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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

バルナバ・ボイス(No.18)

イエス・キリストのEyes⑤


               医者を必要とする者は誰か?



イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「私に従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられた時のことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「何故、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・・・私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
                                                                                                 【マタイ福音書9章9〜13節】


マタイを見つめる二通りの視点
 ご存知のように、今回のストーリーに登場する取税人マタイは、『マタイ福音書』の著者本人のことです。福音書とは、イエス・キリストが直接人々に語った、神の国の「命の言葉」を記述したものですが、彼はイエス・キリストの福音を記述する過程で、自分の「存在(身分)」を、取税人のマタイとして紹介していることに、実は素晴らしい奥義が物語られています。マタイ(取税人)を含めて、他の十一人の弟子たち全員が、社会的には卑しい職業に従事していました。


 そしてマタイの場合、彼は卑しい職業の身分にあった時代のことを、「私はかつて、多くの人々から蔑まれ嫌われていた。しかし私は、真の救い主イエス・キリストに出会ってから・・・・」などと、イエス・キリストとの出会いを通して、如何に自分が変革されたのかを、この福音書を書き進めていく中で、赤裸々に「事実」として記述しました。つまり、自分とイエス・キリストとの関わり合いの中で、如何なるアイデンティティ(本来の自分)が確立されたのか?その最初の出会いの重要な出来事を、イエス・キリストだけは自分のことを、「(蔑むことなく) 見かけて」(9節)と記述(証言)した訳です。


 しかし、このストーリーの中に登場する、イエス・キリストのグループとは反対の立場、つまりファリサイ派グループの視点は、11節の記述に見受けられるように、マタイと共に食事をする人々に対して、「罪人(outcasts)」というレッテルを貼る類のものでした。「outcasting」とは、①除外扱いされた、②虐げられた、③見捨てられたような人々、という意味合いの言葉で、動詞の「outcast」自体が、既に他者を裁いて見下す(out cast)という、裁きの視点に立っている言葉です。


 かつてのマタイは、一般庶民から税金を徴収する仕事柄、「人」をお金(資産)という基準だけから視る(判断する)、そのような卑しい人物でした。その為、人々から尊敬される(好感をもたれる)ことはなく、むしろ敬遠され疎まれるという、いわゆる「孤独の人」でした。洗礼者ヨハネよりも、偉大な預言者(イエス・キリスト)が、自分の住む町に来られるという噂を聞いても、恐らく自分のような卑しい身分の者には、会って下さることは有り得ないだろうと、殆ど諦めていたのですが、それでも彼は内心「一度でいいから、イエス・キリストにお会いしたい!」という、純粋な飢え渇きがあったものと思われます。そのような時に、イエス・キリストがわざわざ、マタイの職場に立ち寄られ(訪問し)たのです。


医者を必要とする者とは?
 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」(12節)私たちは、イエス・キリストのこの御言葉の「理屈(真理)」を、十分過ぎるほど知っています。医者の仕事は、健康(五体満足)な者を診断するのではなく、何らかの「病い」を患って、苦しんでいる人々を治療することです。同様にイエス・キリストが、「この世」に来られた真の理由は、「自分正しい。自分は罪人ではない。自分はルール(律法)を守っているから大丈夫だ!」と思っている当時の宗教家集団に対して、彼らとは逆の「福音」を説きました。つまりイエス・キリストは、人間関係の中で差別的待遇を受けている人々や、生まれつき「呪われた家系」などの、悪しきレッテルを貼られた人々、そして今回の主役であるマタイなど、卑しい職業に就いた人々の元を訪問し、彼らの「苦しみ」や「問題」などを、全て一掃し解放するために、自分は父なる神から「救い主」として遣わされたことを、マタイの家で説かれたのです。


 日本社会において、かつては経済的な面で中産階級の人々が、より多く存在していたのですが、今日の経済情勢から判断しても、「勝ち組(富める者)」と「負け組み(低所得者)」という、二極化(格差社会)が進んでいます。しかしイエス・キリストは、そのような日本社会に暮らす人々の中にも、必ず訪れて下さる方です。今日の日本という国家は、霊的に一つの「体」として見るならば、決して健康的(健全)な国家とは言えません。ある面で、様々な部分に「歪(霊的な病い)」が生じてしまい、「将来は、一体どうなることやら?」などの社会不安が増加しています。今回のストーリーの、最重要ポイントとして覚えて戴きたいことは、「真の医者であり、救いと解放をもたらす方は、イエス・キリストだけである。そして、この方が来られた目的は、将来に対して不安を抱く人々や、自分の生活環境の中において、様々な問題で苦しんでいる人々を救うべく、必ず訪れて下さる!」という、断固とした信仰を持つこと、そしてその「事実」を人々に証言していくことです。


