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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

Good-Shepherd(No.7)

                        神による強制介入




・・・・彼らの一人が言った。「私は来年の今頃、必ずここに来ますが、その頃には、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。・・・・サラは密かに笑った。自分は年を取り、もはや楽しみがあるはずも無し、主人も年老いているのに、と思ったのである。主(客人)はアブラハムに言われた。「何故サラは笑ったのか。・・・・主に不可能なことがあろうか。・・・・」サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「私は笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」
                                                                         【創世記18章9~15節】


「サライ」から「サラ」へ
 今回の記事は、サラの人生にとって、最高の「出会い」の時になります。突然「サライ」から、「サラ」と呼ばれるようになった、彼女の信仰の状態は如何なるものだったのでしょうか?


 「サライ」という名は、日本の名前で喩えるなら「幸子」となるでしょう。当然の如く、命名する両親にしてみれば、「幸せ」多き娘となるように!つまり良き伴侶に出会い、多くの「子宝」に恵まれる、そんな祝福多き人生を、愛する娘に願った名前です。


 ところが現実のサライは、良き結婚はしたものの、何十年たっても「子宝」に恵まれない!という、「不幸」極まる人生でした。そのうち彼女は、自分たち直々の子孫を諦め、義理の甥ロトの子孫の「繁栄」を見て、そこに一族の繁栄を託す(継承する)という、悲観的人生観に浸るようになりました。


 しかし夫がある時、突然に自分の名を「サラ!」と呼び始めた訳ですから、たまったもんではありません。「あなた!私を馬鹿にしているの?いい加減にして!」と怒り出す始末。それでも夫は「サラ」と呼び続けます。


 サラの人生は、まるで迷子の如くに、様々な境遇に翻弄されるものでした。そして最終的には、「もう私の人生は駄目、終わったのよ!」と嘆く、そんな不幸多きものでした。そうなると人間の基本的感情である、「喜」「怒」「哀」「楽」の内、「喜び(笑い)」が喪失し始め、しまいには「希望」無き、絶望状態に陥ります。


「客人」の突然の訪問の目的
 余りにしつこく、「サラ!」と呼び続ける夫に対して、彼女は人間的な「計画(判断)」から、召使ハガルを夫の寝所に遣わし、見事にハガルは懐妊します。その瞬間サラは、一時的にも「喜び(笑い)」を取り戻しますが、これは真実の「喜び(笑い)」ではありませんでした。


 その後夫との間に為されるべき、「愛(親しき交わり)」を遮断(拒絶)し始めた結果、「信仰の扉」を開けるのではなく、逆にサラは「死の扉」を、遂に開ける(準備する)段階に至った時、突然に三人の神の「使い(客人)」が訪問したのです。そうです!神の「使い」の突然訪問、これこそがサラに対する神の「強制介入」でした。


 「あなたの本当の人生は、あなたが今まで苦しんできたような、そんな人生ではない!サライではなく、サラとして名付けた以上、あなたと夫との間に産まれる子が、あなたに対する約束の子である。」という、神の大いなる預言(約束の言葉)を携えて。


 この客人の訪問の最大の目的は、崖っぷちから落ちそうになる、一頭の迷える子羊を、自らの杖と手をもって贖い出す、真の羊飼いイエス・キリストの、「救い」の働きと同様のものです。「不可能(不信仰)」という名の閉じられた扉を、強制的にこじ開けること、これが今回の訪問の目的でした。


 私たちに対して働かれる(取扱われる)、主なる神の最大(本当)の目的は、私たちが後退することではなく、今まで自分が封じ込めていた、様々な「不信仰の扉」を強制的に破壊することで、次に与えられる「信仰の扉」を開け、一歩一歩と前進することにあります。


 突然の「客人」の訪問に対する、接待と食事の準備をする傍ら、サラの耳に驚愕すべき(信じられない)、客人の言葉が聞こえてきました。「アブラハムよ、来年の今頃になったら、遂に主なる神があなたのために、約束の子イサクを、サラの胎の実として与えているから。」と。


 その瞬間、サラは固まりました。「この人たちは、主人(アブラハム)と同じで、ちょっと頭が狂っているのかしら?」と。そして彼女は、自分の姿(現実)を見る訳です。老いて指先がスム-ズに動かない手、しわがれた声、艶が無くなり白髪が多くなった頭、張りの無くなった顔等、溜息だけが多くなる日々の生活。


 客人の言葉に対して、現実の自分を見て比較した時、彼女は思わず笑ったのです。「そんなことは在り得ない!」と。その瞬間、聖霊様が緊急に介入され、客人の一人が夫に問い質す形で、彼女に間接的に優しく語りました。「サラは笑いましたね?主なる神に不可能なことはありません!来年の今頃、サラに男の子が必ず産まれています!」と。


 本来であるなら、不信仰から笑ったサラに対して、厳しく戒めるべきところですが、聖霊様は基本的には「優しい紳士の如き(getle)」方です。サラに対して個別的に相対するのではなく、夫と共に同席させる形で、つまり夫婦は一体であり、神の祝福(約束の成就)は同時に与えられる!ことを、優しく教え示したのです。


 客人の優しき語りかけを聞く内に、サラは一瞬「黙秘」を貫こうとしましたが、聖霊様の働きかけにより、自分の粗相を詫びましたが、自分の為した様々な「事実」を、全て知っておられる神(客人)の「御目(御計らい)」に気付き、身の震える程の畏敬の念に駆られました。


真の「笑い」を与える方
 「いや、あなたは確かに(心の中で)笑ったのですね-!」と、客人が優しく断言した時、サラの「不可能(不信仰)」の扉が強制的に破壊され、「ガチャ-ン!」と崩れ落ちる音を、彼女は霊の耳で感じ取りました。そして暫くしてから、聖霊様は彼女の「霊」に語りかけます。「あなたは(さっきは)笑ったかも知れませんが、あなたの次に来るもの(未来に)は、イサクという名の、神による真の笑いを、あなたは受け取るでしょう!」と。


 聖霊様による、明確な「預言」を受け取った瞬間、彼女の両目からは「涙」が、溢れるばかりに流れ出ました。その涙には真実の「喜び」と「幸」、そして「笑い」と「希望」が光り輝いていました。客人の語った「一年後に」という、強烈かつ明確な言葉を、サラは遂に受け取ったからです。


 実際に彼女は、イサクを一年後に出産した訳ですが、聖書には彼女のその後の様子が、全く記されていません。どういうことでしょうか?実は記録が無い!ということの中に、私たちに対する「救い」のメッセージがあるのです。即ちサラはその後、主なる神の「全き領域」に入っている、つまり「信仰の扉」の先にある、神の「祝福の次元」を歩んだことを証しています。


 そうです!私たちも真の「希望」を与えて下さる方、主イエス・キリストに依り頼みながら、人々の中に「神の笑い」をもたらす、「神の民(霊的イスラエル人)」です!私たちが「サライ」のままであるなら、それは惨めな人生を過ごすことになります。しかし主なる神が、私たちを霊的「サラ(キリストの花嫁)」として召し出した以上、私たちを多くの魂を刈り取る、「祝福の源」として導かれていることを、信仰で受け取って下さい。


 あなたにも「神の笑い」が、日々豊かに訪れますように。人生の最後の時に至るまで、キリストの「証人」としての明確な「歩み」が、聖霊様の導きを通して確立されますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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