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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

正しい生き方(No.17)

                    神の落穂を拾い続ける




・・・・ルツが・・・・腰を下ろすと、ボアズは炒り麦をつかんで与えた。ルツは食べ、飽き足りて残す程であった。・・・・ルツはこうして日が暮れるまで落穂を拾い集めた。集めた穂を打って取れた麦は一エファ(約11kg)程にもなった。・・・・ルツは、誰の所で働いたかを姑(ナオミ)に報告し・・・・ナオミは嫁ルツ答えた。「私の娘よ、素晴らしいことです。あそこで働く女たちと一緒に畑に行けるとは。・・・・」ルツはこうして・・・・刈り入れが終わるまで・・・・落穂を拾った。
                                                                         【ルツ記2章14~23節】


「新しい道」を踏み行く
 いよいよルツは、神によって「開かれた道」に入り、一歩一歩と前進することになりますが、当初は何らかの「恐れ(心配)」もありました。しかし「行ってみれば、どうにかなる!」という大胆な信仰から、「たまたま」神の導きにより、踏み行くことが出来た結果、その地の有力者(ボアズ)の「大農園」にて、落穂を拾うことになります。


 当然彼女は何も知りません。しかし彼女は、ボアズとの出会いを通して、まさしく主なる神が、自分をここに導き、「新しい道」を開いて下さっていることを確認し、神の確かな「導き」を感謝することになります。早朝から晩まで、彼女は黙々と「落穂」を拾い続けました。不思議なことですが、その間「縄張り争い」、即ちそこで働く女たちと、新参者のルツとのトラブルが、何も起きませんでした。


 恐らく大農園の主人ボアズの、並々ならぬ「指導(統制)力」が、全てに渡って行き届いていたことが伺えます。ボアズは「落穂」を拾う、か弱き者に対しても、惜しみなく与えるという、恵みに満ち溢れた人格を持ち併せていたが故に、集まって来る人々は争うこと無く、自由に拾い集めることが出来ていたのです。


 ここで覚えて戴きたいことは、彼女は今回の収穫時期に、毎日「落穂」拾いに出かける訳ですが、それは「たった一人」の行動(労働)である!という事実です。私たちは、一日(約8時間)働くことも、やっとこさの人間です。しかしルツは、たとえ昼休憩(1時間)があっとしても、日の昇る頃から、日の沈む時間までですから、恐らく12時間前後の労働となります。


 彼女が若いから出来るとは言え、毎日同じことを繰り返すとなれば、大抵の人は「交替」を要求するか、数日休暇を取りますが、ルツは信仰をもって、毎日「落穂」を拾い続けたのです。


「落穂」拾いの意味
 さて、私たちにとって「落穂」を拾うとは、如何なる意味を持つのでしょうか?「落穂」を拾う作業は、経験した者でなければ分からないのですが、はっきり申し上げて大変です!何故なら「落穂」自体が、一箇所に多く落ちている訳ではなく、点々ばらばらに落ちているため、多く収穫するためには、広い範囲を長時間隈なく歩き回り、同時に拾い集めた束を抱え、集めていく中で束が重くなるなど、体力勝負の重労働となります。


 「落穂」拾いは三次元的に見るならば、卑しい(恥ずべき)行為に映ります。プライド(身分)の高い者は出来ない作業です。しかし霊的次元で、この「落穂」拾いの行動を見る時、それは第一に①「神の事実」が、私たちのために前もって、豊かに備えられたものである!ことを確認することが出来ます。ルツは確信していました。「そこに行けば、神の豊かな事実があることを確認でき、神が開かれた道には、必ず豊かな落穂があります!ですから私は、より多くの落穂を拾い集めて来ます!」と。


 第二に②自分の「肉の力」で耕作する必要が無い!という点です。他の農夫たちは、当然大きな農地を先ず耕作することから始めます。しかし「落穂」に関しては、ただ「拾い集める」という作業で済みます。つまり土地を耕す作業には、従事する必要がありません。


 第三に③(これから集める)収穫量が算出できない!という点です。「計算できない」ということは、肉の次元においては「辛い」ことですが、霊の次元においては「信仰の秤」を使用するなど、ある面冒険心を掻き立てます。そうです!「明日(の量)は分からないが、明日の糧を守られる主なる神が居ます!」という、素晴らしい「信仰の秤」によって、私たちは日々前進するのです。


 第四に④その日に十分な量のみを、必ず集められる!こと、しかも「神の子」としての信仰によって集め続ける!という、大胆な信仰行動をもたらすことです。つまり、私たちは「世の奴隷」ではなく、「神の事実」の中で自由(大胆)に、その産物(落穂)を拾い続けるとの出来る、神の子(実子)なのです!


尽きることの無い「天の保証」
 結論になりますが、尽きることの無い「保証」を与えてくれるもの、それが今回の記事の最大の奥義です。ルツは何も計算していません。ただ収穫の初日に出かけて行っただけです。それ(落穂拾い)がずっと続くという保証はありません。しかし彼女は、主なる神の「恵み」を信じて、落穂を拾い続けた結果、農地の所有者ボアズに出会い、収穫の終わるその日まで、拾い続けることの出来る「継続保証」を、優先的に与えられたのです。


 ルツはその特権ともいうべき「保証」を、後で知ることになります。ルツの信仰行動、即ち一歩ずつ前進しながら、一本ずつ拾い集め続ける、その「落穂拾い」に、尽きることの無い「保証」が、神によって豊かに注がれることになります。そうです!「落穂」とは、天から降り注がれる、神の豊かな「保証」を意味しています。


 時折私たちは、神の「恵み」に対して、まるで「たった一本(一度)ではないか!」などと、不信仰の言葉を吐きます。これは三次元的事実に縛られた状態を現しています。しかし、たとえ今日の「恵み」が、「十本」しか得られなかったとしても、それが「明日」につながる、豊かに尽きることの無い「保証」を、実はスタ-トさせることになります。


 仮に「終り(尽きること)」が無い!と分かったら、私たちは(三次元的縛りから)解放されることになりませんか?私たちは「(もしかしたら)終る(尽きる)かも?」と考えるから、遂々「蓄える」ことを始めるのです。これは「この世」の考え方です。


 たとえ私たちの目前に、「世の君(反キリスト)」が出てきて、「666の認証コ-ドを受けない者には、金銭の取引権・商品の売買権・食料品やエエネルギ-の配給等は、一切与えない!」と命じたとしても、私たちは恐れる必要がありません!何故なら、尽きることの無き真の「命の水」は、真実の花婿(イエス・キリスト)からのみ、信じ続けて渇き求める者に、惜しみなく無代価で与えられるからです。


 ルツの大胆な信仰行動の結果、彼女は将来の真実の花婿(ボアズ)との出会いを通して、尽きることの無い「保証(権利)」を与えられ、最終的にはボアズの花嫁となります。聖霊様は激しく、私たちに問いかけます。「あなたは霊的に、如何なる身分の者ですか?あなたは世の奴隷ではなく、神の御子イエス・キリストの、正式な花嫁ではないのですか?」と。


 どうか、あなたが真実なる方、主イエス・キリストの「落穂」を、一本一本と拾い続け、その豊かな「恵み」を確認できますように!神の道は開かれています。あなたが一歩進む度に、「恐れ」と「不安」が消え去り、神の真実の「愛」が、尽きること無く豊かに満たし続けますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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