずれ御子の「来臨」の時に、賢い乙女(キリストの花嫁)として迎えられ、永遠の御国に住むことの出来る、「神の家族」として生き永らえることになります。


 それ故に、神との「契約」の信頼性は、私たちの「信仰行動」に掛かっている!と言えるのではないでしょうか!私たちが神の「過越し」の契約を信じる時、イエス・キリストの豊かなる「復活」の力と、「贖い」による救いの御業が、今も尚継続していることを、私たちが純粋に受け取る限り、私たちはこの契約を「記念」として覚え、御子の「血潮」を霊的に飲み続け、御子の「命のパン(御体)」を霊的に食べ続けましょう!


 どうか、あなたが「過越し」のゲートを開ける度に、イエス・キリストの豊かな「贖い」の御業が、純粋に信頼して受け取り続ける、あなたの「全て」に行き廻り、御子の「復活の命」が、益々あなたの信仰の次元を、霊的に高めて参りますように。そして最終的には、あなたが大胆に掲げる、御子の「血潮のサイン」を見て、多くの魂が十字架の身許に帰還して参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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