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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
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私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Good-Shepherd(No.10)

              リベカの開いた「信仰の扉」




・・・・妻リベカは身ごもった。ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは・・・・主の御心を尋ね求めるために出かけた。主は彼女に言われた。「・・・・二つの民が、あなたの胎の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」・・・・先に出てきた子(兄)は・・・・エサウと名付け・・・・その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかとを掴んでいたので、ヤコブと名付けた。
                                                                  【創世記25章21~26節】


神の「御心(ご意志)」を尋ね求めたリベカ
 今回の記事から分かることですが、リベカ夫婦には「19年間」という、長き結婚生活を経たにも関わらず、子供が授かりませんでした。恐らく彼女はこの間、様々に自分を責めたと思われます。しかし聖書には、この間のリベカの心境が、全く何も書かれていません。ここにリベカの持つ重要な霊的特性、即ち信仰の奥義が示されているのです。


 とにかく、彼女は自問しながらも、ひたすら祈り続けました。「主よ、どうしてでしょうか?」と。叩けども「答え(扉)」は見つかり(開き)ません。それでも祈り続けた結果、遂にその「祈り」は聞き届けられました(21節)。


 ところが月日が満ちて来る内に、どうやら「双子」が胎の中で、激しく動き回ることが起こり始めたのです。周りの経験者(年配の婦人たち)は、これを聞いて「これは(このまま行ったら)危険だから、何とかしなくちゃね!」などと、不安をあおることしか述べません。


 しかしリベカは、他人の「助言」などには、一切聞き入れることはせず、神の御前にかしこみ、更なる「祈り」を申し立てました。「主よ、これはどういうことでしょうか?貴方様の御心を示して下さい!」と。22節には彼女の「祈り」の目的が、明確に記述されています。直訳しますと「私の身に起こったこの事には、一体どういう意味があるのですか?」となります。つまり神の「御心」を尋ね求めることを、何よりも優先した彼女の信仰行動に、重要な奥義が示されているのです。


二つの「鍵」
 第一の奥義、それはアダム(エバ)に始まる、「善の鍵」と「悪の鍵」という。二つの霊的な「鍵」の働きを、私たちも知る必要があります。「善の鍵」をもって信仰を働かせますと、それは神の「御心」を尋ね求めるなど、必ず良き方向に行き着きます。しかし「悪の鍵」をもって、信仰(肉の信心)を働かせますと、それは必ず「悪しき実」を刈り取ることになります。


 ではリベカの場合、実際には如何なる「鍵」をもって、信仰を働かせたのでしょうか?19年間という「不作」の如き、長き年月の中にあって、彼女も一人のか弱き女性ですから、自分を責め立てる時が多々あったと思われます。しかし「答え(ゴ-ル)」が見えなくとも、彼女は神の「御心」に従う限り、必ず良き方向(実り)が成就する!ことを信じた結果、遂に待望の「胎の実」を得たのです。しかも同時に「二つ」という、測り知れない結果として。


 ですから双子が、胎の中で激しく動き回る「その時」も、彼女は「悪の鍵」をもって、慌て始めることは決してせず、むしろ神の「御心」に、全ての「答え」を見出すべく、「善の鍵」をもって更なる信仰を働かせたのです。「これには必ず、正しい意味(神の御心)があるばずだ!」と。


 祈り求める彼女の信仰に対して、神は預言的な啓示をもって、彼女に語られました。「あなたの胎の中にある動き、これには大いなる二つの意味(奥義)がある。先ずそれは二つの民族が、あなたの胎から始まることを意味する。しかし注意しておきなさい!だからと言ってそれが、二つ(二倍)の祝福を意図しているのではなく、あくまで一通りである。これが二番目の奥義である。それ故あなたは、どちらの道が私の正しい心であるかを、しっかりと見定めなさい!」と。


 このように、リベカの預言的体験と信仰に基づく行動は、私たちキリスト者が、信仰の破船(正しい道を見失うこと)に遭遇した時に、如何なる「鍵」をもって前進するのか、その使用手順を教え示しています。つまり使用すべき「鍵」と、絶対に使用してはならない「鍵」のことです。


 リベカは双子を出産した後も、皆からの人間的助言に頼ることなく、ひたすら神の「御心」に沿うべく、聖霊様が与える「善の鍵」をもって、正しい道を選択しました。つまり「兄は必ず弟に仕える!」という、神の定めた指針に従って、二人の子を養育したのです。


 その際もリベカは、日本の戦国時代によく見られる、城主(夫)は「長男」を大事にするのに対し、奥方(妻)は対抗して「次男」を大事にするなど、夫婦で「跡目」を巡って対立し合うことは、絶対に為しませんでした。


リベカの「(prefer)」とは?
 ところで28節には、「〇〇よりも□□の方を愛す(prefer)」という動詞が記述されています。この言葉は、一般的に「aよりもb(c,d,・・・・)の方を好む(優先する)」という意味ですが、原語的には三つの深い意味があります。①(自らの位置より)前方に、ある貴い物を置ことうとすること、②aよりもbを好んで掴む(選び取る)こと、③他のものよりも、あるものを優先的に選ぶことであるが、その行為は好き嫌いの次元にはない。つまり、「もし・・・・になった時には、どう行動すべきか」など、単に現実を見て判断(選択)するのではなく、将来的なことを予測して、前進する(正しく選ぶ)ことを意味します。


 リベカは、二人の息子を育てていく上で、この「(prefer)」に関して、神の御心を何よりも大事なこととする、文字通り神の「御心」のみを優先しました。つまりアブラハムに続く神の祝福の継承者は、人間的な「慣例」に依らず、神の御心によって定まる故に、二人の息子の「取扱い」には慎重に対処したのです。


 神が示す「(prefer)」とは、私たちの「好き・嫌い」という、人間的な次元で選び取ることではありません。目に見える事実としては、何となく「現実」の方が、一般的に理解し易い(受け入れ易い)ことが多々あります。しかし「現実」ではなく、目に見えざる「神の事実」の中に、主なる神の麗しい「祝福」があるのです!


 そうです!私たちが本来、信仰をもって受け取るべき「鍵」は、リベカと同様の「善なる鍵(意志)」です。この「善なる鍵」をもって、信仰の扉を開け続けていく限り、大量の良き収穫を刈り取ります。


 しかしエサウの場合は、見た目に麗しい「事実」、即ち異邦人の女性に心が奪われ、「悪なる鍵」をもって、神の御心とは懸け離れた次元の中で、悪しき収穫を刈り取ることになります。


 さて、あなたは如何なる「鍵」を、自らの意志で受け取りますか?エサウのように、人間的な肉の意志(悪なる鍵)をもって、目に見える事実を頼みとすることは、いとも簡単なことです。しかしリベカの如くに、聖霊様の「導き」に従い、自らは「弱い者」であることを、常に自覚(意識)しながら、神の御心のみを「(prefer)」する、つまり「善なる鍵」を受け取り、信仰の扉を叩き、かつ大胆に開いて行きましょう!


 そうすれば必ず、あなたの信仰の行動に応じて、聖霊様が必要な「啓示」を与えて下さり、霊なる次元が肉の次元を支配する、自由な「キリストの僕」としての歩みが、豊かに確立され祝福されて行きます。神の自由な働き人として、あなたが益々祝福され前進できますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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