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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

バルナバ・ボイス(No.17)

イエス・キリストのEyes④


                   信仰をご覧になられる方



イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群集に阻まれて、イエスの元に連れて行くことが出来なかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴を開け、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。・・・・そして、中風の人に言われた。「私はあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
                                                                                                        【マルコ書2章1〜12節】


 「中風」という病気は、現代においても数多くの、特に老齢期の人々が患う、いわゆる脳内の血管が詰まることによって起きる、脳梗塞或いは脳血栓などの病気のことです。ご存知のように脳梗塞は、体中の神経組織を司る、脳内の中枢神経を破壊するため、立ち上がって歩行したりするなどの、基本的な運動神経を麻痺させたり、又ある時には言語障害を引き起こすなど、様々な機能障害をもたらす重病の一つです。


 今回のストーリーに登場する中風患者は、四人の知人(友人)の力を借りて、担架で運搬してもらわなければならない程、一生寝たきりの状態という、重度の中風を患っていました。彼がいつ、この「病」を患ったのか定かでありませんが、この時点では何も「希望」が見出すことが出来ない、いつか近い将来に体力も底をつき、あとは「死」を迎えるだけの日々を、彼は過ごしていたものと思われます。そして彼は、四人の知人に対して(話すことが出来たのか分りませんが)、常に訴えかけました。「俺は動けなくて、とても痛い(苦しい)!」と。それ故、彼らは友を助ける(介護する)中でいつも、彼らの生きている時代(この時)に、自分たちの大事な「友」を、救い出す(癒す)ことの出来る、真の「預言者(救い主)」を待ち望んでいたのではないでしょうか。


人体を構成する三つの「領域」
 私たちの「霊」の中には、生まれつき「何か」を信じようとする心、そして「何か」に頼りながら生きていこうとするなど、いわゆる「信仰(信心)」が備わっています。これは私たちの創造主である、父なる神が「最初の人(アダム)」を創造する際に、最初は土の塊に過ぎなかった、伏した粘土の「物体」の中に、ご自分の「命の息」を吹き込んだプロセスに由来します。「命の息」を注入された土の物体は、その瞬間に死んだ(動かない)状態から、生きる(動き出す)物体へと変えられたのです。その時に、創造された側のアダムが、如何なる「思い」を抱きながら、起き上がったのか定かでありませんが、彼は伏した状態から立ち上がった瞬間に、自分が「命ある者」として、自然に上(天)を見上げたのです。


 ところでイエス・キリストは、私たちの如何なる信仰の行動(表明)を、いつもご覧になっておられるのでしょうか?そして見られる側の私たちは、イエス・キリストの「眼差し」に対して、如何なる「思い」をもって見るのか?これが非常に重要なポイントです。「中風の者」が、「見る」という視覚機能において、果たして正常であったのか、マルコは何も記述していませんが、彼の四人の知人たちは、イエス・キリストがカペナウムの町に来られたことを知るや否や、彼らはイエス・キリストに直接お会いして、「訴え出なければならない!」という強い思いから、このような突拍子もない信仰の行動に移ったこと、この点に私たちは注目すべきです。


どうか、平和の神ご自身が、あなた方を全く聖なるものとして下さいますように。また、あなた方の霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、私たちの主イエス・キリストの来られる時、非のうちどころのないものとして下さいますように。
                                                                                                   【第1テサロニケ5章23節】


 私たちの「人体(Body)」は、主に三つの領域に分かれます。先ず物理的に様々な弱さ(弱点)を持つ、主要な①肉体があります。次にその肉体の中には、「感情」「知性」「認識(判断)」を司る②魂があり、そして魂の中心部には、③霊が存在して(創造されて)います。この三つの領域(働き)は、複雑に絡み合って(作用し合って)動いています。そしてこの三つの領域、つまり私たちの「人体」は、外側からの精神的な「ストレス」や、病原菌(ウィルス)などの外的要因により、様々に攻撃されることがあります。更に、自分のライフスタイルを一変させる程の、「新しい変化」などに対しても、私たちの「人体」は様々な反応を引き起こします。


 しかし神が最初に創造した、アダムの本来の「人体」というものは、そのような外側からの「動き(作用)」に対して、全くと言ってよいほど心配することの無い、神の臨在が「人体」を覆っていたことにより、「免疫機能」が完備されていました。「肉体」を外的から守る健全な体力、そして「魂」を安定させる聖なる力、そして「霊」の中心部には、神ご自身が住んでおられることで、アダムは何も心配する必要が無かったのです。ですから彼は、いつでも神の「新しい変化」にも順応することが出来ました。


