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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Good-Shepherd(No.11)

            ゴシェン・ゲート




・・・・一行はゴシェンの地に到着した。ヨセフは・・・・父イスラエルに会いにゴシェンへやって来た。・・・・ヨセフは、兄弟や父の家族の者たちに言った。「私はファラオのところへ報告のため参上し・・・・『この人たちは羊飼いで・・・・羊や牛を含め、全ての財産を携えてやって来ました』と申します。ですから、ファラオがあなた達をお召しになって、『仕事は何か』と言われたら、『あなたの僕である私どもは、先祖代々、幼い時から今日まで家畜の群れを飼う者でございます』と答えて下さい。そうすれば、あなた達はゴシェンの地域に住むことが出来るでしょう。」羊飼いは全て、エジプト人が厭うものであったのである。
                                              【創世記46章28~34節】


「祈り」の灯を絶やすな!
 「祈り」という信仰行動は、「ろうそく」の火を灯す、そんな「小さな行動」のように思われます。しかし一旦「祈り」の灯が、神の「御心」として点火されますと、それは「野火」の如くに山々を焼き尽くす程、想像を絶する「勢い(力)」となります。私たちが生きている「今の時代」は、まさしく「ろうそく」の如き、「小さな群れ」の祈りの行動から、神は「野火」として私たちを用いる時、それは神の「御心」を拡大する、大きな原動力となる!こと、これを是非覚えて下さい。


 そうです!イエス・キリストの「再臨」の時には、私たちキリストの花嫁が、燃え盛る「熱情の炎」として、真の花婿を出迎えることになります。ヤコブの息子たちの中で、ヨセフは見た目には、「小さき(役に立たない)者」でした。しかし主なる神の御目には、彼は「前もって」取っておいた、神の「宝(器)」の如きものでした。


 神が「前もって」取っておくとは、私たちが例えば、「前もって」蓄える(預金する)」などの次元を意味しません。それは神ご自身が、私たちに対して「祝福」を与える!と、霊的に契約を交わした以上、それは「永遠に責任を果たす」べく、あらかじめ(前もって)祝福の領域に、私たち入れておく(導く)ことを意味します。つまり主なる神は、ご自身の為された「約束」を、決して違えること無き方です!


 主なる神がアブラハムに対して、永遠の「契約」を交わした以上、それは後のイサク、ヤコブ、そして「今の時代」の霊的ヨセフ(私たち)に至るまで、偉大なる神の「祝福」が継続していること、これを是非「祈り」という信仰行動を通して、私たちは謙虚に信じながら、益々「この世」に灯し続けましょう。


ゴシェンという「選びの地」
 今回の記事に登場する「ゴシェン」という土地は、イスラエルの民にとって、主なる神が命じた「約束の地」、つまり最終ゴールではありません。これを先ず覚えて下さい!「ゴシェン」も、確かに神が「前もって」取っておいた、豊かな土地ではありますが、これは神の「祝福」を、更なる高き次元へと導く、一つの霊的「ゲート」であります。彼らがこのゲートを、如何なる信仰をもって開き、そして通過したのか?そこが重要ポイントとなります。


 私たちは「この世(エジプト)」にあっても、単なる「寄留人」に過ぎません。元々「ゴシェン」は、ファラオの直轄地ではありますが、そこは王の管理する牛・羊等の放牧地ということで、エジプト人が住むには適しない、というより忌み嫌う土地でした。ところがそこには、遊牧民や外国人たちが、多く寄留していました。恐らく「寄留税」を払ってではありますが。ところが「ゴシェン」の地は、肥沃な湿原が広がる、「良き土地」という利点はあるのですが、一つだけ「欠点」がありました。それは度々「洪水」に襲われる、被災確立が高い地域である!という点です。


 ヨセフに与えた、主なる神の卓越した「知恵」は、エジプト人の「妬み」が起きる前に、彼らが蔑んでいた土地(ゴシェン)に、「寄留人」として引き下がった点です。その為ヨセフは、一族全員が再会できた時に、生き永らえるための「知恵」を、神の「啓示」として伝授しました。その神「知恵」の具体的内容は、ファラオからの第一の質問は、恐らく一族の「職業(営み)」に関することであるが故に、その返答として「私たちは皆、牧畜という卑しい仕事に従事しています!牛・羊の命を守るべく、王様のご慈悲にあやかりたく、御前に参上しました。」と、謙虚に回答するようにと。