従って来なさい!
 マタイを取税人として見る人々の視線は、その殆どが軽蔑し嫌悪する(見下す)類のものでした。しかしイエス・キリストの場合、彼はマタイのことを対等の者として取扱うべく、その人の「霊」に直接向き合う、そのような視線をもって、マタイのことをご覧になられました。そして、イエス・キリストはマタイに対して、他の弟子たちの時と同様に、「私に従いなさい」(9節)という、神が定めた彼の本来の人生に対する、「正しい答え」を示されたのです。この御言葉は究極的には、彼(マタイ)が従事している、今の仕事(取税業)を放棄することを意味します。マタイは、イエス・キリストから命じられた、この御言葉を聞いた瞬間に、「何もかも捨てて立ち上がり」(ルカ福音書5章28節) イエスに付き従いました。つまり彼は、今まで税を取り立てて築いた財(資産)ばかりでなく、彼の取税人としての委託的権力(ローマ帝国による資格)をも放棄したのです。


 彼が、イエス・キリストの「ご命令」に信頼し、その通りに大胆に実行するという、「思い(決心)」と「力」を与えたのは、まさしくイエス・キリストの唇を通して語られた、父なる神の「命の言葉」によるのです!三次元的な判断、つまり常識的に考えるならば、私たちはこの「御言葉」に躊躇し、最終的には反抗(言い訳)します。ところが、イエス・キリストが語られる「言葉」というものは、それが聖書を読んで示される御言葉であったり、或いは祈りを通して示される「啓示」や「教え」、またある人を通して語られる、神からの「預言」や「知恵の言葉」であっても、その「御言葉」は必ず成就する!このことを覚えて下さい。イエス・キリストが「命の言葉」を発せられた以上、それはシャボン玉のように、最初は空気中に浮かんで目に見えるものであっても、いつかは弾けて消滅してしまう、そんな低レベルの次元には存在しません。必ず語られた(発せられた)以上、それには「成就する!」という、神の責任(摂理)も伴ってくるのです。


 それ故、この「私(イエス・キリスト)に従いなさい」という御言葉の中にも、父なる神の「保証」が同時に与えられています。しかし、私たちはその「保証の時」を、自分の時の概念で勝手に推し量るため、それが早く成就しない場合に、不信仰に陥ってしまうのです。「神の時至りて、父なる神の命の言葉は、必ずその通りになる!」これが私たちの持つべき、正しい信仰姿勢です。私たちに与えられる「命の言葉」は、植物の種の成長法則と同様に、今は「実(結果)」が目に見えてこないかも知れません。しかし、神の定められた「その時」に、必ず結実の時を迎え、私たちは「まさしく神の為されることが、全てがアーメン(その通りになる)!」と、告白できるものなのです。それ故、ユダを除いた弟子たち全員が、イエス・キリストの語られた「私に従いなさい」の御言葉に、全面的に放棄し従順しました。ところがユダは、自分の大事な「財布」だけは放棄せず、いつも懐に入れていたのではないでしょうか!


 イエス・キリストの視点から見る限り、「義人」は一人もいません!全ての人々が「罪人」、つまり真の医者なるイエス・キリストの、霊的な訪問診療を必要とする者なのです。「義人」に至る道は唯一つ、即ちイエス・キリストの「命の言葉」のみを欲し、その御言葉に聞き従うことです。しかし私たちは、ご存知のように神の「命の言葉」よりも、自分の「考え(判断)」や「計画」などを優先し、それに従う(自分の力で遂行する)という、愚かな道を歩んでいます。


 真の医者(イエス・キリスト)を必要とする者は誰ですか?あなたはその一人ですか?もし真の医者を求めるのであれば、私たちは素直に自分の「罪」を認め、「義人」に至る道、つまり神の「命の言葉」に、全面的に聞き従って参りましょう!ユダやアナニヤ・サッピラの如くに、懐の中に「自分のもの」を残しておくこと、これは神に「聞き従う」ことではありません。イエス・キリストに、全面的に聞き従う「あなた」の元に、いつか必ず「誰か」が訪れることでしょう。それは「あなた」の中にある、イエス・キリストによる「真の救い」が、確実に目に見えてくるからです。


 病人が医者の「診断」を必要とするように、多くの人々が「あなた」に訪ね求めて来ることでしょう。「その時」に、あなたは「何」を提供するのでしょうか?それは、イエス・キリストの「命の言葉」を伴う、次のような明確な「証言」です。「私はイエス・キリストを、自分の救い主として信じた時から、今に至るまで何も心配すること無く、父なる神が必要なものを備えて下さっています。たとえ苦しい時にも、何か困った不測の事態に陥った時にも、父なる神はその困難から(私を)過ぎ越して下さり、神の定めたその時に、必要な救い(恵み)を施して下さいます!」と。


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