 ところが、彼ら(アダムとエバ)が罪を犯した結果、②魂の領域に悪魔サタンがもたらした、「古い言葉」が次々と注ぎ込まれ、「私は、何でも自分の思う通りに、自由に動くことが出来る!」という、自意識(自己中心的な思い)が芽生えたのです。そのため彼らは、それまで「エデンの園」においては、神の聖なる覆いにより、外側からの働き(攻撃)が全く無かったのですが、急に防御反応を示す形で、ハダカの状態(生活)を変え、外側から身を守るべく、何かを身にまとうという、ライフスタイルになりました。


「弱い体」に働かれる方
 ところで私たちは、「免疫機能」について次のことを知っています。私たちの「人体」が、外側から侵入する病原菌(ウィルス)に対して、いくら対抗手段をとって防衛したとしても、私たちの「魂」が萎え、「肉体」の力が失せた時に、私たちの「人体」に潜んでいる、キラー細胞が活動し始めて、免疫機能を司る主役的細胞、つまり「白血球」や「血小板」などの活動を低下させ、遂には悪性の腫瘍を出現させることになります。それ故、私たちの「人体」が正常に活動している時には、免疫機能も活発にその役割を果すことが出来るのですが、その働きが低下し始めた時には、一気にキラー細胞の破壊活動により、私たちの「人体」は損なわれるのです。


 使徒パウロが述べる、「同様に、霊も弱い私たちを助けて下さいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成して下さるからです。」(ローマ書8章26節)の御言葉の如くに、私たちの「人体」は、アダムとエバの犯した「罪」により、弱い「体」であることを知って下さい!物理的な「肉体」ばかりでなく、魂的(精神的)な「体」と霊的な「体」も、実は弱い器であるからこそ、「助け主」を切に渇き求める、これが正しい信仰の行動です。弱い私たちを神が必ず助けて下さる、それ故私たちは「主」を仰ぎ見るのです。


 このストーリーに登場する「中風の者」は、霊的に見るならば、私たちの内なる「霊」を指しています。私たちの内なる「霊」は、まとわりつく「罪」や、何らかの悪しき働き(要因)によって、まともに立ち上がることも歩き回ることも出来ない、まるで「中風の者」に似通った症状にあることを、あなたはご存知でしょうか?私たちの「霊」は、本来の人(アダム)が欲していた次元、つまり父なる神の聖なる臨在に覆われて、自由に生きることを強く望んでいるのですが、感情に支配され(流され)易く、三次元的な知性(判断)で物事を見てしまうなど、魂的な要因によって、「霊」の欲する正常な次元に生きられません!しかし聖霊様は言われます。「あなた方が強いと思っている 限り、私は働くことが出来ません。それ故あなた方も弱い器であることを知り、私の助けを求めてイエス・キリストの元に出て来なさい!」と。「中風の者」は、弱い「体」であったが故に、四人の知人の「助け」により、イエス・キリストの御前に出ることが出来ました。


四人の「眼差し」に応えられる
 彼ら四人は、名も無き「普通の人」でしたが、「中風の者」が本来の人生を全う出来るよう、以前よりイエス・キリストを捜し求め、遂に「その時」至りて、イエス・キリストの御前に出るチャンスを得ました。ところが現実は、イエス・キリストの一行を、大勢の群集が既に取り囲んでいたので、とてもイエス・キリストの御元には、近付くことが出来ない状況にありました。彼らは、一生懸命に群集をかき分けて、イエス・キリストの元まで進もうとするのですが、「中風患者」や「ハンセン氏病患者」に対して、世間の目は冷たいこともあり、殆ど不可能な状況に追い詰められた彼らは、思わず「天」を仰いだのです。「主なる神よ、もう不可能です!私たちの力では限界です!このままの状態が続いたら、私たちの友は弱り果てて死んでしまいます!」と。


 すると、ある屋敷の屋根が目に飛び込んで来ました。しかも、屋根に昇る階段が近くにあり、屋根を伝って行けば、群集の中心部(イエス・キリストの居ます所)に、何とか近付くことが出来ると分ったのです。彼ら四人は、どこからロープを持って(捜して)来たのか分りませんが、各自がロープを担架の両端に、頑丈に結び付けました。ここから分ることは、神の為される「ご計画」には、必ず神の定めた「方法」に従って、必要な「備え」が存在することです!