 このヨセフの「知恵」は、今の時代に適用しますと、私たちが「何」の為に召し出されて、今生きているのか?という、霊的「召命観」に行き着きます。ある者は「私は神の栄光の為に!」と言えば、またある者は「私は伝道して多くの魂を救いに導く為に!」、もしくは「神の素晴らしい賜物をもって、多くの霊的実りを産み出す為に!」と誇らしげに語るなど、千差万別の回答があります。


 しかし聖霊様は、そのような「回答」を求めていません。聖霊様が、私たちに一番望む「回答」は、「私は元々、あなたの救いに預かる身分ではございません。神の偉大なる恵みを戴いているが故に、今このように生かされ、御前に出ることが出来ます。あなたの真実の救いを知らない、迷える子羊たちの為に、この卑しき私をどうぞ、存分にお用い下さい!私はご命令とあらば、何処にでも参る所存です。」という、へり下ったものです。


 ところでロトは、「繁栄の都市」ソドムとゴモラを目前にして、アブラハムと違った「職業」を選択しました。元々彼は、叔父のアブラハムと同一の「職業」に従事するべく、一緒にウルの地を去りました。しかし、彼は現実の「繁栄」を選択して、アブラハムの「職業」を放棄し、現実の世的「商い」に勤しむことを選択しました。


 それに対してアブラハムが、継続的に選択した「牧畜業」は、霊的には「神の命」に頼って生きることを意味します。この世(霊的エジプト)の人々は、私たちキリスト者に対して、次のようにからかうでしょう。「何故あなた達は、私たちのように繁栄を求めないのか?こちらの方が直ぐに儲かって、素晴らしい祝福を受けられるのに・・・・」などと。


 彼らは「神の命」の中にある、本当(真実)の「祝福」を知りません。その霊的果実である、天の「素晴らしさ」を知った者は、激しく奪い取るが如くに飢え渇き、かつ探し求め続けます。そうすることで、最終的に「安住の地」、つまり御国(霊的カナン)において、永遠に生き永らえることが出来るからです!その為に「ゴシェン・ゲート」を選択するのです。あくまで「寄留地」として。


 ヨセフの「先見の明(知恵)」は、その後「ゴシェン」の地、つまりエジプト人が居住しなかった、放牧に適した地を選択したことにより、「12支族」の実質的成長の土台となり、大いなる部族として拡大することになります。この「ゴシェン」の地で、彼らイスラエル民族は、民族的特質である、世の人々が忌み嫌う「職業」、住み付かない「場所」、卑しい「地位(身分)」等を、決して厭うのではなく、逆に積極的に選択するという、神の「知恵」による「生き方」が形成されました。


 この後「世界史」において、イスラエル民族の生活圏は、例えば人の住まない地が、次第に豊かな「繁栄の地」になったり、卑しい身分の者が、高貴な地位に出世するなど、民族的に「逞しく」成功して行くということで、世(一般社会)からの「妬み」が、度々「歴史」の中で繰り返されたことも、必然的な事でした。


 ヨセフは後々、イスラエル民族が被る、世からの「妬み」に対しても、常々兄弟たちに教え諭しました。「ここ(ゴシェン)は、あくまで寄留地であり、いずれはカナンに帰る準備を、ここで十分に整え、その時に直ぐに出立できるように!」と。


 私たちは「今」置かれている現状が、たとえ「悪しきもの」に映ったとしても、そこは真実の神が、あなた(私)を訓練し、大いに養い育てて、神の「救い」の実を産み出す、霊的「ゴシェン」の地であることを、是非アブラハムの如くに、「信仰の目」をもって捉え、謙虚に「祈り」の灯を掲げて参りましょう!


 主なる神が「前もって」取っておかれた、この豊かな霊的「ゴシェン」の地は、常にあなた(私)にも用意されています!最初は、とても「良い土地」には見えないかも知れません。しかし、あなた(私)が「ゴシェン」に住み、神によって取扱われることで、後の時代に「私のようなろうそくの灯が、こんなにも凄まじい野火となるとは!」と、驚嘆する程の神の「救い」が、あなた(私)の信仰の選択によって、必ず次々と拡大して行く、そんな霊的大収穫の時に、あなたは「大いなる者」として生かされ、かつ「前もって」取っておかれているのです!


 一旦始まった神の「野火」は、誰も止めることが出来ない程の、「勢い」となって現れ出ます。そういう意味で、あなたが益々、主イエス・キリストの「救い」を受け、聖霊様を通して、豊かな「召命」の炎を灯され、偉大なる神の「収穫」の御業に、日々刈り出されて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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