 それから彼らは、群集の中心部に居るイエス・キリストの御元へと、担架に乗せられた中風の友人を、遂に降ろして行く段階に入りましたが、未だ彼らの実行を阻む最後の難関、つまり屋根をはがす作業が残っていました。彼らは屋根の下部に、群集が居ることを承知の上で、屋根板をはがし始めました。当然この家の主人は、自分の屋敷の一部が壊されていることに激怒して、大声でストップ命令を下すのですが、彼らは「イェス様の元に降ろせば、何とかなる!この事態を乗り切ろう。」と、必死に担架を入れる分(スペース)だけ壊した後、ロープを少しずつ緩めながら、担架を一階の間に降ろしました。遂にイエス・キリストの御元に、まるでリフト(エレベーター)が降りるかの如くに、担架が吊り降ろされました。イエス・キリストは当然、事の成り行きを最初から見守っていました。そして屋根の上から下を覗いている、四人の友人たちの「眼」を見た時に、その中に「何か」を見出したのです。


 前述したように、私たちは「弱い器」です。もし彼ら四人に、「強い!」と自覚する思いがあるとしたら、このような三次元的に見て、愚かな行動を採りません。「弱い」からこそ、助けて下さる方(神)に依り頼んで、「イェス様の御元に行かなければ、この大切な友は助からない!それ故我らは、どんな恥を被ってでも、彼をイェス様の元に連れて行こう!」という、彼らの激しい「友愛」と、この突拍子も無い行動に移った「信仰」を、イエス・キリストは見出したのです。又彼らの真剣な「眼差し」が、ご自分の「眼」に集中していたからです。彼らの「眼差し」の中にある、「主よ、あなたでしたら必ず出来ます!私たちは弱いのです。もうこれ以上、何も為し得ません!どうぞ助けて下さい。」と訴え出る、「信仰」の叫びを聞いた瞬間に、イエス・キリストは「私の愛する息子よ、あなたを蝕む悪しき罪の全ては、私の名の権威のもとに赦され(一掃され)、新しい健康な体が今この瞬間に備えられる!」と即答されました。


二通りの反応
 私たちの信仰生活の中に、父なる神の「取扱い」や「促し」、また預言やメッセージを通して「導き」を与えられた場合に、私たちは二つの反応を示します。第一の反応は、彼ら四人の信仰の行動の如くに、聖霊様を通して自分の「弱さ」を示されながら、「イェス様だけが全てを赦される方です!それ故、私はイェス様の御元に行き、必死に依り頼みます!」と、はいつくばってでもイエス様の御元に、駆け寄る謙虚な反応(姿勢)です。それに対して第二の反応は、この時の群集の中に存在した、冷めたグループ(律法学者やパリサイ人など)の如くに、「何を偉そうに言うのだ!お前の言うことなんか聞かない!むしろ、こんなに騒がしい状態を引き起こした、彼らを叱っても良さそうなのに。何たる神への冒涜か!私たちの流れを汚そうとするとは。」と、イエス・キリストの「権威」に、あくまで逆らう(拒絶する)態度です。


 実は私たちの「肉体」も、二通りの反応が生じます。肉体に対して免疫機能が、正常に働いている場合には、外側からの悪しきウィルスに対して防衛すること、つまり素直に反応することが出来ます。ところが「体」が弱り、その機能が低下して行きますと、前述したキラー細胞に「体」が妥協するなどして、抗生剤を注入(服用)しても、逆にそれを受け付けない「体」になってしまうのです。私たちの「肉体」でさえ、このような二種類の反応があるのであれば、なおさら神が与えて下さる新しい「賜物」や「変化」、そして「導き(取扱い)」に対して、古い自我を頼みとする私たちの「魂」は、第二の反応(神への拒絶)をしがちなのです。使徒パウロが述べるように、私たちの「霊」は常に、この「魂」に支配されているのです!


 では、どうしたら「魂」の支配から脱却できる(霊的に解放される)のでしょうか?彼ら四人は、「人」を見て恐れながら生きるのではなく、イエス・キリストの「命の言葉」のみを求め、イエス・キリストの為される、「救い」の御業に依り頼む生き方を貫きました。そのような人々は、必ず自分の中にある「弱さ」を、アピールし(素直に認め)ます。そうです!「弱さ」の中に働かれる、イエス・キリストに依り頼むこと、これが霊的解放への第一ステップです。イエス・キリストは、私たちにも「愛のメッセージ」を投げかけています。「私の愛する息子(娘)よ、私の元に来なさい!私があなたを癒す主である。そして、あなたの罪を全て赦す者である。」と。イエス・キリストの「命の言葉」に聞き従った彼らは、まさしく「中風の友」が癒されるシーンを、直接見ることになったのです。


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